ⅠーⅥ
始まりから終わりにかけて、親族会議はなんの問題もなく順調に進んでいた。サガン家の一族が経営に関与する事業などの収支報告は全てにおいて想定通りのものであり、一族の繁栄には一点の曇りもないということで話はまとまりかけていたからだ。
円卓上の空気に軋みが生じ始めたのは、今回の会議を緊急で開いた一番の理由についてロウが触れた時のことである。
「そりゃあ何か……」
一番最初に反応を示したのは、ロウの実弟であるロアだった。その気性を兄として良く知っているロウは特に驚くこともなく、ロアが考えをまとめて言葉にするのを待つことにする。
「俺達の中に、その傍迷惑な人喰い野郎がいるってことか?」
重苦しい沈黙が、場を支配する。
ロアの率直な言葉に、一族の者達はそれぞれ異なる反応を見せた。疑われ、露骨な不快感を示すもの。不安そうに眉根を寄せ、目を泳がせるもの。彼らの反応を一通り観察してから、なるべくゆっくりとロウは口を開く。
「その可能性が高い……という話だ」
こちらを睨みつけていたロアの瞳に、一瞬だが炎のように揺らめく感情が見て取れた。
(ここで飛びかかってこなかっただけ、成長したと喜ぶべきなのかな)
内心の苦笑を表情に出さないよう引き締めつつ、ロウは言葉を続けた。
「わざわざ言うまでもないことではあるが、我々の体内には高貴なる血が流れている」
葡萄酒で満たされたワイングラスを手に取り、それをロウは皆に掲げて見せる。
こちらに向けられたいくつかの視線からは何か言いたげな気配は感じられたが、構うことなくロウは続けた。
「古き時代より我々は神と崇められ、またそれと同時に化物だと恐れられ続けてきた。無理もない。なぜなら我々は、生まれ落ちた瞬間から奪う側に立つことを宿命づけられているのだから」
差し詰め呪いのように、という言葉をロウは飲み込む。
「だからこそ我々には思慮深い行動というものが求められている。群れの掟がなんのために存在しているのか、状況を把握した上で我々はもう一度考えなくてはならないのだろう」
幾人かの親族は頷きを返してくれたが、ほとんどの者はロウの言葉を聞いても不満そうな表情を浮かべただけだった。
「相変わらず、兄貴の言うことは遠まわしで小難しいな」
空になったグラスを円卓の上に乱暴に置き、ロアは犬歯をわざと覗かせるように唇の端を釣り上げる。
「そもそもが……だ。御大層な演説もさっきの質問の答えにはなっていないぜ、御当主様?」
こちらに挑みかからんばかりの視線を向けられ、ロウは小さく頭を振った。
(やれやれ……)
どうやら成長したと思ったのはロウの早とちりだったらしい。
「ではお望みどおり、直接的に解りやすく答えようか」
声のトーンを意識的に下げる。ロウがやったことといえば実際のところそれくらいだ。だがその瞬間、室内にいた者たちは全員が揃って同じような感覚に身を震わせていた。室内の空気が数度下がったかのような寒気と、今すぐ地面に頭をつけてしまいたくなるほどの圧倒的な従属感とで
「始祖の時代より、この地を治め続けているのは我らザロメ家だ。それゆえ、この地で勝手を働く野良は存在しない、存在してはならない」
ピリピリとした圧に全身の毛が逆立つのを感じながら、噛みしめた唇の端から流れ落ちる血をロアは手の甲で拭い取った。
「となれば自ずと答えは一つだ。今この街を騒がせている人喰いは、我々の中にいる可能性が高い」
視線を落とし、誰にともなくロウは言う。
「なぜなら我々は、そうせずにはいられないのだから」
哀しいことだけどね。先ほどまでの威圧感が嘘のような弱々しい声でそう呟き、ロウは瞳を閉じた。
会議室から立ち去っていく親族達の背中を見送った後、張り詰めていた緊張の糸から解放され、ロウは深く息をもらした。
そのまま椅子の上に沈みこんでしまいたかったが人目がないとはいえ立場上そのような真似はできない。
「失礼いたします」
小さく部屋の戸がノックされ、老執事が静かに室内へと入ってくる。主の顔色を見て取ったのだろう、開口一番に言った。
「お水をお持ちしましょうか?」
すっかり空になったグラスに指先で触れてから、ロウは首を横に振る。
「皆の様子はどうだった?」
おそらくは廊下で控えていたであろう老執事ならば部屋から出た後の親族達の様子を目にしているはずである。そう思い尋ねると、少し考えるように視線を上に向けながら老執事は答えてくれた。
「なにやら腑に落ちないといった顔がほとんどでしたな」
想像していた通りの答えに、ロウは苦笑をもらす。
「無理もない。一方的で、なんとも押しつけがましい話をしてしまったからね」
くたびれた体に鞭打ち、ロウは席から立ち上がる。頭を働かせすぎたせいか少し小腹がすいていた。昼食には遅い時間だが、この後も動かなくてはならないことを考えると少しは腹に何か入れておいた方がいいかもしれない。
「軽く摘まめるものを用意してくれないか。それと、薬の用意も」
一旦自室に戻ろうと足を進めたロウだったが、老執事の物言いたげな咳払いにその歩みをとめた。
「お食事の準備でしたら既に整っております。それと……お客様がお待ちです」
「客?」
ロウは振り返り、訝しむ。
「それは初耳だな。会議中の来客はすべて断れと言っておいたはずだが」
「申し訳ありません」
疲労もあって多少の苛立ちがこもってしまったロウの言葉に慇懃に礼を返し、老執事は言う。
「なにぶん情報をえたのがつい数刻前のことであり、当主様への報告が遅くなってしまいました。ですが、勝手ながらザロメ家にとっては重要な相手だと判断し、当家にご案内しました次第です」
立ち眩みの様な軽い目眩に額を抑え、壁に寄りかかる寸前でロウは体勢を立て直した。
「まさかとは思うんだが……」
どこか冗談めかすように、ロウは言う。
「その客からは、血の臭いがするんじゃないだろうね」
「確かに、おそらくは豚の血の臭いがしましたな」
返ってきた老執事の声には、残念ながら冗談めかした響きは微塵もなかった。
「……想定していたよりも随分と早いな」
「彼らの耳もなかなかどうして、馬鹿にはできません」
「しかし、よりにもよってこのタイミングとは……」
小さく頭を振ってから再び歩き始めたロウは言う。
「いや、これは逆に幸運だったと考えるべきか。一族の意思をまとめる前に相手の反応を見ておくことができるわけだからな」
そうとでも考えないとやってられない。本音を言えばそんなところだった。なにしろ今から対面する相手ときたら血も涙もない悪魔のような輩であり、こっちが口を開くよりも前に銃弾を浴びせかけられたとしても決して驚くには値しないのだから。
「正直聞きたくはないのだが、どんな人間だった?いや、そもそも人間なのか?」
「当主様は狩人を目にするのは初めてでしたか?」
老執事に問い返され、ロウは素直に頷く。
「十年前、私は隣国にいた」
当時はまだロウの先代がザロメ家の当主を務めていた。隣国の大学に留学していたロウにとっては、当時の一族の危機はどこか他人事めいた噂話に過ぎなかったのだ。
「左様でしたな」
こちらの不安を軽減しようとしたのか、老執事の口調がわずかに柔らかいものへと変わる。
「でしたらご自分の目で確認していただくのが一番かと」
だがその気遣いは、ロウの不安をさらに増幅させることとなった。
「天井に頭がつくほどの大男……なんてことはないだろうな。まあいい。それで、御客人はどこでお待ちなのかな?」
「会食の間です」
そう答えてからついでのように老執事は言う。
「一応ご報告しておきますが、かなりの時間お待ちなので少々気が立っておられるようです」
「……それは聞きたくなかったな」
現在この屋敷に住んでいる住人はあまり多くはないので普段は使われていない会食の間の扉を見つめ、ロウは数度深呼吸をする。
(まったく、なんとも素敵な一日じゃないか)
いったい一日の内に何度こうして扉の前に立ちつくさなければならないのか?その度に心臓には負担がかかり、夜になれば洗面台の前で自分の吐いた血を見下ろすことになるのだ。
「命がいくつあっても足りないな」
ロウの呟きに、老執事は何も言わない。
「まともに一つ残っているかすらもわからないというのに」
扉に手を掛け、ゆっくりと押し開いていく。ズシリと重い何かが胸に圧し掛かるのを感じながら、なんとかロウは言葉を紡ぎだそうとした。
「お待たせいたしました。私が当家の主……」
その瞬間胸を過ぎった感情を、一体なんと呼べばいいのだろうか?
驚愕?恐怖?
確かにそうとも言える。だがそれだけではない。驚きや恐怖だけでは、この〝飢え〟についてはなに一つとして説明できはしない。
「……ロウ・ザロメです」
自分の声がひどくざらついているように感じられる。先ほどまで感じていた目眩が再発したかのように視界がグラつき床が消滅してしまったかのように足元が覚束ない。
「あっそ」
テーブルの上に散乱する皿の上にスペアリブの骨を放り捨ててから、対して興味もなさそうに狩人は言う。
「アタシは赤頭巾。知り合いはだいたいそう呼ぶから、そちらもご自由にどうぞ。ただし……」
ようやくロウの方に視線を向け、赤頭巾は静かに冷たく、それでいて強靭さを感じさせる声を発した。
「ちゃんづけしたら、その瞬間に殺すから」
ロウは生唾を飲み込む。
自分が何故そうしたのか、自分自身でも解らないまま。