第一章 神狼の一族
この国を覆う霧には、何かを燃やした様な焦げ臭いニオイが常に混じっているようだった。
そのせいかどうにも重苦しく圧し掛かってくるように感じられる濃い霧の中、男が一人、覚束ない足取りで歩みを進めている。その動きは一見すると酩酊者のそれであり、実際のところ男の口から吐き出される息はかなり酒臭い。だがそれでも男の意識ははっきりとしており、それゆえ眼前に迫りくる恐怖に身を震わせ、転がるようにしながら薄汚れた路地を逃げ続けているのだ。
「や……」
薄汚れたコンクリの壁に肩からぶつかり、その反動でよろめいた男はその場に尻もちをつく。
「……や…やめて……くれ」
激しく鼓動を打ち続けている心臓の音も、おそらくはすりむいて出血してしまっているであろう肩の痛みも、今の男の意識を逸らすことはできない。男の頭の中を染め上げているのは、ただただ後悔の念のみだった。
〝獣に噛み千切られたかのような異状死体〟
今朝呼んだばかりの新聞を飾る不吉な見出しが脳裏を過ぎる。警察もマスコミもあれだけ注意を呼び掛けていたというのに、自分ときたらどこまでも他人事のように構えていた。凶事はいつだってなんの前触れもなく訪れるということを本当の意味で理解することは難しいし、理解した時には既に手遅れであることが多いのだろう。今この瞬間の、自分自身のように。
地の底から響いてくるような唸り声が、夜の闇を縫うようにしてこちらへと近づいてくる。
徐々に、徐々に、こちらの恐怖を味わうように。
男がどれだけ惨めに声を上げようとも構うことなく、闇を練り上げて造られたかのような異形の存在がその大きな口を開いた。そこから覗き見える鋭利な牙が、路地に届く月明かりを反射して冗談のように輝いて見える。
男は断末魔の叫びを喉から絞り出した。そうする以外、できることなどなに一つとしてなかったからだ。だがその叫びもやがては闇の中へと虚しく溶け込んでしまい、あとに残ったのは肉を噛み千切り血を啜る、ただただ不快な音のみだった。
「やれやれ、上品さのかけらもないな」
月下の惨劇を揶揄するように響いたその声を耳にしたものは、誰もいない。
(……今日の昼飯はパスだな)
消えていく食欲に溜息を一つ洩らし、ヘッカーストリート分署の若い刑事、レント・ガルは眼下の遺体へと嫌々ながら視線を下ろしていった。血溜まりを踏まないよう注意しながら遺体の周りをゆっくりと移動する。
「三件目……ですかね」
「そうとは限らん」
遺体の傍らにしゃがみ、その損壊具合を注意深く観察していたロメール・ケイリッシ警部が素っ気なく言う。
「同一犯の仕業ではないかもしれんし、そもそも人間の仕業かどうかも怪しいところだ」
「検死官の話じゃその可能性は低いそうですが……」
「低いというよりも実際はわからなかっただけだろうよ。なんにせよ、思いこみは捜査の目を曇らせるぞ」
ロメールは立ち上がり、被っていたトレードマークのテンガロンハットを手にとった。犠牲者の冥福を祈るように、数秒間目を閉じる。
「こんな真似ができるような奴が何人も、もしくは何匹もいると考えるとさすがにゾッとするがな」
「……ですね」
今この瞬間も忙しなく動き回っている鑑識官達の邪魔にならないようその場を離れ、ロメールは愛用の煙草を口にくわえた。着古して皺だらけになったコートのポケットに手を突っ込み、舌打ちを一つする。
「くそっ、ライター忘れてしちまった。坊主、持ってるか?」
「僕は坊主なんて名前じゃありませんし、煙草も吸いません」
「そういうところが坊主だって言ってんだよ。……ったく」
「よかったらどうぞ」
隣から不意に差し出された高級感のあるライターの火に、ロメールは軽く頭を下げて煙草の先端を近づけた。
「おっと、こりゃどうも」
火を消したライターを懐にしまう人物に目線を向けたロメールは、目を見開いたまま体を硬直させてしまった。折角火をつけた煙草も思わず落としてしまう。
「……こいつは驚いた。一体こんなところでなにをしてらっしゃるんです、御当主?」
そこに立っていたのは、この薄汚れた路地にはあまりにも場違いな人物だった。ロメール達の着ているそれとは価値が二桁ほど違いそうな高級スーツに身を包んだ細身の麗人。その顔立ちは、見る者の認識能力に一瞬のエラーを起こすほど中性的に整っている。だがなによりも人目を引くのは彼の肩まで伸びた髪だろう。金髪という形容詞の持つ真の意味を、その神々しい輝きは示しているかのようだった。
「当主はやめてください、警部さん。気軽にロウとでも」
「そいつはあまりにも恐れ多い」
ロメールは一応苦笑して見せたが、実際のところその言葉に嘘や偽りは一切なかった。突然現れた身分違いの人物を前に、まだ若さの残るレントなどは馬鹿みたいに口を開いたまま硬直してしまっている。
「このところ巷を騒がせている事件の新たな犠牲者がでたようだと耳にしましてね」
ここが殺人現場だとは思えないくらい優雅な微笑みを浮かべながらロメールが言う。
「御心配なく。お邪魔にならないよう注意しますので」
「……そうですか」
殺人という第一級の犯行現場であるこの路地は、当然のことながら捜査関係者以外の立ち入りを厳重に制限されている。だからと言って見張りの警官達を責めるのは酷というものだろう。この街の顔でもあるザロメ鉄道を経営する財閥、時代が時代なら城の一つや二つは与えられていてもおかしくはないほどの権力を持つ一族、ザロメ家。その現当主を止められる者などこの街には存在しないのだから。
「それで、なにか判りましたか?」
今日の天気でも尋ねているかのようなロウの問いかけに、困ったような苦笑を浮かべてロメールは頭を振る。
「さすがにそれを教えるわけにはいきませんよ」
たとえ昼飯前に俺の首が飛ぶことになったとしてもな。続くその言葉を、すんでのところでロメールは飲み込んだ。
「当然でしょうね。無粋な質問をしてしまいました」
特に気を悪くした様子もなくロウは頭を下げる。謝罪されたロメールのほうがむしろ居心地の悪そうな顔をしていた。
「では、私はこれで失礼します。事件の一刻も早い解決を願っていますよ……一市民として」
最後までその優雅な仕草に綻びすら見せぬまま、ロウは事件現場から立ち去って行った。
その姿が見えなくなってからようやく、事件現場にいた捜査関係者たちは皆一様に深く息を吐く。
「御当主様、本当に何しに来たんでしょうね?」
まだ緊張が解けないのか、どこか硬い表情のままレントは呟いた。
「……さあな」
ロメールはさして興味もなさそうに呟くと、地面に落してしまった煙草を摘まみ上げ、付着した砂粒を息で吹き飛ばしてから銜えなおした。
「ザロメ家には関わるな」
「え?」
美味くもなさそうに煙を吐き出し、ロメールは言う。
「昔、先輩に言われたよ。この街で生きていきたいのなら、ザロメ家には関わらないのが賢明だ。下手にちょっかいを出せば頭から丸飲みにされるぞ……ってな」
おまえもそうしろ。生きていたいのならば。
遠まわしにそう忠告されたような気がして、レントはその身を震わせるのだった。
大通りに停車されていたリムジンの傍らに隙なく立っていた老執事が恭しく頭を下げ、車の後部ドアを静かに開けた。塵一つ見当たらない清潔なシートへと沈みこむように腰を落ち着かせてから、つい先刻までの朗らかさが嘘のような沈んだ表情をロウは浮かべた。補足しなやかな指の先を額に当て、疲労を滲ませた吐息をもらす。
「如何でしたか?」
ゆっくりと発進したリムジンのハンドルを握る老執事が何気なく訊ねてくる。普段なら滅多に自分から言葉を発してこない老執事の言葉に内心ロウは首をひねり、これは心配させてしまっているのだなとすぐに察した。
「おそらく、オオカミの仕業だろう」
主の憂鬱を感じ取ったのか、老執事はすぐに言う。
「流れ者の仕業という可能性もございます」
わずかに口角を上げつつも、ロウの口調から重さが抜けることはなかった。
「ここは昔から我々の縄張りだよ、随分と昔からね。先々代から仕えてくれている君なら良く知っていることだろうとは思うけどね」
「差しでがましいことを申しました」
「構わないさ。そうであったらどれほど気が楽だろうかと、実を言えば僕も願っていたんだ。……他言無用で頼むよ」
だがこの願いが叶うことはないだろう。おそらく、ザロメ家にとって事態はとっくに最悪の方向へと向かっている。もしかしたらもう既に手遅れなのかもしれない。仮にそうだとしても、為すべき事は為さねばならないだろう。それがザロメ家当主としての、そして心労の血を受け継ぐものとしての義務なのだから。
(護らねばならない)
ただそれだけを反射的に思う。
具体的に何を護るのか、その点については無意識のうちに答えを出すことを避けてしまっていることに、この時のロウはまだ気付いていなかった。
「ザロメ家の力をもってしても、これ以上隠し通すのは不可能だろうな」
しばしの沈黙を挟み、静かに、だが迷いのない声でロウは言った。
「連中が動くのも時間の問題か」
伏せがちだった目線を上げたロウは、運転する老執事の名を呼んだ。
「会議の予定を少し早めることにしよう」
「かしこまりました。直ちに手配を進めます」
街の外れ、街路樹の隙間から見えてきた我が家。
ザロメ家の歴史そのものといっても過言ではないその居城を見上げ、ロウは誰にともなく言う。
「狩人が来る。再び、我らを狩りつくすために」