第6章「静かな傘の中で」(01)
――視点:絵美
翌日も、雨だった。
細く、静かで、音を立てるでもなく降り続ける“やさしい雨”。
学校の廊下の窓から、その霞んだ空を眺めながら、絵美は教室に向かう足を止めた。
今日も一人、教室に来られなかった生徒がいた。
無断欠席ではない。保健室登校、というよりも、
保健室のベッドに身体だけを預けて、気配だけを残している――そんな感じ。
(“行く理由”って、何なんだろう)
授業を受けるため?
進路のため?
誰かに“ちゃんとした自分”を見せるため?
けれど今の絵美には、
“誰かと一緒にいてもいい”と思える時間が一番貴重だと思えた。
放課後、校務を終えてから再び図書館へ向かった。
雨は弱まり、傘はいらないほどの霧雨になっていた。
慎吾はカウンターに座って、貸し出しカードを静かに整理している。
「……来ちゃいました、また」
そう声をかけると、彼は驚くでもなく、ただ穏やかに会釈した。
絵美は昨日借りた本を返し、慎吾から差し出された新しい詩集を受け取った。
そのページをめくりながら、静かに読み上げる。
「言葉にしないまま、
風に乗ってどこかへ消えた感情を
私たちは“忘れた”とは呼ばない」
読み終えたあと、ふと視線をあげると、慎吾がじっとこちらを見ていた。
「……その子、まだ来てません」
絵美はそっと目を伏せた。
「たぶん、今は“言葉にしなくても伝わってる”って思いたい時期なんだと思う。
でも、それを“わかってほしい”とも思ってる。……矛盾してるよね」
慎吾は小さく首を振った。
“矛盾してることが、まっすぐな証拠だ”
そう言っているような表情だった。
絵美はその後、慎吾の提案で図書館の奥にある旧館スペースに案内された。
そこは普段は閉めきられており、古い資料や使われなくなった什器が積み上がっている場所だった。
慎吾がライトを灯すと、その棚の隙間に“手紙の束”が見つかった。
「……これ」
「子どもたちが、“ありがとう”を書いて投函してた“感謝ポスト”の中身です。
旧校舎のときに設置されてたもの。今はもう、誰も見ていなかった」
封を開けて中を覗くと、そこには、乱暴な文字で書かれた短いメッセージがあった。
「おこってくれてありがとう」
「いっしょに帰ってくれてありがとう」
「なんでかしらないけど、先生の声きいてるとねむくなる。ありがとう」
絵美の目尻がふるえて、指先が止まる。
「……なんで、こんなに、優しいんだろう」
声がかすれる。
自分のことを書かれたわけじゃない。
けれど、それは間違いなく“見過ごされがちな誰か”が“確かにいた”証明だった。
慎吾が手渡してくれたのは、ラミネートされた一枚の詩だった。
たぶん、かつてこの図書館で子どもたちに読み聞かせをしていた誰かが選んだものだ。
「ありがとうは、声じゃなくて、
時々、そばにいることだったりする」
帰り道。
絵美は、濡れた傘を閉じたまま、図書館の階段に少しだけ腰をかけた。
そして、空を見上げた。
(私、ずっと“ちゃんと”しようとして、
“ありがとう”の声を受け取る耳を持たなかったのかもしれない)
風が、静かに吹いた。
図書館のガラスが、その風を淡く返す。
その光の中で、絵美は自分の中にあった“泣きたかった気持ち”に、
ようやく名前を与えたような気がした。




