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ⅠーⅣ

 振り下ろされた大人の握り拳がクレルの頭頂部に叩きつけられたその瞬間、少し離れた場所で小さく震えていたアンリは思わず目をそむけてしまった。

 「いってぇ!」

 頭を抑えて蹲るクレルを仁王立ちしながら見下ろしているのは、クレルとアンリが身を寄せている孤児院『ウィンリード孤児院』の院長を務める大柄な女性である。

 「アンタはまた許可なく院を抜けだして、その上またスリを働いてきたんだね」

 苦労を感じさせる大きな掌の上に乗せた銀貨を見下ろしながら、院長は深く息を吐きだした。

 「盗んだんじゃねえよ。それは俺んだ、返せ!」

 跳びかかってくるクレルの体を片手で軽く制し、自分に向けられた鋭い視線を院長は鼻で笑って受け流す。

 「盗んだんじゃないならなんだってのさ?物乞いでもしたってのかい」

 勘弁しておくれよ、と院長は続ける。

 「なんにせよ警察の厄介になるような真似はするんじゃないよ。面倒事はごめんだ」

 院長がクレルの体を軽く突きとばすと、まだ小柄なその体は満足に抗うこともできずによろよろと後退し、そのまま尻もちをついてしまった。慌てて駆け寄ってきたアンリが心配そうに伸ばした手を振り払うと、クレルは腰を落としたまま院長の顔を睨みあげた。

 「いいかい。ここを追い出されたくなければ大人しくしてることだね。サガン家のお情けがなけりゃアンタらは今頃その辺で野垂れ死んでいるだろうってことを忘れるんじゃないよ」

 鼻息荒く立ち去っていく院長の背中を睨んだまま、クレルは吐き捨てるように言う。

 「クソ!金さへあればあればこんな所……」

 その先は言葉にならない。頭に血が上っていたせいか、それとも院長の言うことを内心ではクレルも認めてしまっていたせいか。解っているのは、どうしようもない苛立ちがクレルの胸の奥を滅茶苦茶にかき混ぜているかのようだということだけだった。

 「……持ってかれちゃったね、お金」

 傍らのアンリが気落ちした声で言う。

 「せっかくあの優しそうなお姉さんがくれたのに」

 「優しそう?冗談だろ」

 立ちあがり、ズボンの汚れを手で掃いながらクレルは言う。

 「あの女、こっちのこと見下してやがった。ムカつくぜ」

 「もぉ、そんな言葉使っちゃ駄目だよ」

 アンリの言うことは無視し、クレルは目の前に立つ厳めしい孤児院を睨み上げた。実際に教会としても使われているため、その外観からは神聖な雰囲気が押しつけがましいほどに感じられる。

 この建物が、この場所が、クレルはずっと嫌いだった。この場所に無理やり連れてこられた五年前から、ずっと。

 「派手にやられたもんだな、クレル」

 クレル達より頭一つ分は背の高い赤毛の少年が、しょうがねえなと言いたげな苦笑をそばかすだらけの顔に浮かべながらこちらへと歩み寄ってきた。

 「……うっせぇ」

 「またぁ、ごめんねギンジー」

 軽く手を振って挨拶をすますと、ギンジーはクレルの頭を乱暴に撫でまわした。

 「なにすんだよ!」

 「気持ちはわかるけどさ、あんま無茶すんなよ」

 孤児院で生活を共にする子供達の中でも最年長となるギンジーには、院の子供達の面倒を長い間見てきたという経験があるせいかどことなく大人びたところがあった。面倒見がよく、常に相手に噛みついてくるようなクレルにも他の子たちと分け隔てなく接してくれていた。

 「そんなんじゃ本当にここを追い出されちまうぞ」

 「そうだよクレル」

 年長者と幼馴染の二人に諭され、さすがのクレルも言葉を返すことはできないようだった。それでも不貞腐れた様子に変わりはなかったのだが。

 「おれがここにいられるのも今日までだからな。あんま心配させるなよ」

 「ギンジー、本当にここを出てっちゃうの?」

 自分に向けられる寂しげな視線を正面から受け止め、ギンジーは小さく微笑んだ。

 「まあ、出てくって言ってもこいつみたいに逃げ出そうってわけじゃないけどな」

 何度も払われる手を諦めることなくクレルの頭に乗せ続け、ギンジーは言う。 

 「ザロメ家のおかげで仕事も見つかったことだし、いつまでもここの世話にはなれないさ」

 ザロメ家という大財閥の支援があるとはいえ、何十人という子供達を養い続ける孤児院の現状は厳しいと言わざるをえない。それくらいはここで暮らしているクレル達にもよくわかっていた。事実このひと月の間だけでも五人の子供達がウィンリード孤児院から巣立っている。

 「今日もこれから仕事の打ち合わせなんだ」

 そう言って安物の腕時計に視線を落としたギンジーの背に、孤児院の方から院長の呼ぶ声が届いた。

 「おっと、そろそろ行かないと」

 クレルとアンリの顔を交互に見下ろしてから、ギンジーは言う。

 「じゃあなおまえら……元気で」

 「ギンジー」

 その場から歩み去ろうとするギンジーの背に声をかけたのは、意外なことにクレルのほうだった。少し驚いたような表情で振り返ったギンジーは、クレルの手から放たれた銀の光を放つ何かを右手でキャッチする。

 「なんの仕事だかは知んないけど、文字くらい書けないと馬鹿にされるだろう。それで練習しろよ」

 自分の掌の上にある万年筆とクレルの顔とを交互に見つめてから、ギンジーは眉根を寄せた。

 「おまえ、これ……」

 「言っとくけど盗んだんじゃねえから」

 「うん、ちゃんと買ったやつだよ。私達でお金を出し合ってね」

 正直に言えば、そのおかねの入手経路についてはあまり褒められたものではなかったのだが、そこはあえてアンリも言わないでおくことにした。もちろんギンジーにもそれくらいはわかっているはずなのだが、彼の口元に浮かんだ笑みに陰りのようなものは見られない。

 「……ありがとな」

 その万年筆は古物市で手に入れた安物だった。中古品なのでよく見ると小さな傷がいくつもついているし、シルバーの光沢もくすんでしまっているように見える。だがそれでも、この万年筆はギンジーのことを考えて二人が選んだ特別な一品だった。

 「喜んでくれて良かったね」

 「ふん」

 ギンジーの姿が消えていった孤児院から視線を逸らすと、クレルはそのまま孤児院の裏門がある方へ向って歩き出してしまう。

 「ちょっとクレル、今度はどこに行くつもりなの?」

 「うっせぇな、仕事だよ仕事」

 「仕事って……もしかして新聞屋さんの?」

 「ああ」

 「もぉ、また怒られても知らないよ」

 腰に両手を当てた説教モードに入ったアンリを面倒そうに一瞥してから、クレルは駆けだす。

 「その辺は上手いこと言っといてくれ」

 あっという間に遠くなっていくクレルの背に伸ばしかけた手を所在なさげにゆっくりと下ろしながら、アンリは呟く。

 「上手いことって……どうしろってのさ」


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