第4章「心の温度、空の色」(06)
――視点:祥平
イベント三日前の夕方。
祥平は市場の裏手にある荷捌き場で、仮設屋台の位置をマーキングしていた。
白いチョークで書いた線は、陽が落ちるとともに輪郭がぼやけていく。
その様子を見ていると、ふと不安になる。
(……本当に、これでよかったんだろうか)
町の人が笑ってくれるだろうか。
誰かの“ありがとう”を受け止められるような空間になるだろうか。
そして、自分の“ありがとう”は――誰かに届くんだろうか。
「祥平!」
声の主は、まいだった。
彼女は大きな紙袋を抱えて、駆け寄ってくる。
「はい、これ! 新しいテーブルクロス! あの木の机に合うやつ探したの!」
「……そんな気ぃ遣わなくていいって言ったろ」
「気ぃ遣ったんじゃなくて、合いそうな柄に“出会っちゃった”んだよ。
そしたら、持ってくしかないじゃん」
紙袋の中には、草木染め風の麻布が折り畳まれていた。
落ち着いた生成色に、端だけ手縫いの赤い糸で縁取られている。
祥平は、思わずそれを両手で持ち上げた。
「……これ、どこで」
「内緒。たぶんバレるけど」
「ありがとう」
まいは笑わなかった。
代わりに、少しだけ真面目な顔をして祥平を見た。
「この布さ、きっと“主張しない”からいいんだよね。
野菜の色も、町の空気も、触れた手も、ぜんぶ受け止めてくれる感じがする」
祥平は、視線を落としたままうなずいた。
「……お前って、不思議だな。
なんでそんなに、“風の中”をちゃんと見れるんだ」
「風は見えないよ。
でも、“風が動いたあと”は見える。葉っぱが揺れるし、誰かの髪が跳ねるし、
あなたみたいに、言葉の代わりに手が動くから」
「……」
「それがあたしの仕事なんだよ、“風の痕”を撮ること。
あなたの背中を撮ったときも、あたし、すごく風を感じた」
言われて、祥平は黙ったまま、持っていたテーブルクロスを胸元で抱きしめた。
しばらくして、ぽつりと言った。
「……俺さ、たぶん、父親に“ありがとう”って言ったこと、一度もなかった」
まいは黙って待った。
「早くに死んで、病室でも何も話せなくて。
でも、畑を継いだのも、野菜をちゃんと作ってるのも、
本当は“その言葉”を言いたかっただけなんだって、最近ようやく思うようになった」
「……じゃあ、今、それを“届ける場所”があるって、すごいことだね」
「……うん」
「ちゃんと、言ってあげようよ。
直接じゃなくても、形にしてさ。
それが、誰かの“また言いたくなる気持ち”につながっていくなら、それって最高だよ」
陽が完全に沈み、空が藍色に染まりはじめていた。
ふたりの間を通り抜けた風が、クロスの端をふわりと揺らす。
「……なあ、まい」
「ん?」
「イベント当日、お前の写真の横に、この布、置いてもいいか」
「もちろん」
「……そんで、もし誰かが“これは何ですか”って聞いてきたら、なんて答える?」
まいは笑いながら、肩をすくめた。
「“ありがとうが触れる場所”って、答えようかな」
その一言に、祥平は初めて、まいの前で――
ほんの少しだけ、はにかんだ笑顔を見せた。




