第2章「風に乗ってくる声」(01)
――視点:紬葵
「へぇ……あなたが匠真くん。真一さんのお孫さんだったのね」
「はい。祖父の書斎から、手紙を見つけたんです。“ありがとうを形にする町にしたかった”って」
放課後の美術室には、ゆっくりとした時間が流れていた。葵は、職員室から持ってきた紙コップのカフェオレを匠真に差し出し、自分も一口すする。
窓の外では夕陽が差し始めていた。スケッチブックの山、乾いた絵筆の束、壁に飾られた生徒たちの作品たち。その中で、匠真の言葉だけが、異質に、しかし心地よく響いていた。
「それで……春光フェスティバルを復活させたい、と?」
「はい。……まだ具体的には何も決まってないんですけど。でも、何かを始めなきゃ、きっと何も変わらないままで終わっちゃうから」
まっすぐで、少し不器用な語り口。
それを聞きながら、葵はふと、昔の自分の姿を思い出していた。
「ねぇ匠真くん。あなた、誰かに“感謝を伝えたかったけど伝えられなかった”ことってある?」
「……あります。祖父です」
すぐに返ってきた答えに、思わず息をのむ。彼は、言葉にすることを恐れていない。たとえそれが、自分の未熟さや後悔だとしても。
「亡くなったとき、俺、何もできなかったから。だから……その分も込めて、やりたいんです。あの人が見たかった町を、俺の手で少しでも形にしたい」
葵は、その目をじっと見つめた。
(きっと、私はこの目を知っている)
十五年前のフェスティバル、まだ自分が学生だった頃。町の広場に張り出された巨大なキャンバスに、思い切りペンキをぶちまけていた自分。その横で、小さな男の子が絵を見上げていた。母親の手を握りながら、笑っていた。
(もしかして……あれがこの子だったのかもしれない)
「……ねぇ、匠真くん」
「はい?」
「私ね、実はあのフェスが終わってから、一度もちゃんと絵が描けてないの」
その言葉に、匠真の目がわずかに見開かれた。
「えっ、でも……先生は美術の先生ですよね?」
「うん。だから“描いてはいる”の。でも、あの時みたいに、“心のままに描く”ってことが、できなくなった」
葵は笑ってみせたが、それはどこか寂しさを含んでいた。
「大人になるとね、どうしても“描くこと”に意味や役割を求めちゃうの。“上手く描かなきゃ”とか、“見せなきゃ”とか。そうしてるうちに、自分のペースが崩れてきちゃって」
「……それ、わかる気がします」
匠真はうつむき、少し考えてから言った。
「俺も、祖父の夢を受け継ぎたいって言いながら、正直、怖かったんです。“ちゃんとやれるのか”って。誰かに笑われたらどうしよう、とか。けど、やっぱり諦めたくなくて」
葵は、その言葉を受けて、ふわりと微笑んだ。
「そういうの、大事だよ。怖さって、本気の証だから」
夕陽が、教室の壁に長い影を落としていた。
「私でよければ、少しだけ手伝ってもいいわよ。なんだか、久しぶりに“ちゃんと描きたい”って気持ちが出てきた気がするの」
「……本当ですか?」
「本当。でも、私のペースでね。私はね、誰かの“ありがとう”を無理に演出するんじゃなくて、そっとすくい上げたいの。そういうのを絵にできたらいいなって、今は思える」
匠真は、大きく頷いた。
「……ありがとうございます。ほんとに、ありがとう」
「うん。“ありがとう”って、言われると、なんかあったかいよね」
ふたりは顔を見合わせ、笑った。
その瞬間、春の風が窓から吹き抜け、机の上のスケッチブックがふわりとめくれた。
そこに描かれていたのは、生徒の手による、町の風景。
まだ色も線も不格好だけど、それがなぜか一番、町らしく見えた。




