幻聴資本
どうしたって資本主義には勝てないの。あなたがどれだけ資本主義を嫌って、どこかの大きな資本に攻撃をしかけた気になっても、資本はそういった衝撃でさえ、残酷なまでの寛容さによって吸収しさらなる肥大化を遂げてしまうの。私たちはどこまでいっても資本の懐で生まれたら死ぬまで資本の中にいつづけるの。もしかしたら死んだあとだって、その世界もまた別の資本の懐のなか、あるいは私たちと同じ資本の地続きにあるのかもしれないわ。
客入りのいい喫茶店だった。喫茶店なので広いわけではなかった。落ち着いた雰囲気の店内に、ボウリング場のエコーがずっと響いていた。一応いうと、店内にボウリング場はなかった。僕はイタリア産の豆をつかったコーヒーを飲みながら、次元的に遠いレーンで力強くピンが倒される音を聞き、その反響して伝わる音像のなかに、さっきの資本主義について話す声を聞いていた。女性の声だった。本を読むときの、頭で再構築される霧のような声だった。これは同じ文言が繰り返し再生されているのだと思う。でも誰に対し宛てられたものなのかは不明だった。確かにこの喫茶店で、ボウリング場とその奥にある資本主義の声が聞こえているのは僕だけなのだろうけど、僕はまったく資本主義に盾突くどころか、今こうしてお店のコーヒーを飲んでいる。音楽だって聞くし、ジャンルによっては、まさにこの声の言うようなことが起こったのを知っている。
理由を求め、こんな事態にまともに取り合おうとすること自体、僕は幻聴になぜここまで慣れてしまったのだろう。幸い、ボウリング場の方は、そのエコーがプール酔いみたいな感覚を呼び起こすので好きだった。
港というほどでもない桟橋の上に、静かな早朝のあいだ目的なく立っていると、なんというべきか、特に悪いこともない悪寒を誘う街の声が、耳の浅い鼓膜部分を直接震わせるのだった。クレーンが鉄骨を落としたときの残響。あるいはこのあいだの喫茶店に起きたボウリング場の反響。あとは資本主義の声が足りなかった。いや必要ないだろう。必要なのだろうか? そんなにステキな声だったろうか? 考えてみれば幻聴で声がすることがあっても、自分以外の声がするのは初めてのことだった。幻に覚える差異など、常に形が流動しているからまったく確かなものではないはずなのに。こういうのをジャメヴというらしい。桟橋を超えて海の水が靴を濡らした。水面は早朝を抜け出そうと動きを大きくし始めている。ジャメヴは未視感で、今は幻聴が聞こえているわけだからもしかして言葉が違うのか? ─言葉の器はそこまで小さくはないはずだ。対話でないからこそ言葉は自分がとれる最大限自由だ。だからこそ拘るのか取っ払うのか、お前は今どこまでも自由なはずだ。─
どうしたって資本主義には勝てないの。あなたがどれだけ資本主義を嫌って、どこかの大きな資本に攻撃をしかけた気になっても、資本はそういった衝撃でさえ、残酷なまでの寛容さによって吸収しさらなる肥大化を遂げてしまうの。私たちはどこまでいっても資本の懐で生まれたら死ぬまで資本の中にいつづけるの。もしかしたら死んだあとだって、その世界もまた別の資本の懐のなか、あるいは私たちと同じ資本の地続きにあるのかもしれないわ。
資本主義の声はやはり何度も同じ文言で再生されていた。これはそんなに大切なことだろうか。彼女にしてみれば大切なのだろう。繰り返すということはつまりそういうことだ。でもこれを唱えて何になるというのか。あるいは悲痛な叫びなのだろうか。他に何も、どうしようもないから延々と同じことを繰り返す。そうなのかもしれない。ここまでずっと他人のフリを貫いてきた僕だったが、理解よりもずっと奥の地、言葉で言い表せないくらい深い部分で小さな共感を覚えていたのは、きっと彼女が声に込めた感情のせいであり、その微細な共感を四捨五入して切り捨てようとしていた、僕の感受性が死にはじめているからこそ初めて幻聴の他人を生み出したのかもしれない。