『山神サマ』
それは獣の目であり視線であった。
昼の光が木々に遮られ、木漏れ日へと変わる場所で、森の門番梟は、瞼を閉じてもうっすら見える目を開けて、森へ入るイスノキを監視した。
部族の子イスノキは、森に紛れる為にオオカミの毛皮を被らされ、肉を油紙に包んで持っていた。獣と血の臭いでその身を擬態してもなお、魂の形は変えられなかった。彼は哀れな人間だった。
梟の首がどこまでもイスノキの情報を追い、可動域が限界に達した所で、翼を広げて森の奥へと飛び立った。
今年ノ 死者 ハ イスノキ
梟は森へ山神サマの使者が来た事を伝えた。
集落では年一度、古きしきたりに従い子供を選ぶ。子は、自らが山神サマへの『贄』となる事を知らず『捧げもの』である獣の肉を届けるのだった。信仰は、子供の魂の犠牲が部族に富と繁栄をもたらすと疑わなかった。
イスノキは森の奥から視線を感じた。狐がイスノキを遠目に見て去った。獣は生態系の構図を理解していた。今のイスノキはオオカミだ。オオカミは、山神サマの使いとして崇拝され、生態系のトップに君臨していた。
常に獣の目がイスノキを追い、遠巻きに入れ替わりついて来た。イスノキが進む度に遠くの木々が微かに揺れ、草花が踏み倒された。
イスノキの身を守るのは、刀長六寸(約十八ミリ)の山刀だけだった。しかし、これで殺生をしてはいけない。森の生き物は、すべて山神サマの物だから。それはイスノキを見送る母親からの最後の言いつけだった。イスノキはそれを忠実に守った。蔦も枝も山刀を使わず手で払って進んだ。
オオカミの毛皮を被るイスノキを襲う獣はいない。山神サマへの使者であるイスノキは、神聖な存在だった。イスノキは何者かに守られていた。
イスノキは、地面に残された足跡に、自分の手を合わせた。それはイスノキの手より大きかった。
山神サマはいらっしゃる。
ポトッと、イスノキの頭に何かが落ちた。
木々を仰ぎ見たイスノキは、猿と目が合った。猿は安全な場所に鎮座して、地上のイスノキに木の実を落としてからかった。
イスノキは無口だった。何か一言、ため息でもつけば、イスノキの心を木霊が代弁してしまいそうで怖かった。
嫌だ!嫌だ!行きたくない‼
それは去年の使者の醜態だった。
「あれはオオカミに扮した人間ではない。オオカミだ」
どこかにいる鳥が、部族の長の言葉をまねしてさえずった。
集落では皆で生贄にされたイスノキを見送った後、泣き崩れて立てなくなってしまった母親に、厳格な一族の長は鳥と同じ事を言って聞かせた。
「あれはオオカミに扮した人間ではない。オオカミだ」
だから死ぬのはお前の息子ではない。
「どうぞお食べ下さい」
イスノキは、山神サマがいるという洞窟のような穴蔵の前で、持って来た肉をこの森の主に捧げた。血の匂いは獣を誘い、それは入り口にいるイスノキを突き飛ばし肉に食らいついた。
イスノキが持って来た『捧げもの』が地面に転がった。山神サマが食べたのは、肉を掲げていたイスノキの片腕だった。
数匹のオオカミが森から飛び出し『捧げもの』を牙と爪で山神サマと奪い合った。そこに生態系の理も信仰もなかった。崇拝の対象と教えられた偶像は、ただの大熊と成り果て、山神サマの使いのはずのオオカミ達は、主に群がりその肉を引き裂いて息の根を止めた。
一匹のオオカミが、イスノキに近づき首筋を嗅いだ。深手を負ったイスノキには、山刀をかざし対峙する余力は残っていなかった。ただ食われると思った。オオカミがイスノキの毛皮に爪を立て首元に噛みつくと、肉を引きちぎるように頭を大きく振った。
イスノキに痛みはなかった。
オオカミは、イスノキが被っていた毛皮をくわえ地面を引きずった。群れの一匹が天に向かって吠えた。その遠吠えは撤退の合図だった。
オオカミたちは毛皮と肉を取り返す為にイスノキをつけ狙っていたのだ。遠巻きに感じた獣の目は、イスノキが被ったオオカミの毛皮に恐れた小動物ではなく、仲間を思うオオカミの視線だった。
イスノキが集落へ戻る事は許されない。
戻れば災いを持ち帰った穢れとされた。
イスノキは己の道を選ぶことなく、そのまま森で静かに息を引き取った。その肉をオオカミ達は食べなかった。