ⅡーⅢ
老執事から渡された錠剤を水で飲み干し、自動車の後部座席へと背中を預けながらロウは疲労交じりの息をもらした。
「なかなかに刺激的な時間だった……と言ってもいいのだろうか?」
運転席に座る老執事がバックミラー越しにチラリと視線をこちらに向け、控え目な割に意味深な笑い声を発した。
「左様でございますな」
仕事終わりと思われる通行人達でにぎわい始めた夜の街並みへと視線を向け、ロウが言う。
「それにしても驚いたよ。まさか、あのメアリにあんな激しい一面があったとは」
ロウはどこか哀しげに口の端をゆがめた。
「あれもまた……血の呪いとでも呼ぶべきものなのかな」
「私には……」
ハンドルを操作しながら老執事が言う。
「そればかりが理由だったとも思えませんでしたが」
「どういう意味だい?」
変わらぬ笑みのままなにも答えず、老執事はただ小さく頭を振った。
「……メアリは大丈夫だろうか?」
狩人である赤頭巾との一騒動の後、屋敷のメイド達によって客室へと連れて行かれたメアリは、今頃ベッドの上で休んでいるはずである。肉体的な負傷は大したこともなかったようだが精神的な負荷は相当なものだったようで、後で聞いた話だがベッドに横になった瞬間には眠りについてしまったらしい。
「一時的な事とは言え肉体を転化させたわけですからな。あまり慣れてはいないご様子でしたし、無理もないことかと」
「伯父上にどう説明したものか……ますます気が重くなってきたよ」
ロウ達が今まさに向かっている会食の場、一月も前から予約していた高級レストランで待っているであろうシギントの人の良い笑顔が浮かび、ロウは頭を抱える。
「問題を解決しようと動いていたはずなんだが、どうしてか問題ばかりが増えていく。……こうして考えてみると、少しばかりタイミングが良すぎるように思えてくるな」
「件の人喰いのことを仰られているのですか?」
ロウは視線を車窓の向こうに向けたまま頷く。
「まるで嫌がらせでも受けているかのようだ」
「危険なお客様まで呼び寄せることになってしまいましたらかな」
赤頭巾と名乗った少女の姿をロウは思い浮かべる。老執事の言うことは正しいと内心で頷きつつ、胸の奥で感じる鈍い痛みの様な疼きにもロウは気づいていた。
今にもこちらに挑みかかってきそうな鋭い眼差しも、どこか寒々しい何かを感じさせる真っ白な美しい髪も、なにもかもがロウの心臓を握りつぶさんばかりに圧迫し、こうして胸を締めつけるのだ。
「危険……か」
滅多に人前では見せない弱さをその表情に浮かべ、未だに鈍い痛みが残る右の頬を撫でながらロウは溜息をもらす。
「……あれは失敗だった」
数時間前のこと。
赤頭巾と名乗る少女との会話を思い起こしながら、ロウはズルズルと、背もたれを滑るようにして崩れ落ちていったのだった。
「そっちから呼び出しといて、随分と待たせるじゃん」
不機嫌さを隠そうともせず、赤頭巾と名乗った白髪の少女はロウの顔を下方向から睨み上げてくる。
「もしかしてってやつだけどさ……喧嘩売ってんの?」
わずかにでも首を縦に振ればすぐさま飛びかかってきそうなくらい喧嘩腰な少女に若干たじろぎつつ、とりあえずロウは愛想笑いを浮かべた。
「重ねてお詫びいたします」
深く腰を折る。いくらこちらの知らぬこととは言え、女性を長時間待たせるというのは恥ずべきことだ。そう戒める意味も込めて。
「お話しの前に、まずは証を見せてはいただけませんか?」
平静を装いながらロウは言う。
「有名な狩人の証というものを」
元々不機嫌そうだった赤頭巾の表情に苛立ちの色が混ざる。罵声が飛んでくるかと身構えるロウだったが、赤頭巾はゆっくりと左手の指先をその細く白い首にかけられたネックレスに向けただけだった。
「これを見たがる奴は珍しいよ」
赤頭巾の手に握られたペンダントのトップには、純銀製と思われるひしゃげた弾丸が吊るされていた。一見すると多少悪趣味な飾りにしか見えないが、ロウの細胞と本能はその弾丸から滲み出る不吉な何かをしっかりと感じ取っていた。
「なるほど、確かに……」
微弱な電流が流れるような刺激を首筋に感じ、その刺激が頭痛に変わる前にロウはその銃弾から目線を逸らす。
「見ていてあまり気持ちのいいものではありませんね」
それを見ていると魂を直接握られているかのような、そんな不快感がある。
「確かに貴女は協会に属する狩人殿のようだ。想像していたのとは随分違っていたので、正直言って多少驚きましたが」
「それってさ、セクハラじゃん?アタシがフェミってたらどうするつもり」
「誓ってそんなつもりなどなかったのですが」
ロウは慌てて否定し、そして質問を続けた。
「失礼を重ねてしまうかもしれませんが、赤頭巾というのは本名ではありませんよね?」
お名前を聞かせてもらっても?というロウの声は、明確な殺意のこもった赤頭巾の視線によって掻き消されてしまった。どうやらあまり触れられたくない話題らしい。
「……話を進めるとしましょうか」
場の空気を整えるために咳払いを一つし、ロウは赤頭巾へと視線を向ける。
「此度のご来訪の理由、まずはお聞かせいただけますか?」
デザートのプティング不機嫌そうな顔のまま口に運んでいた赤頭巾は、スプーンを握る手の動きを止めると唇の端をやや釣り上げた。
「アンタ達ってさ、なんかそういうマニュアルでもあんのかってくらい似たようなシラのきりかたすんよね」
女の子とよんでも差し支えないような相手にアンタ呼ばわりされたことに面食らいはしたが、それ以上に自分がこの少女に対してあまり不愉快さを覚えていないらしいことにロウは驚いていた。
「狩人のアタシがアンタ達の前にこうしてわざわざ出向いてやった理由なんてさ、そうはないと思うんだけど」
ロウは微笑みを崩すことなく言葉を返す。
「男というのはなんとも哀しい生き者でしてね。美しい女性が自分に会いに来てくれたということに、どうしてもロマンティックな理由を夢見てしまうものなのです」
「あっそ」
赤頭巾の反応は素っ気ない。だがその瞳に宿ていた殺気はわずかに和らいだような気がした。ロウが抱いた願望ゆえの錯覚だったのかもしれないが。
「近頃この辺にさ、どうにも躾のなってない野良犬がでるって話じゃん」
話が核心へ向かい始めたのを察し、ロウは内心気を引き締めた。
「我々が管理しているこの街に、野良犬などおりませんよ」
「ってことはさ」
白い髪を指先でもてあそびながら、赤頭巾はあくまでも無関心な口調で言う。
「アンタ達が管理しているとかいうご自慢の街を騒がせてるのは、野良じゃないってことになるんだけど……違うわけ?」
「……その点については、私のほうからはなんとも言えませんね」
赤頭巾の目から視線を逸らすのを堪えることができず、ロウは自身でも白々しく聞こえる言葉を続けた。
「そもそも、あれが本当に獣人による所業だったのかどうかも判明していないのではないか、というのが我々の見解です」
「我々の見解?」
露骨に馬鹿にした赤頭巾の声。
「アンタはこの馬鹿でかい屋敷の当主様だってさっき自分で言ってたような気がしたんだけど、アタシの聞き間違いだったかな」
「……なにを仰りたいのか、わかりかねますね」
赤頭巾はなにも言わず、ただ嘲笑を浮かべている。
「なにぶん急な事だったので一族の意見も未だにまとまってはおりません。こちらの見解を示すのは、それからということにしておいてはいただけませんか」
できれば荒事は控えてほしいとの願いを含ませつつ、ロウはそう言った。
小さく肩を竦める以外なにも反応を返さなかった赤頭巾は、ロウから興味を失ってしまったかのように視線を部屋の壁へと向ける。そこには一枚の油彩画が掛けられていた。
「我らザロメ家の開祖といわれている人物ですよ」
そこに描かれているのは、草木一本生えていないような荒野だった。その荒野の上に、自分の背丈よりも長い鉄の棒らしきものを肩に担いだ男性が一人立っている。金色の髪を腰のあたりまで伸ばし、筋骨隆々の上半身を剥き出しにした大男だ。
「残念ながら記録にも残っていないのでその名を知る者はいません。ザロメ鉄道を一代で築き上げたという伝説だけが残されているだけです」
「あの肩に担いでんのは?」
絵を指差し、赤頭巾が訊いてくる。
「線路の部品となった鉄柱だそうですよ。嘘か真か、全ての線路をその身一つで敷いてまわったのだとか」
興味があるのかないのかよくわからない様子で息をつき、赤頭巾は言う。
「あんま似てないね」
「情けないことに昔から病弱な質でして」
「だと思った」
赤頭巾はおもむろに席を立つ。そのまま自然な動きでロウの懐に飛び込むと、その耳元で蠱惑的な声を発した。
「アンタからはさ、死臭がするよ」
すぐ近くにある赤頭巾の横顔に視線を向け、ロウも言う。
「そう言う貴女からは、確かに血の臭いがしますね」
「そそられちゃった?」
ロウの頬に唇がつきそうなまでに赤頭巾の顔が近づく。
「ねぇ、アタシが欲しい?」
その妖艶な笑みから視線を逸らせぬまま、ロウは生唾を飲み込んだ。
抑えの利かない心臓の鼓動に耳を傾け、ロウは自嘲の笑みを浮かべる。柄にもなく悔しさのようなものを感じていたのかもしれない。
それゆえの、失言であった。
「貴女は……ライカンなのですか?」
どこか機械じみたところのある無表情の奥に垣間見えたのは、怒りというよりも哀しみに近い何かだったのではないか。
妙に冷たい感触が頬に打ち込まれる刹那、そんなことをロウは思ったのだった。
「如何なさいました?」
老執事の声に、ロウは記憶の淵から意識を引き戻した。
「……なにがだい?」
深く沈み過ぎていたせいか、さほど強くもないはずの街灯が目に痛い。
「なにやら少し、嬉しそうな表情をなさっておいででしたが」
老執事の予想外の指摘に、ロウは口をわずかに開けたまま硬直してしまった。言葉がすぐには出てこず、か細い吐息だけがその口からは漏れ出していた。
「本当かい?」
反射的に口元を手で隠す。すると唇が笑みの形を作っているように思えてしまい、ロウは唖然とつぶやく。
「これは……まずいかもな」
「はい?」
「いや、なんでもないよ」
咳払いで話を打ち切り、ロウは質問を投げかけた。
「そんなことより、彼女について分かったことは?」
「彼女というと、あの若き狩人殿のことですな」
ロウが頷くと、老執事はやや困ったように首を傾げた。
「急だったこともあり、あの赤頭巾と名乗る狩人についての情報はさほど集まってはおりません」
「わかっていることだけで構わない」
「なにぶん噂話の域を出ない話でして、お耳汚しになるかもしれませんが……」
そう前置きし、老執事は話し始める。
「あの若さで証を与えられていることからも容易に想像がつくことですが、良い意味でも悪い意味でも一流として敵味方双方から知られています。その名が知られるようになったのはここ数年のことですが、どうやら幼いころから師である狩人と共に活動してきたようですね」
本音を言えば、ロウが聞きたいのはそんな話ではなかったのだが、ザロメ家の当主としてはそれっぽい顔をして頷くことしかできない。
「若いせいか少々過激な面がありますようで、色々と問題を起こすことも多いのだそうで」
「問題?」
興味を引かれ尋ねるロウに、老執事は少し答え辛そうに視線を泳がせた。
「それが、どうにもやり過ぎてしまうようでして。協定を破ったことも一度や二度のことではないと」
ザロメ家の当主として、ロウにも当然のことながら〝協定〟についての知識は備わっている。それを破るというのがどういういことなのかもわかっているつもりだ。にもかかわらず、その事を聞いてもさほどの驚きはなかった。あの鋭い眼光を思い起こし、(ああ、彼女ならやりかねない)などと根拠もなく納得してしまった程度だ。
「それもどうやらオオカミに対してその傾向が強いようでして、その点は注意が必要かと思われます」
「……うん、それは事前に教えておいてほしかったかな」
ロウの言葉が届いたのかどうか、老執事の反応はとくにない。
「やはり監視をつけておくべきだったのでは?」
あまり友好的とは言えない接見の後、赤頭巾はさっさと屋敷から立ち去って行ってしまった。
「いや、やはりやめておこう。これ以上彼女の機嫌を損ねたくはない」
「左様ですな。あれ以上暴れられては、御当主の身が持たないでしょうし」
老執事の珍しい冗談に、ロウは虚ろな笑い声を発した。
「どうか願わくば……」
濃い霧と雲に覆われて星も見えない夜空を見上げ、ロウは言う。
「彼女がこの夜を、安らかに過ごしていてくれますよう」
結論から述べてしまえば、ロウのその願いは叶わない。
その夜流された血の臭いと暴力の喧騒がロウの花と耳に届かなかったのは、果たして幸運な事だったのだろうか。
今はまだ、誰にもわからない。