第2章「風に乗ってくる声」(06)
――視点:紬葵
それから数日後。
葵は、ふたたび絵の前に立っていた。
場所は、例の古民家――匠真たちが拠点にしようとしている、町外れの空き家だ。
修繕作業の合間を縫って、少しずつ空間が整っていく様子は、まるで「町の記憶」を手作業で掘り起こすようだった。
「……ここが、新しいキャンバス」
埃をかぶった木の床に、養生シートを敷いて。
白地の大きな布を広げる。
今回描くのは、いわゆる“ロゴ”や“アイコン”ではない。
けれど、そのビジュアルが町の人々に語りかける“旗印”になるように――
葵は深呼吸をして、筆をとった。
その日、古民家には数人の若者が出入りしていた。匠真、奨、そして知らない顔の女の子――
「こんにちは。あっ、あれが紬先生? 本物だー!」
軽やかな声。明るくて、迷いがない。
聞けば、彼女は奨の知人で、地元の写真愛好家のまいというらしい。
「先生って呼ばれるの、やっぱり慣れないわね……葵でいいわよ」
「あっ、じゃあ、葵さん! 私、まいっていいます! ここ、すっごく雰囲気いいですね。写真展とかもできそう!」
「それ、いいかも」
葵は素直にそう思った。
場所は、何をするかで輝きを変える。
この町の、何気ない表情を写し取ってくれる人がいれば、きっとそれもまた“ありがとう”の一形態になる。
ふと見ると、匠真が照れくさそうに笑いながら、あちこちに資料を広げていた。
「ごちゃごちゃしててすみません……。でも、いまの混沌が、いちばん“始まり”らしい気もするんですよね」
「その感じ、絵にも似てるわ」
「似てますか?」
「ええ。最初は、何も描かれてない“ただの空間”だけど、誰かがそこに色を置き始めると、景色ができてくる。……そこに、“誰かの気持ち”が宿り始めるの」
匠真は、少し考えるような顔をしてから、小さく笑った。
「……その“色”を持ってこれる人が、もっといたらいいな」
「来るわよ、きっと。だってあなたの熱は、ちゃんと人を動かすから」
「……ありがとうございます」
陽が傾きはじめる頃、葵は筆を洗いながらふと窓の外を見た。
土手を吹き抜ける風が、桜の枝を揺らしている。
やがてその枝先から、花びらがふわりと一枚、飛んで、窓から入り、そっと彼女の足元に落ちた。
「これは……描けってことかしらね」
葵は笑いながら、もう一度、筆を取り上げた。
次の一筆は、“風の在処”を探すための筆。
それは、もう自分の中だけに向けた絵ではなかった。
風の吹く場所へ、ありがとうが流れていく。
葵の絵は、静かに、しかし確かに、その道を描き始めていた。




