異世界へ
7月29日。
男子高校生の深草士鏡は東京の雑踏の中を足早に歩いていた。
何者かに追われているーーような気がする。
足音はしない。追跡者は姿も見せず、まるでプロの暗殺者のように忍び寄り距離を詰めてくる。
撒くことは難しそうだった。
それどころか、知らず知らずのうちに大通りから外れて、人通りの少ない隅田川の方に追い詰められている。
やり合うしかないか、と腹を括り、足を止めて振り返る。
「帰ってくれないか? 今どき吸血鬼狩りなんて流行らないぞ」
「ーー」
尾行者は隠れていたビルの影から姿を見せる。
「あら、私の追跡に気づくなんて、あなた中々やるじゃない」
尾行者は下駄を履いた着物姿の美少女だった。
「はっ? 女の子? しかも俺と同年代ぐらいの?」
「どうしてそんなに目を見開いて驚いているのよ」
「てってきり渋いおっさんが出てくるものかと」
「失礼ね! 10代の女の子の私に向かってそれは暴言よ!」
「悪い。今までおっさんの吸血鬼ハンターにしか出会ったことなかったから」
「ふーん。まあいいわ」
「いいのかよ」
「ええ。私は小さいことは気にしないの。だから許してあげる。ねえ、そんなことより、そろそろあなたの実力がどの程度のものなのか確かめさせてもらってもいいかしら?」
彼女はどこから取り出したのか、無駄のない動きで一瞬で棒手裏剣を両手に握り構えていた。
士鏡は首を左右に振る。
「断る。俺は荒事が嫌いなんだ」
「気が合うわね。私もよ!」
次の瞬間、美少女は士鏡目掛けて一直線に棒手裏剣を放つ。
士鏡は吸血鬼特有の並外れた動体視力で棒手裏剣の軌道を見極める。
頑丈な自分の両手の指と指の間で棒手裏剣をキャッチする。
攻撃を凌いだ士鏡は思わず美少女にツッコミを入れていた。
「どこがだよ。言行不一致が過ぎる」
「そんなことないわ。これで終わりよ。もうあなたとは戦わないわ」
「本当か? 随分と物分かりがいい吸血鬼ハンターだな」
「あなたは合格よ。それと、私は吸血鬼ハンターじゃないわ」
「あっ、ハンターじゃないんだ」
「そうよ。よかったわね。吸血鬼さん。あなたは異世界に行く資格を得たのよ」
「異世界にいける? 棒手裏剣の攻撃を防いだだけで?」
「不満なの? だったらもう少し他の試験も受けてみる?」
士鏡は彼女の腰の刀にちらりと視線を送り首を横にする。
「いや、遠慮しておくよ」
「じゃあさっそく異世界にいくわよ!」
着物姿のこの美少女は、まるで友人同士であるかのような笑顔を士鏡に向けていた。
「異世界に着いたら、私を助けてね!」
「ちょっと待ってくれよ、だったらもっと俺に説明とかしてくれよ。異世界って何だよ」
「説明? 私は異世界人です。日本には3ヶ月前に来ました」
「それで?」
「他の話はあとで、異世界に着いてから」
自称異世界人の美少女は不意に両手を交差させて印を結び始めた。
その一連の仕草はまるで本物のくノ一のようだ、と、士鏡が思っている間に彼女はもう手を止めている。
どうやら高速で印を結び終えたようだ。
クールな佇まいで立っている。
美少女の大きな目は感情を押し込めているようなミステリアスな青い瞳をしていた。
次の瞬間、彼女の足元から青い光があふれだした。
ファンタジー世界の魔法陣が崩れて輝き出したみたいな、そんな無秩序な光だった。
士鏡の足元にもその光が地面を伝って迫ってくる。
彼女の長い黒髪は風もないのにふわりと逆立っている。
彼女の形の良い口元はきれいなカーブを描いて僅かに上方に引っ張られる。
笑った?
そう思った次の瞬間、視界は完全にブラックアウトした。
静寂と暗黒が訪れる。
数秒後、視界がパッと開ける。
瞳に柔らかい明かりが急に差し込んできた。
「うわ、眩しっ。 ――ん? 東京の街が消えた?」
周囲を見渡した。
ここはどこかの山の中腹のようだと思った。
木々に囲まれた無人の大地が故郷の長野県を想起させる。
士鏡のすぐ右隣から凛とした可愛い声が聞こえた。
「街だけじゃない。私の服も消えたわ。転移のときに間違って東京に置いてきたみたい」
士鏡の隣に立つ自称異世界の美少女は、確かに一糸まとわぬ生まれたときと同じ姿だった。彼女の大切な部分は自分の両手で覆い隠している。
「俺の服は残ってるけど」
「私の服だけ転移に失敗して全部消えたの、今の私は丸裸よ」
「嘘だな」
士鏡は考えをまとめる。
吸血鬼はたとえ人間状態であろうと若い女性の健康的な裸を見てしまうと欲情して吸血したくなる。
それにもかかわらず目の前の彼女に対して吸血衝動が湧いてこないということは、これはまがい物の裸ということになる。
異世界人の美少女が恥ずかしそうに顔を赤らめながら尋ねる。
「どうして嘘だと思うの?」
「威張れることじゃないが、吸血鬼は生れつきそういうのをわかるんだ。君の裸は偽物だ」
「そう。さすがね」
満足そうに彼女は微笑む。
士鏡と目が合うと、異世界人の美少女はすぐにまた照れたような表情を浮かべた。
「偽物とわかっていても、男の子の前でこの姿でいるのはハードすぎるわ」
次の瞬間、まるで魔法が解けたかのように彼女の露出した肌が布地に覆われてゆく。そして元着ていたのと同じ着物が出現した。
ただ、なぜか着物が少しはだけた状態だった。
どういう仕組みの術だ? 術が下手なのか? 着物の復元の術って難しいのかな? などと士鏡が考えている間に、彼女はサッと衣服の乱れを直した。
「もしあなたが私の偽物の裸を見て私を襲っていたら不合格だった。でもあなたはまたしても合格よ」
「人格を診るためのテストだったのか」
「ええ」
「そんな身体を張ったテストをして恥ずかしくなかったのか?」
「恥ずかしいに決まってるでしょ!」
「じゃあどうしてこんなテストを実行したんだ?」
「それは――」
彼女は言い淀む。
頭に事情の想像がついた士鏡はスパッと告げる。
「いや、いい、わかった。君は痴女なんだな。そうたろ?」
「痴女じゃない」
「あ、ごめん」
「たぶん」
「はっ?」
「だって、あなたに偽物の裸を見せても私は興奮しなかったもの。ただ恥ずかしいだけだった。痴女なら興奮するはずでしょ?」
「わかった。君は痴女じゃない。それでいいよ。で、なんでこんな君が恥ずかしい思いをするだけのテストをしたんだ?」
「私、