第2章「風に乗ってくる声」(02)
――視点:紬葵
その翌日。
美術室の掃除を終えた午後遅く、葵は川沿いの土手に立っていた。
両手をポケットに突っ込み、柔らかな陽射しを頬に受けながら、ゆっくりと歩く。
視線の先には、風に揺れる草花と、遠くで遊ぶ子どもたちの姿。そして、橋のたもとに腰を下ろして、スケッチブックを広げている男がいた。
「あら、もう来てたのね」
葵が声をかけると、匠真は少し驚いたように顔を上げた。
「紬先生……いえ、葵さん。あ、呼び方って、どっちがいいですか?」
「どっちでもいいけど……今この場では“先生”はちょっとくすぐったいかな。じゃあ“葵”でいいわよ」
「じゃあ……葵さん」
その呼び方に、彼の声がわずかに緩んだ。
「ここ、いい場所ですね。風も気持ちいいし、なんか“何か描きたくなる”っていうか」
「わかる。私もよく来るの。実は、あの向こうに見える桜の木の下、昔フェスティバルのときにライブペイントした場所なのよ」
「あ、あの木のところですか? ……すごい。今でも、そんなふうに話せる場所が残ってるんですね」
「町って、思い出を保管してくれる箱みたいなものなのよ。だから“再生”って、壊れたものを修理するってより、“しまってたものを取り出す”って感じ」
匠真はゆっくりと頷いた。
「……その言葉、もらっていいですか? あとでメモしときます」
「いいわよ。ふふ、使い道はちゃんとあるのかしら」
ふたりは並んで歩いた。言葉は少なかったが、沈黙が心地よいものに感じられた。
やがて、小さなベンチが見えてくる。そこに並んで腰を下ろすと、夕風がまたひとつ強く吹いた。
「ねぇ、匠真くん。もうすでに、何人か協力者はいるの?」
「はい。大学の友人の奨ってやつが、めちゃくちゃ動いてくれてて。俺が右往左往してる間に、地域の団体にも声かけ始めてるらしくて」
「ふふ、しっかりした友達を持ったのね」
「ほんと、俺にはもったいないくらいで……でも、だからちゃんとしたいんです。俺が中途半端だったら、動いてくれた人たちに申し訳ないから」
その“責任感”を聞いて、葵はほんの少しだけ眉をひそめた。
「ねぇ、ひとつ聞いていい? あなたにとって“ありがとう”って、何?」
「え……?」
「言葉? 感情? それとも、結果?」
匠真はしばらく黙り込み、遠くの山を見つめた。
「……誰かが、俺のために何かしてくれたときに湧いてくるもの……かな。でも、それだけじゃなくて……“そばにいてくれてありがとう”とか、“一緒に何かできてありがとう”とか……うまく言えないけど、結果よりも“関係”かもしれない」
「なるほど。“ありがとうは関係性で生まれる”ってことか。面白いわね。だったら、“ありがとう”って、芸術にもなるかも」
「芸術?」
「そう。作品って、作者だけじゃ完成しないでしょ? 受け取る側がいて初めて、成立する。感謝も同じ。相手がいて、関係があって、それが“ありがとう”という形になる」
「……なるほど……すごい、なんか感動したかも」
葵は、ちょっとだけ照れくさそうに肩をすくめた。
「言葉を交わすだけじゃなくて、風に乗ってくる気持ち、みたいなもの。それを大事にできたら、きっと、この町はもっと豊かになると思うの」
「そうなったら、絶対いい町になりますよね」
「うん。でもね、無理は禁物よ。“ありがとう”って、押しつけるものじゃないから」
「……肝に銘じます」
ふたりは風に吹かれながら、日が落ちていく川を見つめていた。
流れる水の音。鳥の声。風に揺れる草のささやき。
どれもが、静かにふたりの心に“何か”を残していた。
それはまだ、言葉にならない。
でも、確かに“始まっている”。




