ハリモトさん
昼休み開始のチャイムが鳴ると、私はいつもホッとして、ようやく呼吸ができるような気分になる。
小さなバッグを持って、いつも会社から外へ出る。お昼は近くのお弁当屋さんで買い、公園のベンチで食べるのが通例だ。
廊下を歩いていると、会社のひとたちが皆、うんこが服を着て歩いているのを見るように、あからさまに嫌悪を顔に表して、私のことを見る。慣れることはないが、やり過ごせばいい。私にはどうすることもできないのだから。
公園には私を知っているひとが誰もいなくて、小鳥が平和に囀っていた。
小鳥たちの声はあかるい。汚い噂話を流すことはない。
海鮮天丼に心が安らぐ。ほっかほかのごはんにサクサクの色んな天ぷら、体に染み込むような滋味あふれるおつゆの味が、私を幸せだと錯覚させてくれる。
こんな美味しい天丼が食べられるのは、私があの会社で働いているからだ。あの会社は給料がよく、拘束時間も緩い。絶対に辞めてたまるかという意地を、天丼が私に与えてくれる。
小さなお子さんを連れたお母さんたちが、少し離れたところで楽しそうに会話をしている。私のことをほっといて、楽しそうに笑ってくれてる。
私も脳内でその仲間になったような気分を楽しみ、小鳥のように羽根を伸ばして、トイレの鏡で笑顔の練習をすると、背筋を伸ばして会社へ戻った。
会社の廊下を歩いて戻るにつれて、またどんどんと空気が私を締めつけてくる。
私に話しかけてくるひとは、ほとんどいない。仕事のことで仕方なさそうに会話をしてくれるひとはまだいいほうで、仕事なのに『コイツとことばを交わしてなるもんか』みたいに完全無視をするひとが多い。
「茨さんと昨日、スーパーでばったり会ったわよ」
そんな声が聞こえてきて、私はぴくりと耳をそばだてた。
「元気そうだった?」
「なんかうちの会社にいた時よりあかるくなってたよ。綺麗にもなってた」
「──で、結局、茨さんて、辞めたの? 辞めさせられたの?」
「あのひとが辞めさせられたわけないじゃん。もっといい仕事を見つけて自分から辞めたのよ」
私だけが知っている。
先輩の茨さんは、色々と取引先で問題を起こしていたからクビになったのだと、部長から聞いた。
私が茨さんについて仕事を教わっていたことと、ここまで悪い噂が社内に知れ渡ったことで、部長から知らされたのだった。
部長が私を呼び出し、言ったことがある。
『おまえも茨みたいにクビにするぞ。あいつは自分の都合のいいように嘘をついて、ミスを他人のせいにして、隠蔽工作しか考えないようなやつだった』
それを知っていて、なぜ、部長までが、茨さんの流した私の悪い噂を信じているのだろう。
決まっている。私が否定せず、黙っているからだ。
仕方がない。
私はそういう、他人を悪者にできない性格なのだ。
優しいのではない。
ただ、めんどくさいだけなのだ。
私を気遣ってくれる優しいひともいる。
同僚の蒲田さんはいつも笑顔で話しかけてくれる。
「やぁ、相内さん、元気? 元気ないなぁ……。どう? 今度、一緒に飲みにいかない? 二人きりでさ」
42歳で頭の薄い蒲田さんは優しい笑顔で、だけど心の中に蛇を飼っているように見える。少しヨレヨレのスーツが脱皮をしたがっている。私が心を許したらその蛇が口の中から鋭い口を開いて現れて、私の口の中へあっという間に入り込み、私を体の中から自由を奪い、私は彼のものとして操られる予感がしている。
42歳のおじさんが、25歳の女性社員をただ慰めるためにお酒に誘うなんて、いくら世間知らずな私でも、そこに下心しかないことぐらいわかってしまう。
「また、今度誘ってくださいね」なんて、上手なことを私は言えない。
ペコペコと頭を下げてただ逃げ出す私に、後ろから蒲田さんの声が聞こえた。
「……チッ。せっかく慰めてやろうと誘ってやってんのに。これだから常識のないやつは」
私は世間知らずで、常識知らずだ。
それは間違いない。
だけどあの噂が作られたものだということに、どうして誰も気づいてくれないのだろう。
数ヶ月前、私は営業の仕事を新しく任されることになった。
張り切っていた。私は内向的な性格だが、そういうひとのほうが誠実そうな印象があって営業に向いているんだと部長に言われ、その気になっていた。
先輩の茨さんについて仕事を教わるよう指示され、彼女とペアになっていた。
茨さんは38歳のスーツがよく似合う、バリキャリといった感じの女性だった。笑顔がとても力強くて、自信に満ちあふれた立ち居振る舞いに私は憧れていた。
もうすぐ彼女が会社を辞めるから、その後任を私が──という話だったが、その時には私も彼女は自己都合で退職するものだと思っていた。クビになるだなんて誰も知らず、部長から聞かなければ私も知らないところだった。
「この会社、お給料がいいのに拘束時間も長くなくて、絶対に辞めたくないですよー」
先方へ向かう車の中で、ハンドルを握りながら私はそんなことを茨さんに言った。
ニコニコと調子に乗って話す私を鼻で笑うと、茨さんは言った。
「あなたまだ若いから知らないのよ。世間はそんな甘いもんじゃないから。調子に乗って失敗しないようにね」
「いやー、こんないい会社に入れたらもう、人生勝ち組っしょ?」
「フン」
茨さんは再び鼻で笑うと、言った。
「相内さんって……ハリモトさんに似てるわね」
「ハリモトさん?」
聞いたことのない名前だった。
「誰ですか?」
「少し前にうちの会社にいた子よ。あなたみたいに調子に乗ってた。調子に乗りすぎて、仕事で大失敗しちゃった上に、会社を悪者にしようとしてみんなから叩かれて、それに反抗しようと、会社を潰す勢いで大暴れした末に、自殺しちゃったひと」
「じ……、自殺者いたんですか? この会社」
「結局、会社は揺るぎもしなかったけどね。……フン、あなたもそんなことにならないよう、謙虚にしてね」
それが茨さんと交わした、最後の平和な会話となった。
取引先に行ってから、商品のサンプルを会社に忘れてきたことを二人で思い出した。
呆れたように笑う先方の上司の前で、茨さんが私を叱りつけた。
「あなた、ダメじゃない。一番大事なものを忘れてくるとか……。どうして会社を出る時にちゃんとチェックしとかなかったの?」
私は口ごたえをした。
「すみません。……でも、茨さんがチェックしてるのを見たので、任せてしまいました」
二人でペコペコ謝り、後日出直して、なんとか仕事に支障はなく済んだのだが、そこからすべては始まった。
帰りの車の中で、ハンドルを握りながら私は茨さんと口喧嘩をした。
「茨さんが責任者だと思います。私が悪くないとは言いませんが、仕事のミスはまず私の直接の上司ともいえる茨さんの責任だと思います」
「あなた……! ぜんぶ私が悪いっていうの!? 自分がミスをしておきながら!? なんてひとよ、このひと!」
「だからっ! 私が悪くないとは言いませんって! でも、いっつも茨さんが前に出て仕事をしちゃうから、私は仕事を覚えることができませんっ! ちゃんと教えてくださいよ!」
「あんたに覚える気がないのが悪いんでしょうが!」
「覚える気はあります! でも、茨さんがぜんぶ自分でやっちゃうから! 私を育ててくださいよ!」
「あんたがとろいからあたしがやるしかないんでしょうが! あたしのせいにしないでよ! 一番大事なサンプル忘れてくるなんて常識がなさすぎる!」
「会社を出る時、茨さんがサンプルを持ってたじゃないですか! だから、てっきり持ってくれてるもんだと思ってっ!」
「あんたの仕事よ!? あたしは教えてるだけ! 責任もちなさいよ!」
「だから……! なんでも自分でやらずに教えてくださいよ!」
「あんたがやらないんでしょうが!」
「やる気はあるし……! もしそうだとしても、やらせるのが茨さんの仕事でしょ!?」
それからしばらくして、茨さんは会社を辞めた。
私に関する悪い噂を社内にばらまいて。
茨さんは部長が言ったような、自分のミスを他人のせいにして、自分の立場を守るような、そんなひとだった。
でも彼女のそんな真の姿を知るのはどうやら上層部のひとたちだけで、他のひとは被害に遭ったことがないのか、みんな茨さんのことを、私も最初はそう思っていたように、とても仕事ができて、自信に満ちあふれていて、いいひとだと信じている。
どんな噂をばらまかれたのか、具体的には知らないが、どうやら私は常識がなくて、仕事をする気はないのに給料泥棒する気はマンマンで、自分のミスを他人に押しつけるようなやつだとみんなから思われてしまったようだった。
自己弁解に意味はない。
私は信用のない内向的な新人で、茨さんはみんなと仲のよかった、バリキャリ・ウーマンなのだ。
みんなが茨さんの残していった言い分だけを一方的に信じていた。
私は行動をもって汚名返上しようと、仕事を頑張った。
残業も進んでやり、言いつけられたことはすべて、たとえ無理なことでもやり遂げた。
しかし、やっていることを誰も見てはくれず、たまにミスをやらかすとみんなが『やっぱりか』みたいな白い目で私を見てきた。
何より私の人付き合いの悪さが印象を最悪にするようで、私の味方は社内に誰もいなかった。
だんだんと私に回ってくる仕事がきついものばかりになった。
遠回しに『辞職しろ』と言われているような気がした。
公園でお弁当を食べていると、蒲田さんが前から手を振りながら、笑顔でやってきた。
薄いけれど長い髪の毛が風に揺れて、薄気味の悪い幽霊みたいに見えてしまった。
「いっつもここでお弁当を食べてるのかい? たまには僕と一緒に焼肉にでも行こうよ」
「ありがとうございます。でも、ここが落ち着くんで」
ふと思い出したことがあり、蒲田さんに聞いてみた。
「ハリモトさんって社員のひと、いたって聞きましたけど、どんなひとだったんですか?」
「ええ……? 誰から聞いたの?」
「茨さんです。私に似てたって──」
「ああ……。確かにね。彼女も相内さんみたいに大人しいタイプで、常識知らずだったな。茨さんにさんざん悪く言われてた。でも、それ以外、似てはないと思うよ?」
「どんなひとだったんですか?」
「すごく暗いひとでね、誰とも一切まともに会話しないひとだったな。いつも世界を憎むような目をしていてね、正直、僕は食事に誘う気にもならなかった」
「はあ……。そんなひとと、私、似てるんですね」
「だから似てないって。相内さんは常識知らずだけど、他人をバカにしてる感じだけど、憎んではないじゃん? 顔もいいし、胸もあるし」
「常識知らずかもはしれないですけど、他人をバカにはしてないです。今、蒲田さんのことはちょっとバカにしたくなりましたけど」
「ハハハハ! ま、元気出しなよ。こんなふうに優しくしてたらいつか、やらせてくれる?」
「永遠にありません」
「そうかよ。じゃ、今後一切優しくなんかしねーからな! この常識知らずが!」
「どっちが」
地面に唾を吐いて蒲田さんは去っていった。
気持ちのいい風が吹いたけど、なんだか夏を飛び越して秋になったみたいに寂しかった。
ふいにベンチの隣に誰かが座ってきた。
他にもベンチはあるのに、なんだろう。いわゆる『トナラー』とかいうひとかな?
おそるおそる横目でそのひとの姿を確認して、私は凍りついた。
やたらと顔色の青白い、蜘蛛の巣の張った黒い長髪の女のひとが、ふつうの人間の3倍はあるおおきさの目で私を見つめ、嬉しそうに怖い顔をしていた。
「見ツケタ」
そのひとは、言った。
「ナカマ──見ツケタ」
「ハリモトさん?」
直感的に、その名前が私の口から飛び出していた。
「体ヲ、頂戴」
頭の中に響くような声でそう言うと、ハリモトさんはおおきく口を開き、裂けたその真っ赤な洞穴の中へ、私をすっぽりと呑み込んだ。
私の中に、ハリモトさんの記憶が流れ込んできた。
彼女はとてもオドオドしたひとで、友達は彼女の部屋のぬいぐるみたちだけだ。
世界平和のことをいつも考えていて、人類が皆幸せになることを祈り、秘かにキリスト教を信仰していた。
私とはちっとも似ていない。似ているところがあるとすれば内向的なことだけだ。それも私よりも極端で、内向的でなんにもできないようなその性格が裏返ると私ではありえないほどに凶暴になるのだった。
彼女が茨さんについて仕事を教わっている。
茨さんは自分が何かミスをするたびハリモトさんのせいにして、社内での自分の評価を保っていた。
それをハリモトさんは何も言えずにすべてひっ被り、その内にはどんどんと恨みの炎の種が産まれて溜まっていた。
会社でのハリモトさんはいつでも大人しすぎるほどに大人しい。私のように意地でも笑顔を浮かべるなんてこともなく、いつも怒ったような目つきをしている。が、それはべつに怒っているわけではなかった。表情がうまく作れなくて、そんな目になっているだけだ。でもそれは確かに外からだと『世界を憎むような目』に見えた。
最初のうちはそう見えるだけだったのが、だんだんとほんとうに、その目の中に、世界に対する憎悪が堆積していく。噂を容易く信じ、自分を悪者にしようとする、会社という世界に対する憎悪が。
やがて彼女は茨さんの流した噂によって『常識のない、自分が一番良い人間だと思ってるようなひと』に仕立てられた。
仕事にもだんだんとやる気を失い、茨さんが言っていた『大失敗』は大袈裟だが、ちょっとした失敗をやらかした。
会社は彼女を辞めさせたがった。部長は彼女に仕事を特に与えず、それでいて拘束時間はギリギリまで与え、酷く罵ることを繰り返し、彼女が自分から辞職を言い出すのを待っていた。
彼女は辞めなかった。
ギリギリまで、限界まで、限界を超えるまで我慢して、そして茨さんに、そして会社に、復讐をしようと企てて、自殺をした。『茨さんと会社からこんな仕打ちを受けた』という、遺書を残して。
遺書は彼女の遺体を発見した会社が処分した。
誰もがハリモトさんは会社に馴染めないことを会社のせいにして、会社に逆恨みをして自殺したものだと思っている。
気がつくと私は公園のベンチを立ち上がっていた。私の手は武器を探していた。
「会社の警備員室に、刃のついたおおきなバールがあったはずよ」
私の口が、勝手にそんなことを喋った。
『ハリモトさん! やめて!』
私は心の中で叫んだけど、声にはならなかった。
『私の体を乗っ取って、何をするつもり!? やめて!』
そう心で叫びながら、私の体は嬉しそうに、弾むように動いた。
「皆殺し、皆殺し♪」
私の口が、歌うように言った。
「茨さんの家も調べよう。確か八歳の子どもと二人暮らしだったはず♬」
『やめて!』
私は心から叫んだ。
『そんなバールなんかで……! 皆殺しにできなかったら途中で捕まるわよ! せめてライフル銃でも入手しないと!』
「皆殺し、皆殺し♪」
ハリモトさんは私を無視した。
私もそんな強力な武器の入手方法なんてわからなかったから、黙った。
会社へ向かってずんずん歩きながら、だんだんと私に気弱さが戻ってきた。
イメージするとはっきりと見えてきた。
か弱い女の力で社内の人間を皆殺しにできるわけがない。
三人ほど撲殺したところでよってたかって押さえつけられ、人生を棒に振るのが目に見えている。
「ハリモトさん……」
私は正気を取り戻し、彼女に聞いた。
「どうして会社を辞めなかったの?」
わかっていた。
ハリモトさんなど、いなかった。
私はベンチの隣に彼女が現れて私の体を乗っ取り、自分の意志ではないのに体を動かされ、会社のひとたちを虐殺する妄想を、実現しようとしていたのだ。
私は、ハリモトさんじゃない。
私は、ハリモトさんとは違う。
給料がよくて、自由時間も多いこの会社に、しがみつこうとしていた。どんなことを言われても、どんなハラスメントを受けようとも、この会社にしがみつこうとしたハリモトさんと、私は違う。
ハリモトさんになることを、私は中断した。
「逃げよう」
会社へ向かってゆっくりと歩きながら、決心していた。
「この会社を、辞めよう」
新しい会社に就職した。前のあそこと違って、天国みたいなところだ。会社のひとは皆、いいひとで、パワハラもモラハラもセクハラも、前のあそこと違ってハラスメントなどひとつもない。給料は10万円以上落ちたけど、居心地がいい。拘束時間は3倍になった。睡眠時間は平均3時間だ。思考能力が奪われていく。若さもなんだか奪われていく気がする。でも、居心地がいい。誰も噂で私を作り変えたりしない。ここはいいところだ。ここはいいところに違いない。ハリモトさんもここに転職すればよかったのに。
仕事選びって、大事だ。
いくら給料がよくて、時間拘束が緩くても、人間関係が地獄なら、早く辞めたほうがいいに決まってる。その中で汚名返上しようなんて、到底無理なことだ。
理想的な仕事なんてありつけるわけがないのだから、贅沢を言ってはいけないのだ。たとえ毎月のやりくりがいつも赤字でも、私やハリモトさんのような性格の者には特に、妥協がどうしても必要なのだ。
ここが私の最適な職場だと思う。やるべきことさえしていれば、誰からも文句を言われることはない。
それでも過労死しそうな毎日の中で、たまに懐かしくなってしまう。毎日公園で、優雅にお弁当を食べられていた、あの頃が。
ハリモトさんの幻影がたまに私の前に現れて、それを否定してくれる。
「あそこはあなたの居場所じゃないわ!」
私はそのたびにうなずく。
あのままあそこにいたら、ハリモトさんのように、自分を殺していたのだろうか。
それとも、みんなを──