Ⅰ-Ⅱ
「本日はザロメ鉄道寝台列車、ブラド・ローナ号をご利用いただきまして誠にありがとうございます」
まるでミルクの中に浸かってしまったかのような濃い朝霧に隠された田園風景の上に敷かれたレールの上を、ブラド・ローナ号はこの日も問題なく運行を続けていた。
「等列車は予定通り、あと一時間ほどで終点となりますランスールに到着いたします」
列車の二等客室車両を見回りつつ、副車掌は声を上げる。
「皆様御忘れ物なきよう、ご支度を整えてお待ちいただけますようお願い申し上げます」
ふと、ある客室の扉の前で副車掌はその歩みを止める。客室の扉にも取れかかるような格好で座り込む、この場ではなんとも奇妙な格好をした人物を見下ろし、怪訝そうに副車掌は眉根を寄せた。
「えっと……お客様?」
明らかにメイドの仕事着と思われる格好をしたその幼い人物の額には、どういうわけか〝ランスール〟と太い字で書かれている。
「お客様、大丈夫ですか?」
副車掌の脳裏に一瞬不安が過ぎるが、聞こえてきた小さな寝息から、どうやら眠っているだけらしいということはすぐに分かった。客室の中ではなく入口の前で眠っていた理由は不明のままだが。
(……子猫のようだな)
どこか愛くるしくもあるその様に緩みそうになる頬を引き締め、副車掌は何度か声をかけ続けた。
「おはようございます、お客様」
ようやく開かれたその眼にはぼんやりとした光が浮かんでおり、返ってきた声には明らかに欠伸の音が混じっていた。
「おふぁよぉございます」
「えぇっと……」
これまた猫のように目元を手で擦る様子を内心ホッコリしつつ見守ってから、副車掌は言う。
「お客様、お部屋の方に何か問題でもございましたか」
「……え?」
おそらくはまだ幼いであろう顔立ちをした中性的なメイド?は、一瞬言葉の意味が分からなかったらしく可愛らしく首を傾げた。
「いえ、とくに問題はないと思いますけど」
問題がないのならなぜ客室の前で座り込んで眠っていたのか?その疑問の声を飲みこみ、副車掌はとりあえず愛想笑いを浮かべることにした。
「それでしたら良いのですが、間もなく当列車はランスールに到着いたします。ご支度のほう、お願いできますでしょうか」
「あ、はい。解りました」
慌てた様子で立ち上がり、メイド?は頭を下げた。
釈然としない様子で首を傾げながら立ち去る副車掌の背中を見送ってから、メイドというよりも従者と呼んだほうが正しい存在であるタマは、背後の扉を軽くノックした。
「マスタ、起きてらっしゃいますか?」
返事はない。予想どおりなので特に落胆もせず、今度は少し強めにノックする。
「起きてください、マスタ。もうすぐ目的地に到着するそうですよ」
やはり返事はない。これにはさすがのタマも小さな唸り声を上げた。
「入りますよ、よいですね」
最早返事は期待していなかったので、失礼しますとだけ言ってタマは客室の扉を開けた。
「……ぅあ」
室内の惨状に思わず声が漏れてしまう。いつもの事とはいえ、目の前の現実から目を逸らしてしまいたくなった。
「何があったらこんなことに……」
客室の内部は、敵の襲撃にでもあったのかと心配させる程度には散らかっていた。旅行鞄の中にきっちりと収まっていたはずの、普通ならあまり人に見せたくないであろうものも含めた女性物の衣服が床の上に散乱し、ジャンクフードの袋や空のペットボトルが小さなテーブルの上を占拠している。昨夜夕食を運んだ時はここまで酷くはなかったはずなのだが、一夜にして一体何が起こったというのだろうか?
(局地的台風……とか?)
その疑問を投げかけるべき人物は、ベッドの上で深い眠りの世界にいた。ほとんど半裸なのになぜか真っ赤なパーカーは着用したままで。
「頭隠して……いえ、やめておきましょう」
床のわずかな隙間を進み、ベッドの脇へとタマは移動する。
「マスタ、起きてください。そろそろ準備しないとまずいそうですよ」
どれだけ声をかけようとも、どれだけ肩をゆすろうとも、赤頭巾の寝息に変化はなかった。狩人としてここまで不用心なのもどうかと思わなくもない、だがそれだけ疲れているのだろうということも、常に彼女の傍にいたタマにはわかっていた。
(ここのところずっと仕事だったからな)
命と気の両方を極限まで張る仕事だ。それが続けばさすがに疲労も溜まるだろう。かと言って、従者のタマとしてはこのままのんびりと寝かせておくわけにもいかない。寝過したなどという結果になってしまえばどんな仕置きが待っているか、考えるだけで恐ろしい。
身震いしそうになる自身の体を落ち着かせてから、仕方なくタマは最後の手段にでることにする。
「ハァ……嫌だなぁ」
ベッド脇のテーブル、お菓子の箱の上に無造作に置かれた小型の拳銃へとタマは手を伸ばした。そのズシリとした重さに嫌悪感を覚えつつ、ゆっくりと撃鉄を起こした。
カチリ、ただそれだけの音が、瞬時に世界を突き動かす。
「……おはようございます、マスタ」
首筋に軽く当てられたナイフの感触に内心冷や汗を流しながら、タマは言った。
「……はよ」
飛び上がるようにしてベッドから身を起こし、枕の下にしまっていたナイフを手に取り迷うことなくタマの首に押し当ててきた赤頭巾は、その動きとは相反した寝ぼけ声を発した。ぼんやりとした視線を天井に向け、大きな欠伸を一つ吐く。
「お目覚めのところ申し訳ありませんが、身支度のほうをお願いできますか」
「……ん」
手にしていたナイフを床の上に放り捨て、赤頭巾はベッドから立ち上がる。そのまま洗面室へとふらふらと入っていった。
「ちゃんと歯も磨いてくださいね」
水の流れる音を耳にしながら、タマは勇気を振り絞ってもう一度客室内を見渡した。それから自分自身に気合を入れるように深く頷く。
「さて、片付けますか」
列車を降りた途端、濃い霧が全身を撫でるようにまとわりついてくる。別に感触があるわけではないが、その気体には妙な薄気味悪さがあるように思えて赤頭巾は顔をしかめた。
「鉄くさい街」
なにぶん急な仕事だったため、初めて訪れるこの街についての情報はあまりないというのが現状だ。分かっているのは今しがた赤頭巾達が利用したサガン鉄道の本社があるということ程度だろう。その関係ゆえか工業関係の事業がこの街の資本となっているようだ。サガン鉄道については、今回の仕事の性質を考えるともう少し調べる必要がでてくるだろう。もちろん調べるのは赤頭巾ではないのだが。
「まずはチェックインかな。たまには広いベッドで寝たいし」
「是非そうしましょう」
自分の背丈ほどもあるアタッシュケースを背負い、キャリーバックとスーツケースを両手に持ったタマが言った。
どこもそれほど変わりがない駅の構内、雑多な人種の間を赤頭巾達は進む。
「おっと、ごめんよ」
突然飛び出してきた小さな人影とぶつかった赤頭巾は、走り去ろうとするその後ろ姿へと素早く手を伸ばし、服の襟を掴むと猫でも摘まみあげるようにして持ち上げた。
「うぉっ、なにすんだこいつ!」
赤頭巾が摘まみあげたのは、質素な服に身を包んだ男の子だった。赤頭巾の拘束から逃れようとジタバタしながら口汚い悪態の言葉を喚き散らしている。
「離せよこのクソ女!」
「クソ女ってなに?ウケるんですけど」
鼻で笑ってから赤頭巾は男の子へと鋭い視線を向けた。
「このアタシから掏ろうなんていい度胸してんじゃん。ご褒美に選ばしてあげるよ。今盗った財布をさっさと返すか、それとも多少手荒にお仕置きされてから返すか」
赤頭巾の放つ獣じみた気配に圧倒されたのか、男の子の目じりには涙が溜まり始めていた。だがそれでも歯を食いしばり、強がりでしかない声を上げ続ける。
「うるせぇ!おまえの財布なんか知るかよ。さっさと離せってば」
がむしゃらに拳を振りまわす男の子から顔を離し、赤頭巾は悪戯っぽく微笑んだ。
「うんうん、覚悟はできてるってわけね」
「ごめんなさい!」
その切羽詰まった謝罪の声は、赤頭巾の足元から聞こえてきた。視線を下げると、男の子と同い年くらいの女の子が必死な様子で赤頭巾の足にしがみついている。すっかり涙に濡れた瞳で赤頭巾を見上げ、必死に謝罪の言葉を上げていた。
「お願いですからクレルを許して下さい。本当は悪い子じゃないんです」
「アンリ、よけいな事を言うな」
女の子を巻き込みたくないのだろう。焦った様子の男の子をしばらく観察してから、赤頭巾はその体を掴む手を不意に離した。解放されたクレルと呼ばれた男の子は、突然の事にまともな反応もできずその場に尻もちをつく。
「いって!」
「クレル、大丈夫?」
心配して伸ばされたアンリと呼ばれた少女の手を払いのけ、クレルはすぐに立ち上がった。そして自分を見下ろしている赤頭巾の視線を正面から睨みかえす。
「駄目だよクレル、ちゃんと財布を返さなくちゃ」
アンリに言われ、懐から取り出した財布をクレルは渋々差し出した。キラキラと華美なコーティングがされた財布を受け取ると、赤頭巾は小さく笑った。
「うん、よろしい。素直な子は好きだよ」
舌打ちを残して立ち去ろうとするクレルの背に、赤頭巾は声をかける。
「ちょい待ち、忘れもん」
なんの事だかわからずに振り返ったクレルは、綺麗な放射線を画きながらこちらに飛んでくる銀の光を放つ何かを反射的に両手で掴みとった。開いた掌の上で輝く硬貨をしばらく見つめ、それから赤頭巾へと視線を移す。
「失敗したとはいえこのアタシから財布を掏るなんて大したものだよ。それは御褒美ってやつ」
手にした銀貨を複雑そうな表情で見つめた後、クレルは大きな鼻息を一つ洩らしてからズボンのポケットへと硬貨を乱暴に突っ込んだ。最後に赤頭巾をもう一睨みしてから背中を向け、人ごみに紛れるようにして走り去っていってしまう。
「あ、待ってよクレル」
こちらは律義に一礼を残してから、アンリもクレルの背を追って走り出す。二人の背中が見えなくなってから視線を戻した赤頭巾は、ずっと静かにしていたタマへと睨むような眼差しを向けた。
「……なにさ?」
「いえ、なんでもありません」
どこか嬉しそうに笑いながら、タマは言う。
「僕のマスタは本当は優しい人なんだなぁとか、そんなことは露ほども思ってません」
赤頭巾の握りしめた左拳が、かなりの勢いでタマの頭に振り下ろされた。
「生意気。さっさと荷物を運べ」
「痛いですぅ。ボクにも少しは優しくしてください」
人々の好奇の視線など気にも留めず、駅の入口まで颯爽と歩いてきた赤頭巾は、眼下に伸びる下り階段の先へと鋭い視線を向けたまま不意にその歩みをとめた。
「さすが……鼻が利く」
高級さを隠そうともしてないような黒塗りの車が駅の前に止まっている。その傍らに立ち、こちらを見上げているのは老齢の執事。
「協会から派遣されてきた狩人殿とお見受けします」
階段を下りてきた赤頭巾を迎える様に一礼し、老執事は言った。
「こんな若い娘を捕まえて狩人呼ばわりだなんて……マジ不躾なんですけど」
惚けるような赤頭巾の声に、老執事は小さく微笑む。
「御気分を害されたのでしたら謝罪いたします。ですが……」
おそらくは意識的に声を潜め、老執事は言う。
「貴方様からは濃厚な血の臭いがしましたもので」
「……念入りに洗ったつもりだったんだけど」
赤頭巾は溜息をもらした。
「我が主が是非とも狩人殿とお話ししたいと申しておりまして、何卒ご足労いただけませんでしょうか?」
「我が主……ね。一体どこのお偉いさんなわけ?」
恭しく、敬意を込めた声で老執事は言う。
「我が主、ザロメ家現当主にして神狼の血を継ぎし御方、ロウ・ザロメ様です」