第2章「風に乗ってくる声」(05)
――視点:紬葵
日曜日の午後。
葵はエプロン姿のまま、小さなカフェギャラリーの壁に絵をかけていた。
「“ありがとうの風景”、これでここの展示は三ヶ所目ね……うん、いい感じ」
このカフェは、春光町でも数少ないギャラリースペースを備えた場所だ。
オーナーの女性は元々市外の美大出身で、町に移住してきた人だった。葵とは“表現”という共通語で繋がっており、互いに無理のない距離感で協力し合える仲だった。
「紬さんの絵、すごく“余白”がいいよね」
「ありがとう。“語りすぎない”って、最近の私のテーマなの」
壁に掛け終えた絵を見上げると、陽の光で少しだけ色が変わって見えた。
それはまるで、絵が本当に“この場所の空気を吸っている”かのようだった。
そのとき、カフェの扉が小さく開き、見覚えのある姿が現れた。
「……あっ」
葵が振り向くと、そこにいたのは匠真だった。
手にはメモ帳と、使い込まれた地図。
彼は少しはにかんだように笑いながら近づいてきた。
「葵さん。偶然……じゃないです。来るって聞いてたので、ちょっとだけ時間作ってもらえませんか」
「もちろん」
ふたりは空いたテーブル席に腰を下ろすと、カップに注がれたハーブティーの香りがふんわりと広がった。
「……あの絵。学校で見たときも思ったんですけど、やっぱり……何て言うか、“風”を感じるんです」
「うれしい。私、風って“誰かの気持ち”にすごく似てると思ってるの。目に見えないけど、ちゃんとそこにあって、人と人の間をそっと通り抜ける」
「たしかに。祖父の言葉にも、風がよく出てきました。“ありがとうは風のように届く”って。意味は分からなかったけど……今は、少しわかる気がする」
言葉を交わすたび、匠真の表情には、以前よりも確かな輪郭がついてきた。
誰かの想いを背負っているだけじゃない。自分の言葉で、自分の立ち位置から未来を語ろうとしている。
その変化は、どこか葵のなかで“懐かしさ”すら呼び起こすものだった。
「今日は……一つお願いがあって来ました」
「お願い?」
「葵さんの絵を、フェスティバルのロゴビジュアルに使わせてもらえませんか」
その提案に、葵は驚いた顔を見せた。
「私の……?」
「はい。もちろん、無理にとは言いません。でも、あの絵には、“言葉じゃないありがとう”がある気がして。それを、この町の顔にできたらって……ずっと、そう思ってたんです」
葵はしばらく考え、そっと口を開いた。
「……描き直しても、いい?」
「え?」
「“あのときの風”はもう描いたの。でも、今なら“これから吹く風”が描けそうな気がする。あなたたちと関わって、やっと私は、“もう一度筆を持ってもいい”って思えたのよ」
匠真は言葉を失ったように見つめていたが、すぐに深く頭を下げた。
「……お願いします。どんな風でも、“葵さんの描く春光町”が見たいです」
葵は微笑んで頷いた。
「じゃあ……私は、あなたたちの“旗”を描くわ」
その言葉に、カフェの窓辺をまた風が通り抜けていった。
絵描きの心に再び灯った“風の色”。
それは、確かに春光町を変えるひとつの始まりとなった。




