第2章「風に乗ってくる声」(07)
――視点:紬葵
「それじゃあ次は、ここにロゴの主線を置いていきましょうか」
筆を握りしめ、葵は大きな布に集中した。
構図はすでに頭の中にあった。真ん中に広がるのは、町を見下ろす丘の上の風景。そこから放射状に、風の線が伸び、川や学校、商店街、畑、空き家、そして人々の姿へと繋がっていく。
しかし、不思議なことに――中心に描く“何か”だけが、まだ決められないでいた。
「……なにかが、足りない」
葵は筆を止め、キャンバスの前に立ち尽くした。
これまでの作品と違い、今回の絵には「描くべき正解」がない。
だけど、それでも“中心”を描かなければ、全体が締まらない。風は吹くだけじゃだめだ。その風が“どこへ向かうのか”を描かねばならない。
そのとき――
「葵さん、ちょっとだけ時間いいですか?」
声をかけたのは、まいだった。
元気なイメージの強い彼女が、少しだけ真面目な表情を浮かべていたのが印象的だった。
「いいわよ。どうしたの?」
「……この写真、見てもらえませんか」
まいは、スマートフォンを差し出した。画面には、土手の写真が映っている。
春の日差しに照らされる風景の中で、小さな女の子が祖母らしき女性の手を握って歩いていた。ふたりは同じ歩幅で、笑っているようにも、ただ黙って歩いているようにも見える。
「昨日撮ったんです。あまりに静かで、あまりに温かかったから、シャッターを切ったんですけど……なんか、これ見たときに、思ったんです」
「なにを?」
「“ありがとう”って、日常に溶けてるなって。派手じゃないけど、あの子も、おばあちゃんも、きっと何かを分け合ってたんだって……あの空気を、写真じゃなくて、絵にしてみたいって思ったんです」
葵は、しばらく画面を見つめたあと、そっと息を吸った。
「……ありがとう、まいちゃん。きっと、それが答えだったんだと思う」
「えっ?」
「描きたい“中心”が、今わかったの。ありがとうって、誰かの“手の中”に宿るものなのよ」
そう言って葵は、再び布の前に戻った。
筆先にインディゴブルーの絵の具をのせると、中央へ――
すっと、一筆。
そこに現れたのは、小さな子どもの手と、大人の手が重なっている絵だった。
手と手が、ただ握り合っているだけ。言葉はない。でも、その一握りに、すべての“ありがとう”が宿っていた。
その瞬間、まいがぽろりと涙を落とした。
「なんでだろ……なんか、すっごく、あったかくて……」
「それはね、きっとあなたの中にも、そういう風が吹いたからよ」
葵の言葉に、まいは黙ってうなずいた。
そしてその絵が、その日から“春光フェスティバル復活”の象徴として、古民家の入口に飾られることになった。
看板やキャッチコピーはまだない。企画書も正式に通っていない。
でも、そこにある一枚の絵が、確かに何かを語り始めていた。
風は、誰かの声を運ぶ。
風は、誰かの記憶をほどく。
風は、ありがとうの種を落とす。
その絵の前で足を止めた誰もが、気づかぬうちに微笑んでいた。




