第2章「風に乗ってくる声」(00)
――視点:紬葵
風の音が好きだった。
春になると、春光町の川沿いには菜の花が咲き、土手に立って耳を澄ませば、遠くから列車の音といっしょに、風が心に触れてくる気がする。
そんな日は、何も描けなくても、スケッチブックを広げるだけで気持ちが落ち着いた。
紬葵は、美術室の窓を開け放ち、柔らかな日差しのなかで椅子の背にもたれかかっていた。
「先生ー、来週の課題って何でしたっけ?」
振り向くと、制服のシャツをたくし上げた男子生徒が、顔をしかめて首をかしげていた。
「あら、ちゃんとメモしてなかったの? “自分が日常で大切にしてる風景”って言ったわよね?」
「うわ、出た、ふんわり系課題!」
「いいじゃない、ふんわり。ギスギスしてるより、よっぽど気持ちいいわよ」
「うーん……でも俺、家とコンビニと学校しか行かないし」
「それが君のリアルなら、それでいいのよ。“ふんわり”は“適当”じゃないからね」
生徒たちは笑いながらも、どこか安心したように教室を出ていく。
――自分のペースで、自分の世界を広げていけばいい。
そんな風に思えるようになったのは、きっとこの町のおかげだった。
春光町に引っ越してきたのは五年前。東京での慌ただしい日々に疲れ、美術系の大学を出たものの、教師になるつもりなどなかった。けれど、気づけばこの町の静けさと、生徒たちの素直な目に惹かれていた。
「……なんか、空が近いのよね」
美術室の窓からは、川と桜並木、それから遠くの山の稜線まで見える。風にゆれる木々の音や、鳥の鳴き声、誰かの笑い声が溶け合って、世界の輪郭がほどけていく。
そんな穏やかな午後――
「すみません、あの……ここに、紬先生っていらっしゃいますか?」
突然、教室の扉の向こうから声がした。
見覚えのない青年。整った顔立ちに、少し気後れしたような態度。そして――どこか見覚えのある、目の奥の“熱”。
「……あなた、春光町の人?」
「はい。匠真といいます。今、春光フェスティバルを復活させようとしていて……紬先生が昔、フェスで絵を描いたと聞いて、それで……お話を伺えればと思って」
「……あらまあ、懐かしい話をするのね」
葵はふっと笑い、窓辺から立ち上がった。
「じゃあ、お茶でも飲みながら聞く? 私も、あの頃の話ならちょっとだけ、できるかもしれないわ」
そのとき、教室の外から風が入り込んだ。
懐かしい匂いがした。絵の具と、土と、春の風の匂い。
15年前の自分のなかで止まっていた何かが、ふと動き出す音がした――




