第2章「風に乗ってくる声」(04)
――視点:紬葵
絵筆がキャンバスを走るたびに、何かが体から抜けていくような気がした。
肩の力が抜け、頬に汗が伝い、空気が濃くなる。
「葵先生、まだ描いてたんですか?」
ドアを開けて顔をのぞかせたのは、卒業を間近に控えた女子生徒、白石千紗だった。
「うん。ちょっと……久しぶりに、自分の絵を描いててね」
「それって、自分のための絵ってことですか?」
「……そうね。そうかもしれない。いままでは誰かに見せることばっかり考えてたけど、これはちょっと違うの」
千紗は、それを聞いて目を丸くした。
「でも、先生、楽しそう」
「え?」
「私が初めて見たときの先生、すっごい真面目で、正しそうで、カッコよかったんですけど……なんか、今日の先生はもっと、好きです」
葵は、一瞬言葉を失い、思わず筆を止めた。
「そっか……ありがとう、千紗ちゃん」
「はいっ」
にっこり笑って出ていく千紗の背を見送りながら、葵は改めて、もう一度筆を取った。
“誰かに伝えるため”じゃなく、“自分が確かめるため”。
ありがとうの形は、きっと一つじゃない。
絵にする人もいれば、言葉にする人も、行動に変える人もいる。
だけど――それが“嘘じゃない”って、自分自身が納得できる形であることが、一番大事なんだ。
数日後。
その絵は完成した。
A2サイズのキャンバスに広がるのは、どこかの町の川沿いの風景。
揺れる菜の花と、桜の枝。風に舞う色と、どこかへ歩いていく後ろ姿の親子。
人物は後ろ姿だけ。それでも、見れば誰かがそれぞれの記憶を重ねたくなるような、曖昧だけど懐かしい構図だった。
校長に相談し、その絵は学校の昇降口の掲示板に飾られることになった。
「“ありがとうの風景”か……いいタイトルですね」
掲示の際に手伝ってくれた教頭がそう呟いた。
「ありがとうございます。でも、これ、まだ途中なんです」
「途中?」
「本当の完成は、たぶん、これを見た誰かの中に“何かが芽生えたとき”ですから」
葵は、そう言って微笑んだ。
掲示されたその日、生徒たちは「先生の新作?」「えっ、これ町の桜?」「親子って……もしかして」と、思い思いに話しながら絵の前に立ち止まっていた。
その様子を少し離れた職員室の窓から見ながら、葵は小さくつぶやいた。
「……ありがとうって、ちゃんと届くものね」
その瞬間、風がまた窓を通って吹き抜けていった。
今度は、絵のなかの風景と、校舎を通る春の風が、同じ匂いを持っている気がした。




