浮気
いいようにされていた、と思う。
本当は、私でもそれくらいなことは分かっていた。分かった上で、容認したら、それはいいようにされているのだ。私には愛され方が分からないのだ。総て私の苦悶の根源は、それだ。
しかし、いまは直接の原因と向き合う事こそ私自身のためと思う。約めて言えば、人間は明確に悪だ。
夏の半ば、あの人とは近所のカフェで知り合った。行くたびに顔を見かける。決まってコーヒーを二杯飲む。そうして、何をするでもなく、ぼんやり窓外を眺めている。
横顔。眼鏡が下がってきた。直さない。ひと口。熱かったらしい。へんなひと。
目が合いそうになったので、私も窓を見る。
昔から、さほど興味のない人も不躾に見つめてしまう癖がある。あの人もその一環……ということはあるまい。すっかり顔を覚えてしまった。私は明らかに、かれに興味をもっている。何度も居合わせるのだもの。
視線を戻す。目が合った。
あ、とため息にも近い声が漏れて、石になったみたいに見つめあった。
軽く会釈をされて、まごついてしまって、私は動けないままでいた。変な表現をすると、白昼夢の心地だった。どうなってもいいと思った。
彼が席を立つと、居ても立ってもいられず、慌てて荷物を片付けて、後を追うみたいに会計を済ませた。事実、私は彼の後を追った。さいわい彼は、店の前で伸びをしていた。
「あ……あの、……よく会いますね」
彼は、ちっとも慌てずに振り向いて、微笑んでくれた。
そこから親しくなるのに、そう時間はかからなかった。何度も会って、たわいもない話をした。音楽の趣味が似ていた。はじめのうちは、あのカフェでばかり会っていたけれど、そのうち映画や水族館にも二人で出かけた。
「君は少し利口すぎるんじゃないかな」
あの人の言うことは、やけにもったいぶって、却ってばかばかしく感ぜられ、私にはそれが愛おしかった。きっと、寂しい人なのだと、私がいなければ孤独なのだと思った。
しばらく関わって、妻がいるのだと分かった。私は、それを知って、……包み隠さず言えば、私は、嬉しかった。
「いいの? 奥さん、私といて怒らない?」
「怒るだろうね」
どうしようもなく胸が弾んだ。ご満悦、というのかしら。
「まだ浮気じゃないのに、変なの」
彼は困ったように笑うだけで、何も言わなかった。浅ましい駆け引きをしてしまった自分が嫌になる。どう切り出して謝るべきか、また駆け引きに出ようとしたところで、先手を打たれた。
「じゃあ、浮気しようか。君は僕のことが好きだ」
その日から、女として彼と会うようになった。
先手を打たれた、などとは言っても、負けたとは思わない。そもそも、私の敵は彼ではないのである。私の、いや、女の敵は、常に女。
女の人生は競争に終始していると言える。道行く女、みな、敵に見える。これはもう手のつけられない本能なのだ。想い人の妻、などという女は、ことさら、事故にでも遭ってしまえば良い。彼もきっと苦しんでいる。……私としても、彼との仲を邪魔されて不快だ。
「また喧嘩したの? いつも私に愚痴言うんだから」
「ほかの人に話していいの?」
「あなたがいいならお好きに」
服を着もせず強がって、少し惨めな気がした。けれども、私は間違わない。私が戦うのは、彼ではない。
女の敵は女。言い古され、通俗の観念のごとくなっている。どれだけの人が真に受けているか。私は真理だと思う。
女の敵は女。私の敵は、女……いや、奥さんだ。
「ねえ、家に入ったら、やっぱりだめ? 私だって女だから、そんな簡単にばれると思えない」
この話になると、決まって彼は、少しふきげんになる。作り込まれた微笑の、ほんのわずかな綻び。隠し方が甘い。女を見下して、油断しきっている。私に言わせれば露骨だった。
「君のためだよ。僕といるときくらい、自分の平穏を大切にしてほしいよ」
このまま馬鹿なふりをしていたら、彼はいつまでも会ってくれる。私にはそれと分かりきっていた。
自惚れた馬鹿な女。これほど都合の良いものはない。
それは、私も事実だと思うけれども、しかし男は大抵そのような女の手によって奈落に突き落とされるのだ。賢さゆえに、本当の間抜けとして転落するのだ。
私は彼を愛し抜こうと思った。死ぬまで守る覚悟があった。
彼は純粋なのだ。彼の思うところの、自惚れた、小賢しい愚かな女に、必ずいつか足元を掬われる。女は危険な生き物だ。私がいつまでも、近くで見守って、悪い虫は除かなければ。そのために私は馬鹿でいなければならないのだ。
「私、けっこう博愛主義なんだよ。こんなに目をかけるの、あなただけ」
「光栄だよ。君といるときが一番幸せだ」
そらぞらしい。不器用な人だ。いまはそれで構わない。私への依存を、そのうち愛情と思い込むようになる。この人は既に、私がいなければ日常の憂さ晴らしひとつできない男なのだ。
「また、喧嘩したんだ。勢い任せに追い出されたよ。これであとになって媚びてくるんだから、女は嫌だね」
「女は、って……あなたの奥さんでしょ」
「女はみんなそうやって、自我という幻想を持ってるものだよ」
「別に、私が特別って言いたいわけじゃ……」
「関係が違えば感情も変わる。君のことまで嫌とは言ってない。ムキになる必要性が分からないよ」
この時は、さすがに私も、彼を刺してやろうかと考えた。
もしかすると、このまま関係を続けても、彼は奥さんにご執心ではないのかしら。
また別の日、今度は家に呼び出された。
「すまないけど、嫁が家出しちゃって。しばらく家事を頼みたいんだ。分かってると思うけど……」
「分かってる。ばれないようにやるってば」
「うん。髪の毛ひとつでバレるそうだから」
私が小さくため息をついても、彼は反応を示さなかった。どこか億劫そうに頬杖をついているばかり。
「私がいないと愚痴も言えないくせに」
確かに聞こえたはずだが、なんの返答もなかった。
私はすすり泣きながら家事をした。物に当たってしまわないように、何度も自分の腕をつねった。帰り道、虐待でも受けたように痣だらけの腕を見て、たまらなく寂しかった。でも、懐かしかった。
また別の日は、裸のまま惚気話を聞かされた。
「ほんと、馬鹿な嫁だよ。料理酒とお酢なんて、ふつう間違えるかね」
悪口の態は執っていても、口元が綻んでいる。私は気の抜けたような相槌ばかり打っていた。
「最近、僕の話をあまり聞かないね」
「そう?」
「まあ、別にいいよ。男はちょっと、女の人間的なとこに期待しすぎるね」
「そうかな」
「やけに強気で来るね。でも、他力本願だし思考放棄だ」
「そんなことないと思うけど」
「いいや。言葉数を節約して、相手の想像力に一任、もってして労せず怒りを引き出してやろうだなんて、程度、品性で言えば下の下、いかにも女臭い、滑稽で典型的なやり口だよ」
「その女相手にムキになって、持って回った表現で言いくるめるのが男らしいの?」
「君のように自分都合ではないんだ。みっともないからやめなさいと言ってるんじゃないか」
「不倫の方が余程……」
言いかけたところで、彼が舌打ちして、ベッドを降りた。服を着始める。
「君と会話していると疲れるよ。本当、これだから……どいつもこいつも小賢しさばかり育って知性も何もありゃしない。女は下卑た生き物だ」
「ちょっと、待ってよ。どこ行くつもり?」
「事が済んで家に帰るのがそんなにおかしいかな。女は詮索ばかりする」
「女、女って、自分は女々しくないっていうの?」
「話にならない」
彼は服を着終えると、荷物を持って出ていこうとした。
「待ってよ。ごめんなさい、調子に乗りすぎた。そんなに怒ると思わなかったから……」
「互いに頭を冷やす時間が必要だろ」
扉の音が冷たく響く。もともと一人暮らしのはずが、やけに心細く感じた。その夜は、布団の中で何度も自殺を考えた。
次の日は、一日なにも予定がないので、ぼんやり座って物思いをした。ノートに書き出すことにした。
「朝。日差しが強い。億劫。朝食、要らず。起きてしばらく、夕飯のことばかり考えた。連絡、なし。今頃は奥様と仲良し。人間みな肉塊。ばか。幸せにしなければならぬ。夢。妄想。期待。幸福。わるいこ。お父さんもお母さんも馬鹿だ。押し入れは暗い。努力。義務。彼との幸福。幸福とは愛の行末。かならず幸福。具体的」
読み返すと、なんのわけか分からない。しかし、私は決意した。私はこれまで、いつでも他人のためであれば躊躇わず行動した。今回ばかりは、私と彼、ただこの二人の愛が報われるためにのみ、動かなければならぬ。私は深く決意した。
次の日、私は彼の奥さんを殺した。遺体は押し入れに仕舞い込んでおいた。恐ろしく高揚した。私は初めて、私に自信を持つことができた。彼が帰宅。笑顔で出迎えてやると、私の肩を掴んで激しく問い詰めてきた。包丁で彼の太ももを切ると、私から手を離しそうになったので、無我夢中で抱きついた。青ざめる彼を見て、とても可哀想に、そして、好きに思った。
「血が出たもんね。痛かった? ごめんね。立ってるのつらいよね、座ろう? 大丈夫? そんなに怯えないで。大好きだから、ね。あのね、今日は私の話を聞いてほしいの。ああ、やっぱり足が痛い? そうだよね、ごめんね。でも、大好きなの、嘘じゃないよ。ねえ、私、元彼何人いると思う? ううん、そんなに少なくない。うん、五人。みんなどうしようもない人だった。あなたみたい。でもね、私、あなたが思うほど馬鹿じゃない。あなただけは、その五人とは違うって、よく分かってる。奥さん、何年も付き合って、やっと結婚したんでしょ? それなのに私を選んでくれたもの。私のことがどうしようもなく好きだって、それくらいのことは伝わってくる。奥さん? 心配しないで、私、あなたの望むこと、欲しいこと、今までなんだって察して、その通りにしてきたでしょ。今回もちゃんとしたの。奥さん、捨てておいたから大丈夫。一般的には悪いことかもしれないけど、あなたを喜ばせたい、あなたに愛されたい気持ちでいっぱいだったから。私のしたこと、馬鹿にはきっと分からない。賢さって、きっと優しさだから。……あなたには分かるでしょ? それでね、聞いてくれる? 私ね、あなたの抱き方、覚えがあるの。小学校の、三年生くらいかな。今日みたいな寒い日だった。私の家、貧乏だったから……本当に寒かったな。薄い布団にくるまって震えてた。……お父さん、機嫌悪かったの。パチンコで負けたって。無理やり犯された。痛かったし、怖かったよ。本当に痛かった。お腹が圧迫されて、息が詰まる感じで、苦しくて……中学校終わるまで続いたよ。お母さん何も言わなかった。いまでもあの人の動き方、覚えてる。あなたにそっくり。だからね、本当はあなたとするの、嫌だったの。隠しててごめんね。でも、でもね、だからこそ、あなたへの愛は本物だと思うの。この理屈、あなたなら分かるでしょ? あなたは他の誰とも違う。元彼ともお父さんとも、見て見ぬふりした幼稚なお母さんとも、何も知らない馬鹿な祖父母とも……あ、血、止まらないね。思ったより深く切っちゃった……許してね。話が終わったら手当てするから。それでね、私、真剣に考えたの。あなたが私につらく当たるのは、私に期待しているから。私に期待しているのはどんなことか。私ね、あなたのことを幸せにしたいと、ずっと思ってた。でもそれは私のエゴ、私の欲に過ぎないって、自分を責めるような考え方をしてたの。あなたの言う通り、馬鹿だった。あなたの期待に気づけないで、ただ自分が可哀想で仕方なかった。あなたも望んでくれてたんだって、やっと分かったの。いつまでも私が行動しないから、それで怒らせちゃったんだって。ちょっとは自分で行動してほしいけど、そんな弱さがあなたの魅力でもあるから。だから私、あなたの代わりに奥さん捨てたよ。ねえ、お姫様を連れ出すナイトみたいじゃない? 我ながら素敵だと思うの。あなたを救って、二人でずっと幸せに暮らして……それでね、今後のことなんだけど、一軒家に住んで、セックスはあんまり……」
熱が入ってきたところで、テーブルに置いてあった包丁で刺された。懐かしい、あの痛みに似ていた。そのまま何度もくりかえし刺された。
前後不覚。私は、彼に犯されているような心地がした。
「ひどい、ひどいよ、セックスはあんまりしたくないって言ったのに、ひどい……」
うわ言のように訴えかける私を、ほとんど真っ白の、ひどく血色の悪い顔で見下ろしている。
「私のこと、そんなに好きなら、もっと私の気持ちも考えてよ……」
私が泣きじゃくると、彼は私の顔を殴って、たくさんの罵声を浴びせてきた。奥さんのことを、何度も責められた。
私は、そこでやっと、愛されたいと願うことの罪深さを知った。
「ごめんなさい、私、生まれてきちゃいけなかった……やめて、ごめんなさい……」
息も絶え絶え謝っても、自分の声も、彼の声も聞こえない。憎悪にまみれた拳の感触だけが、左頬に鮮烈に伝わった。
そのまま殴られていると、だんだん利用されていた悔しさが煮えたぎって、やりきれなかった。顔を殴られるのも、女としてこの上なく嫌だった。彼を刺して、覆いかぶさって、唇を奪ってやった。心中なら、そう悪くもない幕引きだと思った。
彼の体が冷たい。とにかく悔しかった。どうして幸せになれないのだろう。私は馬鹿だ。……最後まで自責なんて、馬鹿らしい。どう考えてみても、純粋な弱い人間を騙す者が悪いに決まっている。私は騙されたのだ。世間知らずだった。愛情深いが故に馬鹿を見た。性善説なんて、嘘だったのだ。人間は悪だ。もっと、早くに知るべきだった。
「……一回も、好きって言われなかったな」
もう何も見えないし、聞こえない。嫌なものも、嬉しいものも、何も。
結局、善いことなど、ひとつもできなかった。
それでも彼の胸で幸せに眠るのだと、私は、そう信じることにした。