第二章 夜に吠える
物心ついたその瞬間から、メアリ・カークは劣等感に苛まされながら生きてきた。
最初のうちは漠然としていたその感情も、歳を重ね肉体と心が成長していくと共にはっきりとした形を伴っていく。人見知りの激しい内気な性格も、ニキビの目立つ地味な顔立ちも、やせ細った貧相な体も、そのすべてが嫌ですべてが苦痛だった。
もちろん自分が恵まれているということもメアリは十分に理解している。この地域一帯だけではなく、世界にすら名が広がっている名家であるザロメ家に連なる家に生まれたのだ。幼いころから何不自由ない暮らしを送り、今では貴族の令嬢などが通う名門と呼ばれる学園に通わせてもらっている。
だがそれでも、その事を理解してもなおこの身に染みついた劣等感は消えてくれなかった。自分は誰よりも劣っているのだと、いつだって自分の中から自分自身の声が聞こえてくるからだ。その声はこの劣等感を刺激し、まるで重力でも操作しているかのようにメアリの視線を下へ下へと向けさせる。
思えばこの劣等感をはっきりと認識してしまったのは、メアリにとっては忘れがたい二つの出来事が原因だったように思う。
一つ目の出来事は、メアリの母であるクレア・カークの死だ。メアリが五歳を迎えたばかりの頃、母は突然亡くなった。事故だと聞いているが詳細は今に至ってもよくわからない。なにぶん当時のメアリは幼すぎたため、思いだそうにも当時はまともに状況の把握すらできていなかったのだろう。そのせいというか、おかげというべきか、母の死に対して当時のメアリはさほどのショックを受けていなかったように思う。少しの間母とは逢えないのだと、その程度に受け止めていたのではないだろうか。母の死に強いショックを受けていたのはメアリではなく、メアリの父であるシギント・カークのほうだった。無理もないことだがその狼狽ぶりは相当なものであり、一日中母の写真を眺めながら呆然と過ごす父の背中を今でもメアリは良く覚えている。そんな父の姿にメアリは幼いながらも漠然とした不安を抱き、父がこちらを見てくれないという状況がメアリの劣等感を活性化させた。
父が自分を見てくれないのは、自分が劣った人間だからだ。
そんな不安が恐怖に変わりかけていたまさにその時、メアリの身に二つめの出来事が降りかかることになる。
それはメアリにとって救いとなる出来事であり、やがては呪いへとなる出会いであった。
廊下の曲がり角から控え目に顔を覗かせ、閉じたその扉へとメアリは怯えたような視線を送っていた。中腰で壁にしがみつくようなこの格好でここにへばりついたまますでにもう十分ほどが経過している。
「うぅ~」
日常的に感じている漠然とした劣等感に苛まれつつ、それとはまた異なる良くわからない感情がメアリの胸を締めつけていた。
(なにしてるんだろう……御当主様?)
親族会議が終わった後、年長者達に囲まれているていることに居心地の悪さを感じていたメアリは屋敷の中を少し散歩することにした。大人たちの間で交わされる話はメアリにとって小難しいだけのものであり、その場にいるだけでどうにも疲れてしまう。少し気分転換をしたかったのだ。
その途中で偶然見かけたのが、ザロメ家当主であるロウ・ザロメの美しい金色の髪だった。そこからはもうほとんど無意識の行動である。母鳥の後に続く雛のように、メアリはロウの後についていってしまっていたのだ。大広間の扉の向こうにその後ろ姿が消えてしまうその時まで。
(なにしてるんだろう……私?)
最早血液よりも濃くなったように感じられる劣等感がメアリの体を駆け巡る。幼きあの日、母の葬儀の席で初めて顔を合わせたロウの笑顔が脳裏をよぎった。
「……よし!」
激しく鼓動する自分の胸に手を当て、彼女にとっては並外れた覚悟と共にメアリは呟く。へばりついていた壁から無理やり体を引きはがし、明らかに挙動不審な動きで扉へと近づいていった。扉の間でしばし逡巡した後、まるで氷壁に頬を当てようとしているかのようにビクつきながら耳を近づけていった。
「……ですから……だと……」
どうやら誰かと話しているらしいロウの声が、扉越しにかすかだが聞こえてくる。その声を聞けただけでどこか高揚している自分が気恥ずかしく、メアリはかすかに頬を赤らめた。
(誰と話してるんだろう?)
最早扉へと直接当てるまでにメアリが顔を近づけた瞬間、背後から不意に声が掛けられた。
「如何なさいました?メアリお嬢様」
あまりの驚きに、メアリは文字通りその場で飛び上がった。慌てて振り返ると、ティーセットの乗った盆を手にした老執事が相変わらず一部の隙もない佇まいでそこに立っていた。
「えっと……その……」
しどろもどろになりながらメアリは言い訳の言葉を探す。だが結局まともな答えが浮かんでくることはなかった。
「御当主様に何か御用ですか?」
「……ええ、実はそうなんです」
別段用件などなかったのだが反射的にそう答えてしまい、メアリは仕方なしといった様子で微笑みを浮かべた。
「左様でしたか。ですが、御当主様は現在大切なお客様とお話の最中です。申し訳ありませんが、しばしお待ちいただけますでしょうか」
メアリは是非もなくただ頷く。ここにいるのだって、元はといえばロウの顔を一目でも見れたらという勝手な願いに誘われただけなのだ。
「あの……お客さまって、どなたなのでしょう?」
おずおずとメアリが尋ねると、老執事は少し考えるように顎先へと手を当てた。
「詳細はお話しできかねますが、ザロメ家にとってはとても大切なお客様です」
「……大切」
どういうわけかその単語に軽いショックを受けていることに内心驚いていたメアリの耳に、扉の向こうからロウの声が途切れ途切れにだが聞こえてきた。
「……は……なのですか?」
刹那、メアリの全身から一瞬にして血の気が引いていき、冷や汗が吹き出した。それは扉の向こうから暴風が如く吹き荒れてきたどす黒い気配、殺気などという言葉ですら生温く感じられるほどに濃厚なその圧に、メアリの体内を流れる血と本能が敏感に反応した。
ザロメ家の血に流れる狼の因子が、世界を瞬間的にだが緩やかなものへと変貌させる。
扉が向こうから勢いよく押し広げられ、その向こうから文字通り飛んできたロウの体が大理石の壁へと背中から激突し、廊下の上へとズルズルと崩れ落ちていった。苦痛に顔をゆがめるロウの元へと老執事が慌てて駆け寄り、その手から投げ出された盆とティーセットがゆっくりと落下していく。
視界を染めたのがポットから零れた紅茶の色だったのかどうか、メアリには解らない。だが全身を突き抜けたこの感情が、いつも感じている劣等感とはまるで異なるものだということははっきりと理解できていた。
見開いた両の眼を、ロウが飛び出してきた部屋の方へと向ける。そこに立つ少女、自分とそう変わらない年齢に見える不自然なくらい紅い少女の姿を視界へと収めた。不思議な事に紅い世界の中に立つその少女の髪だけは目に痛いくらいに真っ白で、胸が締め付けられるほどに美しく見える。
衝動的に足を踏み出し、劣情のままに牙を剥き、全身を駆け巡る血流の音を耳の奥に聞きながら、心臓の底から響いてきたかのような雄叫びをメアリは上げた。
白い髪の少女が、そんなメアリの狂乱を前に小さく唇を動かす。声は聞こえない。だが、少女の唇の端がつりあがったというその一点がメアリの理性をかろうじて支えていた最後の糸を確かに断ち切ったのだ。
上体を低くし、片手で床を抉るようにしてメアリは少女へと飛びかかった。フードつきのパーカーの襟部分に掴みかかり、勢いのまま少女と一体となってメアリは床の上を転がってゆく。そのまま少女の背中を床の上へと力づくで押さえつけた。
乱れた服から覗き見える少女の首筋が、怪しいまでに艶めかしい。
自身でも制御できぬ荒い息を吐き出しながら、大きく開いたその口を、その牙を、少女の首へとメアリは近づけていった。
「はぁ……うざッ!」
メアリの吐き出す熱い息が少女の首筋に届こうかという距離まで近づいたその瞬間、腹部への重い衝撃がメアリの体を瞬間的に浮き上がらせる。少女を押さえつける力がわずかに抜けたその一瞬で、メアリと少女のいる場所はあっさりと入れ替わってしまっていた。
メアリの首筋に、冷たい何かが押しつけられる。
いつの間にかその手に握られていたナイフの刃でメアリの首筋を優しく撫でながら、少女が耳元で囁きかけてきた。
「そんな小さな牙じゃ無理だし」
その無感情な声に、あれほど煮えたぎっていた全身の血が一瞬で凍りついたような気がした。メアリの体に流れる血が、そこに刻まれた本能が、一瞬で理解したのだ。
(この子は……本気で私を殺したがっている)
そしてそのチャンスが与えられれば、何の迷いもなくこの少女はそれを成すのだろう。もしかしたら手にしたナイフすら使うことなく。
「そこまでにしていただけませんか」
横合いから不意に伸ばされた手が、ナイフを握る少女の手首をそっと掴んだ。メアリと少女二人分の視線を受け、傍らにしゃがむロウは少しだけ照れたようにはにかんで見せた。
「どうしても気が済まないのでしたら、私の心臓にそのナイフを突き刺していただいても構いませんので」
少女は不機嫌さを隠そうともしていない凶暴な視線をロウに向けていたが、やがて囁くような声で言う。
「……そだね。楽しみは後にとっとこっか」
「感謝します。心優しい狩人殿」
少女は手にしたナイフを腰のホルダーに戻すと、メアリの胸の上からその体を退けた。
「大丈夫かい、メアリ?」
狩人と呼ばれた少女の拘束から解放されても横たわったままでいるメアリへと、労わるようにロウが手を差し出してくる。その手をとろうと腕を伸ばしかけたメアリは、視界に映るロウの顔が蜃気楼のように揺らいでいることに気づき首を傾げた。
「……あれ?」
持ち上げた手を自分の目元に当て、そこに流れる温かい雫を指先で確認する。
「あれ……私……どうして?」
駄々をこねる子供のように両手で顔を隠し首を振りながら、メアリは自分自身でも理由がわからないまま泣き続けたのだった。