第1章「祖父の手紙と町の記憶」(01)
庭に出ると、土の匂いが鼻をくすぐった。書斎の中とは違い、外の空気はすっかり春の気配に満ちていた。匠真は縁側に腰を下ろし、手紙をもう一度読み返した。
「ありがとうを形にする町にしたかった」
簡潔で、まるで言葉を絞り出すように書かれている。祖父がどんな思いでこの一文を綴ったのか、それは本人にしかわからない。でも、匠真にはその“重さ”だけが、妙にはっきりと伝わってきた。
「……形にする、って、どういう意味なんだろ」
感謝の言葉を、イベントとして?仕組みとして?記念碑とか、博物館とか? いや、そういうことじゃない気がする。
祖父のことを思い返す。いつも小さなことでも「ありがとうな」と言ってくれる人だった。例えば、朝顔に水をやっただけで「助かるなあ」と言い、晩ごはんの茶碗を下げると「ありがとな」と笑った。
それが当たり前のように、自然にできる人だった。
「じいちゃんは、“ありがとう”を……文化にしたかったのかな」
ふと、子どものころの記憶が蘇る。幼い自分を肩車してくれた、祭りの夜。ちょうちんの明かりの中で、たくさんの人が笑っていた。屋台の匂い、笛の音、浴衣の女の子の笑い声。そのすべてが温かくて、まるで夢みたいな光景だった。
あれが、春光フェスティバルだった。
あの夜、祖父が町の中心に立ち、舞台の上で笑いながら「みんなにありがとう!」と叫んだ姿――。
「……あれが、じいちゃんの“形”だったんだ」
ふと、胸の奥が熱くなった。あのときの記憶が、まるで昨日のように思い出される。それは、忘れていたわけじゃなく、いつの間にか“心の奥”にしまわれていたのかもしれない。
匠真は、祖父の書斎に戻り、机の上に手紙を丁寧に置いた。
「じいちゃん、俺……もう一度、この町を“ありがとう”で満たしてみたいよ」
言葉に出した瞬間、心に灯るものがあった。はっきりとした目的なんて、まだ何もなかったけれど、始まりの一歩にはなった。
「春光フェスティバル……もう一度、やってみようかな」
そう呟いたとき、窓の外で風が枝葉を揺らし、桜の花びらが一枚、ふわりと書斎に舞い込んだ。