第2章「風に乗ってくる声」(03)
――視点:紬葵
次の週の金曜、美術準備室の奥、誰も使わなくなった古い引き出しを整理していた葵は、1枚の古びたパネルを見つけた。
画材の汚れで変色したスケッチボードの裏に、マジックで大きく「SHUNKOU FESTIVAL 2010」と書かれている。
(……あの年)
思わず手が止まる。
15年前、自分が春光フェスティバルでライブペイントに挑んだ年だった。
そのとき描いたのは、巨大なタペストリー。町の人々から“ありがとう”の一言をもらい、それを全部絵のなかに盛り込むというコンセプトだった。
パン屋のおばさんは「朝の匂いにありがとう」、小学生は「お母さんのごはん」、お年寄りは「ここまで生きてきたことに」――
寄せられた言葉は、どれも不器用で、でもまっすぐで。
――それが、描けたのだ。あの時の私は。
けれど、フェスティバルが中止になったあの年以降、あのときの熱量が、筆先からすり抜けるようになっていた。
描いても描いても、なにか足りない気がして。
「上手いね」と言われても、「綺麗ね」と褒められても、どこか“誰のための絵か分からない”という感覚が残っていた。
「……わたし、あのときの自分を、ちゃんと認めてなかったんだな」
ぽつりと呟くと、なぜか涙がこみあげてきた。
引き出しの底から、色褪せた写真も出てきた。
フェスの当日、背景のタペストリーの前で、ペンキだらけのTシャツを着た自分が笑っている。
その隣には、見覚えのない小さな男の子――いや、今なら分かる。
(……これ、匠真くんだ)
母親に手を引かれながら、じっと絵を見上げている少年。
その視線が真剣で、どこか感動しているようで、葵の心の奥を鋭く刺した。
「あの子が、いま私の前に来たんだ……」
時間は一方向にしか進まない。
でも、心はときどき、風に乗って過去に戻る。
あの絵を見ていた少年が、いま、自分と一緒に“町を変えよう”としている。
これは偶然ではないのかもしれない。
いや――必然だ。
そう思いたい。
その日の放課後、葵は絵筆を持ち、美術室にキャンバスを広げた。
何を描くのかは決まっていない。
でも、何かを描かなければいけないという衝動だけが、体の奥から湧き上がっていた。
手が動き出す。
筆が走る。
色が滲む。
それは、過去を清算する絵ではない。
未来へ向けて、風にのせて誰かに届けるための“はじまり”の絵。
紬葵は、ようやくまた、自分の絵を描き始めていた。




