第6章「静かな傘の中で」(02)
――視点:慎吾
翌朝、図書館の開館準備を終えた慎吾は、カウンターに一枚の白紙を置いてしばらく考え込んでいた。
手紙の山を見つけて以来、彼の中にはひとつの考えがずっと残っていた。
(“ありがとうの手紙”、誰かに読んでもらった方がいいんじゃないか)
けれどそれは、ただ展示するだけでは意味がない。
“届いていない感謝”に、もう一度“耳”を持たせる。
そんな形にできないだろうか――
ふと、視線の先に昨夜絵美が置いていった詩集が見えた。
開いたページに挟まれていた付箋には、こう書かれていた。
「声じゃないありがとうを、読む。
読まないで、感じる。」
その日の午後、学校帰りの絵美が再び訪れる。
彼女は制服姿の生徒に混じって、図書館の奥の席に座った。
「今日、少しだけ時間あります。
……あの手紙たち、読ませてもらっていいですか?」
慎吾は頷いた。
そして、ラミネートしたものを数枚選び、彼女に手渡す。
絵美は、それを受け取ると、目を伏せて読み始めた。
「がっこうがきらいだったけど、
せんせいが“ひとりでもいいよ”っていってくれて、
それだけで、すこしやすめた。ありがとう」
「たぶんおれは、できないことばっかだけど、
“がんばってないわけじゃない”って、わかってくれてたの、
せんせいだけだったとおもう」
読み終えた絵美は、何も言わず、ただ静かに手を重ねていた。
慎吾がそっと差し出したのは、古い手製のノート。
そこには「図書館でひとやすみ帳」と書かれている。
「これ……昔、子どもたちが自由に落書きしてたノートです。
“ありがとう”や“今日あったこと”を何でも書いていい場所だったみたいです」
ページをめくると、「アイスたべたー」「せんせいにしかられたけどすき」「あしたもくるー」
そんな文字が、カラフルなクレヨンやボールペンで踊っていた。
そのなかに、黒いボールペンでこう記された一文があった。
「たいせつなことって、しずかにここにある。」
絵美は、涙をこぼすでもなく、ただ微笑んでその言葉を見つめていた。
閉館の少し前。
絵美は、ふと慎吾に向かってこう言った。
「ねえ、これ、図書館の一角に置きませんか?
“ありがとう文庫”って名前にして。
読みたい人は読む、書きたい人は書く。
それだけの場所。でも、きっと誰かが救われる」
慎吾は、目を見開いたあと、深く、確かに頷いた。
帰り際。
絵美は入口で傘を差しかけながら、もう一度振り返った。
「……私も、ちゃんと“ありがとう”って言える人になりたいです」
その背中に、慎吾は何も言わなかった。
ただ、手元のカードにこう書き込んだ。
『ありがとう文庫』設置案:承認。
実行日――春光フェスティバル当日朝。
静かな決意が、その字面に滲んでいた。




