第6章「静かな傘の中で」(04)
――視点:慎吾
春光フェスティバルの前日。
図書館の閲覧室には、開館と同時に、町の人たちがちらほらと訪れ始めた。
慎吾はその日、「ありがとう文庫」のそばに、もうひとつの小さな机を置いていた。
その机の上には、古びた万年筆と、手のひらサイズのメモ帳、そして空き瓶が一つ。
瓶のラベルには、手書きでこう記されていた。
「声に出せなかったありがとうを、ここに。」
それは“投函箱”でも“展示”でもない。
ただ、“静かに存在を置いていく”ための場所だった。
慎吾が作ろうとしているのは、“発信”ではなく“沈黙を許す共有”。
それが、彼にとっての“感謝の形式”だった。
昼過ぎ、絵美が傘をたたみながら入ってきた。
その表情は、どこか柔らかくなっていて、慎吾はすぐに気づいた。
「昨日、手紙、書きました。……宛先はないけど」
そう言って、彼女は一枚の小さな紙を瓶の中にそっと入れた。
「読まれなくても、いいんですよね。
でも、“読まれてもかまわない”って思える気持ちになったことが、なんだか……不思議です」
慎吾は頷いた。
それは彼自身が、何年もかけて理解した感情だった。
午後、図書館に一人の少年が入ってきた。
数日前に姿を見かけた、あの中学生だった。
彼は棚の前でしばらく立ち止まり、「ありがとう文庫」を見つめていた。
慎吾は声をかけなかった。ただ、静かにその気配を受け止めた。
やがて少年は、慎重に棚から便箋を一枚取り、隣の机に座った。
慎吾はそっと距離をとり、その間を守るように動いた。
数分後、少年は紙を折り、瓶の中に入れると、図書館を後にした。
言葉はなかった。
でも、その背中はどこか、少しだけ軽くなったように見えた。
(これでいい)
慎吾はそう思った。
“ありがとう”には形も音もさまざまある。
でも一番大事なのは、“届けようと思った時間”そのものだ。
声にしなくても、誰かのなかで確かに残る感情。
夕方、閉館前の静けさの中で、慎吾は一通だけ瓶から紙を取り出した。
それは、たぶん絵美が入れたものではなかった。
見覚えのない、けれどどこか素直な筆跡。
「会えなくなったけど、ありがとう。
そのとき黙ってたの、いまなら、ちょっとだけわかる。」
慎吾はそれを瓶に戻しながら、ふと空を見た。
雲の切れ間から、うっすらと夕陽が差し込んでいる。
明日は、きっと晴れる。
きっと、“ありがとう”がちゃんと光を浴びる日になる。




