第4章「心の温度、空の色」(01)
――視点:まい
「こっちの光、すごくきれい!」
まいはレンズ越しに朝の市場を覗きながら、小走りで露天の角へ回り込んだ。
手前には瑞々しいトマト、その奥には土の匂いが残る根菜たち。
その向こう、青い空と屋根の端。そこに柔らかい影が差し込んでいる。
シャッターを切る。
画面に浮かぶのは、ただの野菜ではない。“誰かが朝、手で並べた命”だった。
まいはそれを“風景”と呼んだ。
「撮るたびに、“ありがとう”って気持ちになるの、なんでだろ」
レンズを下ろして呟いたその声に、
「そりゃ、あんたがちゃんと“撮る対象に気持ちを寄せてる”からじゃないの?」
後ろから明美の声。
まいが振り返ると、買い物袋を持ったままの彼女が立っていた。
「おお、役場の人! 今日はプライベートですか?」
「お休みくらい私にもあるわよ。でも、気になるのよね……こういう準備の空気」
「空気、大事っすよね」
「あなた、こう見えて感覚派だけど、意外と観察力がすごいって噂になってるのよ」
「マジで?」
「“ありがとうを見つける目を持ってる”って、誰かが言ってた」
まいは照れくさそうにカメラを持ち直した。
「でも実際、あたし自身がずっと“ありがとうを探してる”って感じなんです。“これ!”って決めきれないというか、どこまで行っても正解がない気がして」
「それでいいと思う。“ありがとう”って、たぶん“答え”じゃなくて“感応”だから」
「感応……それ、今度ポスターに使っていいですか?」
「どうぞ」
ふたりは笑った。
そのあとも、まいは市場を歩いた。
ふとした拍子に目が合う人、微笑み返してくれるおばあちゃん、無言で荷物を渡してくれるおじいさん――
どれもが“言葉じゃないありがとう”に満ちていた。
写真に残せるのは一瞬だ。
でも、写真を“見る人の心”がその奥にあるものを感じてくれるなら、それでいい。
その日の午後、まいは撮影した中でも特に心を掴まれた一枚を選んだ。
夕方の光が入り込む農作業小屋で、祥平が黙々と手を洗っている写真だった。
泥が落ちていく指先。
肩越しに差し込む陽。
彼の顔は映っていないが、背中が語っていた。
「この人、たぶん言葉で語らないぶん、手で“ありがとう”を語ってるんだ」
写真のタイトルを付けるとしたら――
まいは画面にこう打ち込んだ。
『沈黙の手、ありがとうの背中』
そして、展示用にデータを送信しながら、そっと呟いた。
「……なんか、ちょっとだけ、わかってきたかも。あたしにとって“ありがとう”って、“誰かを好きになる入口”なんだ」
画面越しの光が、部屋をそっと照らしていた。




