第4章「心の温度、空の色」(08/End)
――視点:祥平
イベント当日。
朝の空は雲一つなく、青の中に光が溶けていた。
祥平は、まだ人影の少ない会場で木の机を拭いていた。
昨夜のうちにまいが設営してくれた「ありがとうメモボード」の横に、少しだけ野菜の小箱を置いた。
並べたのは、畑で最後にとれた夏野菜。
きゅうり、ミニトマト、そしてあえて“少しだけ形の悪い”ナス。
それは祖父が生前よく言っていた“自然のまんまでええ”という言葉を思い出させるものだった。
(この机の上で、誰かが少しでも“心の整理”ができたらいい)
すでに何枚かのメモが貼られていた。
「部活のとき、拾ってくれた水筒、ありがとう」
「大人になった今も、あの味噌汁の味は忘れない」
「会いに行けなかった人へ。元気だったと聞いて、安心しました。ありがとう。」
一枚一枚、声にならなかった想いが、紙の上にそっと降りていた。
正午を過ぎ、写真展示のスペースは多くの来場者でにぎわっていた。
まいは、慣れない接客で少し疲れた顔をしていたが、時折見せる笑顔はどこか誇らしげだった。
ふと目が合うと、彼女が小さく手を振ってきた。
その視線が、テーブルの上へと導かれる。
祥平が頷いてみせると、彼女は静かに笑った。
その日の夕方。
片づけが進む中、祥平はひとつの紙片を見つけた。
自分の机のクロスの端に差し込まれていた、小さな文字の手紙。
「ありがとう、って言われなかったけど、
あの野菜、ほんとうにおいしかったです。
たぶん、あのひとの分まで、“ありがとう”って、言いたかったんだと思う。」
祥平は、その文字を何度も読み返した。
誰が書いたかは分からない。
だけど――
それは“自分の中にある、言えなかった言葉”そのものだった。
日が沈みきったあとの会場。
展示写真が一枚一枚取り外される中、最後に残された「沈黙の手」の前に、まいが立っていた。
「……やっぱり、この写真だけは、誰にもあげたくないな」
隣に立った祥平が言う。
「いいじゃん。あたしが“借りてるだけ”ってことにしてるから。
これは、あなたの“ありがとう”なんだから」
「……でも、これを撮ったお前がいなきゃ、俺は“何も変わらなかった”」
「そう?」
まいは微笑む。
「でも、変わったのは“あなた自身”でしょ?
わたしは、それを撮っただけ」
静かに、空が群青色に沈んでいく。
星が、まだうっすらとしか見えない。
けれど――
この町の空気には、
確かに“ありがとう”の色が混じっていた。
それは誰かの声であり、
誰かの背中であり、
そして、誰かの差し出した手のひらの温度だった。
帰り際。
まいが小さく呟いた。
「ねえ、祥平くん」
「ん?」
「今のわたし、たぶん――この町が、好きだよ」
「……ならよかった」
「なんで?」
「お前が“好き”って言ってくれると、俺もちょっと救われる気がするから」
最後にふたりは、使い終わったテーブルをトラックに載せながら、
夜風の中で一緒に深く息を吐いた。
明日からはまた、日常が始まる。
けれど、今日という一日は――
間違いなく、「ありがとう」でできていた。
第4章「心の温度、空の色」完




