第2章「風に乗ってくる声」(09/End)
――視点:紬葵
「できたの? あの旗の絵」
翌週の午後、春光町役場の一角。
文化課の応接スペースにて、明美が問いかけた。
「ええ。布地はあの古民家に張ってあるわ。だけど、あれは“作品”じゃなくて、“気配”なの」
「気配?」
「言葉にするのが難しいけど……“ありがとうの絵”じゃなく、“ありがとうが吹いてる空気”みたいなもの。誰かの言葉を代弁するんじゃなく、ただ耳をすませた結果、筆が動いたって感じ」
明美はしばらく沈黙し、ふと表情を緩めた。
「……そういうの、嫌いじゃない」
「でしょう?」
ふたりは目を見合わせ、ふっと微笑んだ。
明美が立ち上がり、書類の束の中から一枚のファイルを取り出す。
「実はね、町長と話したの。“春光フェスティバル”という名前をそのまま使うかどうか、議論になったの」
「それって……?」
「“春光フェスティバル”って、もう一度燃やすには大きすぎる名前かもしれない。過去の期待、過去の失敗、過去のしがらみ……全部背負ってるから。だから、少し軽く、でも芯のある名前が必要なんじゃないかって」
「……わかる気がする」
「でね、あなたの絵を見た町長が、ぽつりと呟いたの。“この町の風って、どこから来てるんだろうな”って。それを聞いて、私、ふと思ったのよ。“風の在処”――それが、答えなんじゃないかって」
葵は、はっと息を呑んだ。
「……それ、私がずっと考えてた言葉」
「そうだったの?」
「うん。絵の裏に、小さく描いたの。“風の在処”。答えのない言葉だけど、誰かの中にきっと届くって、そう思って」
明美は小さくうなずいた。
「なら、それでいきましょう。“風の在処”。今のこの町に必要なのは、“祭り”じゃない。“風を感じる時間”なのよ。誰かの気持ちが、ふっと通り過ぎるような……そんな余白のある時間」
「じゃあ……これからは、“春光フェスティバル改め『風の在処』”?」
「ええ。“ありがとう”という言葉が主役じゃなくて、“ありがとうを探す時間”が主役になる。そんな町に、私たちで変えていきましょう」
葵は、静かに、しかし強く頷いた。
その夜、葵は久しぶりに筆を握らず、ただ窓の外の風を眺めていた。
過去の後悔は、まだ完全に癒えてはいない。
それでも――筆を握れるようになったこと、それは確かな“再生”だった。
ふとスマホを手に取り、誰にも送らないメッセージを打った。
件名:ありがとう、届いてるよ
本文:
あの日の絵を見ていたあなたへ。
あの時、わたしはまだ未熟で、誰かの“ありがとう”をちゃんと受け止める力がなかった。
でも今なら少しだけ、描ける気がします。
ありがとうの在処。
それを、もう一度、町の風景に残していきたい。
送信ボタンは押さない。
それでよかった。
これは“誰かに見せるため”じゃなく、“自分の中にしまっておくため”の手紙だった。
そして、夜の窓から吹き込む風が、髪をやさしく揺らした。
まるで――その気持ちを、そっと撫でてくれるかのように。
第2章「風に乗ってくる声」完




