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第5章「立ち止まるための勇気」(05/End)

 

 ――視点:菜央

 イベント当日、午前九時。

  町のあちこちに、手作りのロゴ入りの小さな旗がなびいていた。

  その一枚一枚が、「ありがとうの町」を形にしようとする、誰かの手仕事の結晶だ。

「まにあいの間」の前にも、手書きで掲げた一文がある。

「ここは、“遅れて届く想い”の受付窓口です」

 店の中には、既に何人かの訪問客が足を踏み入れていた。

  親に言えなかった言葉、友人とすれ違ったままの記憶、

  会えなかった人に対する祈りのような“ありがとう”。

 菜央は、ゆっくりと、そのひとつひとつを見守っていた。

  “直す”でも“評価する”でもなく、ただ“見守る”。

  それが、今の彼女にできる最大の仕事だった。



 崇は、昼過ぎに戻ってきた。

  消防団の見回りを終え、制服姿のまま店の奥に入ってくる。

「人、多かったな」

「うん。意外とね」

「“ありがとう”って書いてみたいけど、“自分のために書くのが怖い”って人、多いかもな」

「そうだと思う。“ありがとう”って、受け取る側が“優しかった証明”になっちゃうから」

 崇はその言葉を受けて、しばらく黙った。

  そのあと、小さな紙片を手に取り、ボールペンで数文字書き込んだ。

 何も言わずに、それを掲示板の端に貼る。

  菜央がそっと目をやると、そこにはこう書かれていた。

「逃げたかった日々を、守ってくれてありがとう」

  ――崇

 その一文に、菜央は言葉を失った。

 けれど、それでよかった。

  “言葉にならない時間”こそが、今日のテーマだったから。



 午後三時。

  菜央は、来場者向けの小さなワークショップを開いた。

  題して「あなたの“ありがとう”、誰かに代わって伝えます」。

 子どもも大人も、筆ペンや色鉛筆を使って、一文ずつ丁寧に言葉を紡いでいく。

  その内容を、布製の「ありがとうバナー」に書き込んでいくことで、

  空間の中に“感謝の声”が視覚的に積もっていく。

 やがてそれは、ひとつの壁いっぱいに広がった。

「これ……旗みたいだね」

 ある女の子がつぶやいた。

「うん。“心の風見鶏”かな」

 と、菜央が答えると、その子はうれしそうに笑った。



 夕方。

  「まにあいの間」の窓を開けると、外の空気が柔らかくなっていた。

  湿気の奥に、ほんのわずかだが秋の気配がある。

 崇が、窓辺に置かれたアジサイを指して言った。

「これ、もうすぐ枯れそうだな」

「そうだね。でも、“枯れる”って、悪いことじゃないよ。

  次に咲くとき、もっと違う色になるから」

「……あのさ、菜央」

「うん?」

「今日は、ちゃんとありがとうを言いたい」

「わたしに?」

「そう。“立ち止まってもいい場所”を作ってくれたこと。

  それに気づかせてくれたこと。

  俺、ずっと、“走らなきゃ置いていかれる”って思ってた」

「……うん」

「でも、“立ち止まってる誰かを信じること”も、同じくらい大事なんだなって思った」

 その言葉に、菜央は深く頷いた。

  すぐには返事をせず、代わりにスケッチブックを開いた。

 そこに、彼女は“今日一番最後の言葉”を書いた。

「立ち止まった先に、誰かが待っててくれた。

   それだけで、また歩き出せる気がした」



 その夜。

  「まにあいの間」は、初めて灯りを消さずに一晩開放された。

  誰かが、誰かに、いつでも“遅れてもいい言葉”を預けられるように。

 風が、店の入口の短冊を揺らす。

「ありがとうって、やっぱり、言えてよかった。」

 それは、誰の言葉でもあり、

  きっと――崇と菜央、ふたりの言葉でもあった。


第5章「立ち止まるための勇気」

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