プロローグ 赤頭巾VS三匹の豚野郎ども
潮の香りが鼻につく。
防錆処理が万全に施された右腕が錆びることはまずないだろうが、それでもわずかに軋んでいるような感覚がどうしてもぬぐえず、魚の腐ったような不快臭に眉根を寄せながら赤頭巾は舌打ちを一つした。右手の義手を覆い隠す手袋のズレを神経質に直しながら、口の中だけで呪詛の言葉を呟く。
「……マジたるい」
夜の帳が下りた港町、普段から人通りの少ない裏通りには当然ながら人影などほとんどなく、なにやらブツブツと呟きながら道を進む場違いな格好をした若い少女の姿を見咎める者はどこにもいない。月明かりに照らされ神秘的に輝いているようにも見える真っ白い髪に手を当てた赤頭巾は、潮風は髪を痛めるという話を思い出し、その呼び名の由来ともなった赤いパーカーのフードを目深に被った。
「悪いなお嬢ちゃん」
赤頭巾の歩みを遮らんと立ち塞がった黒スーツの大柄な男。彼女より頭一つか二つ分は背名高い男のいかつい顔を無表情に見上げ、赤頭巾はどこかわざとらしく首を傾げて見せる。男の全身から発せられる暴力の気配になど気付いた素振りすら見せずに。
「生憎と今日は貸し切りなんだわ」
赤頭巾は男の肩越しに、特徴的なレンガ造りの建物に掲げられた看板へと目を向け、そして言う。
「このレストランにホークさんがいると聞いて来たんだけど」
近くの港でとれる魚介類をふんだんに使った海鮮料理が評判の店『煉瓦亭』、夜には酒を提供するバーにもなるその店で月に一度彼らファミリーの集会が行われている。腫れあがった目元に涙を浮かべながら情報屋はそう言った。赤頭巾を見た目で判断したことを最大限後悔しながら。
「なんだお嬢ちゃん、ボスに用なのか?」
そう尋ねてから何か察したのか、男の口元に下卑た笑みが浮かんだ。
「なるほどね、お仕事ってわけかい。お嬢ちゃんも大変だな」
「そうなの、こう見えて結構大変なの」
左腕に吊るしたバスケットを掲げて見せ、赤頭巾も口元だけの笑みを返した。
「ほらアタシってば超人気者の売れっ子ってやつじゃん。引っ張りダコってやつ?なんでタコを引っ張るのかは知んないけど。なんつうかさ、人使いが荒いんだよね」
真っ赤なフードに隠れた赤頭巾の顔をわざわざ屈んで覗きこみ、男は小さく口笛を吹く。
「へぇ、よく見ると結構かわいいじゃんか。お嬢ちゃん、幾らだ」
どんどん露骨になっていく男のニヤニヤ笑いを上目遣いで見上げ、赤頭巾は無感情な声をその小さな唇から紡ぎ出す。
「高いよ、アタシ」
右腕のほとんどを占める機械部分が、脳内で発せられた電気信号を血管沿いに張られた特殊な金属繊維を経由した命令を受信することで唸るような駆動音を鳴らし始める。どこか地響きを連想させるようなその振動音に眉を寄せる男に形だけの笑顔を向け、赤頭巾は言った。
「ビビって心臓止まっても知んないから、マジで」
そして右手をゆっくりと握りしめる。
『煉瓦亭』のほぼ中央にある大テーブル、そこが彼ら兄弟のいつもの会談場所だ。
この小さな港街に大きな縄張りを持つマフィアであるホークファミリー、その頭領である三兄弟の長男エル・ホークは、シェフが腕を振るったメイン料理であるヒラメのムニエルをフォークで口に運び、唸るように歓喜の声を上げていた。
「うぅむ、まさにこれこそが美味というものだ。そうは思わないか、弟よ」
兄とは対照的にがつがつと料理を口に運んでいた弟のエム・ホークは、何度も頷きながら返答する。
「まさにそうだね、兄さん」
「まったく、こんな美味いものが存在しているというのにあんなゲテモノを好んで喰いたがる連中がいるということが私には信じられんよ。そうは思わんかね、弟よ」
再び何度も頷き、口に入れた料理を咀嚼しながらエムは答える。
「まさにそうだね、兄さん」
造り物じみたカイゼル髭を指先で撫で、丸々と突きだした腹を揺らしながらエルは笑い声を発した。
「まあもっとも、そんな連中がいるからこそ我々はこうして美食に舌鼓を打てるわけだが。所詮肉食の連中に美食のなんたるかなど理解できるわけもないということだな。そうは思わんかね、弟よ」
兄弟の向かい合うテーブルの周りに配置された黒服の一人に視線を向け、エルは聞く。
「エスはまだ来ないのか?」
「積み荷の確認に港へ行くと……」
「やれやれ、どうせまた色街でもうろついているんだろうよ」
顔をしかめ、エルは黒服達に言う。
「おい、誰か人をやって……」
ガラスの割れる派手な音と共に大きな黒い何かが店に飛び込んできたのは、まさにその瞬間のことだった。
驚きに身を強張らせるエルと、料理を運ぶ手はさすがに止めたがなにも理解できていないようなぼんやりとした顔をしたエム達兄弟の眼前にその物体、外を見張らせておいたはずの黒服の巨体が落下する。テーブルの上に並ぶ美食の数々をなぎ倒しながら。
破壊音の後に漂う奇妙な沈黙を破ったのは、目の前のごちそうを台無しにされたエムの悲鳴じみた叫び声だった。それからエルの静かだが太い怒声が続く。
「誰だ……てめぇ!」
石畳の上に散らばったガラスをブーツの底で踏み鳴らしながら、真っ赤なパーカーに挑発的なホットパンツ姿の少女が『煉瓦亭』の中にゆっくりと入ってくる。自身に向けられた無数の銃口など意にも介さずに。
「誰って、見て分かんない?」
世界のすべてを小馬鹿にしているかのような微笑を浮かべ、少女は言う。
「赤頭巾、知り合いからはそう呼ばれてるよ。あんたらがどう呼んでるかは知んないけど」
その名前とは呼べないような奇妙な響きは、一瞬で場の空気を凍りつかせた。明らかに悪くなった顔色を隠すように口元に手を当て、エルが呻くように言う。
「まさか……血塗れの死神」
「うーん、格好いいけどちょっとガキっぽいかな。もっと気楽に赤頭巾でオケ。ただし……」
赤頭巾の目に凶暴な光が一瞬宿った。
「ちゃんづけしたらその瞬間に殺すから」
まだ成人もしていないような少女の発する迫力ではないと、耳にしたいくつかの信じがたい噂があながち嘘でもなさそうだと素直に受け入れ、その上ですぐさまエルは考えを巡らせ始める。
「……これはこれは、かの有名な赤頭巾殿がこんな寂れた街に一体どういった御用でいらしたんですかな?」
テーブルの上ですっかりノビてしまっている部下を一瞥し、エルは言う。
「どうにも私の部下が無礼を働いてしまったようですが」
屈強さが自慢だったはずの大男は、今や無惨なほど顔を腫れあがらせ、白目を剥いたまますっかり気を失ってしまっている。
「そうそう、それね」
小さく鼻を鳴らした赤頭巾は、気絶した男へと蔑むような視線を向けた。
「そいつアタシを商売女扱いしたのよ。信じられる?マジ失礼だと思わない?こちとら身も心も純真無垢な乙女だっつぅの」
腰に手を当て、赤頭巾は頬を膨らませる。その言動からは歳相応の幼さを感じさせるところがあり、その事が余計にエルの混乱の度合いを深めるのだった。
「それは申し訳ないことを、無礼な部下に変わりまして謝罪いたします」
「謝るついでってわけじゃないんだけどさ、おじさんのその無礼な部下達に言っといてくんないかな。そのいかにも男性的な威嚇行動を今すぐやめるようにって。別にいいんだけど、これじゃ落ち着いて話もできないじゃん」
エルは思わず乾いた笑い声を上げた。
「申し訳ありませんが、それはお話しの内容によるでしょうな」
首にかかったままだったナプキンを外し、テーブルの上でノビている部下の顔を隠すように放り捨てる。椅子からその大きな尻を持ち上げると、エルは言葉を続ける。
「なにしろあなたは狩人だ。誠に遺憾ではありますが、我々は敵同士だと言わざるをえません」
「それもそっか」
床に転がっていたワインの空き瓶を何気なく拾い上げると、万華鏡でも見るかのように瓶の中を覗きこみながら赤頭巾は言う。
「いいけどね、こんな感じの反応は慣れっこだし。ぴえん」
「敵とは言いましたが……」
先手を取るようにエルは言う。
「小さな商売を営むだけの小さな群れに過ぎない我々が、あなた方の手を煩わせるようなことはしていないはずなのですが」
「小さな商売……ね」
「ええ、ちょっとした運送業とでもいいますか、食料品などの船荷を扱っております」
「知ってる。一応調べたから、アタシじゃない誰かが」
聞いた内容を思い出しているのか天井に目を向けながら、赤頭巾は言う。
「クリーンな積み荷、クリーンな料金、クリーンな商売」
「まさにその通り」
「でもどうしてかな」
赤頭巾は大袈裟に首を傾げて見せる。
「この街の潮風は、血の匂いが強すぎる」
エルは内心の動揺を隠すように小さく喉を鳴らし、首を横に振る。
「はて……なんのことですかな」
「ホークの肉屋」
腰に触れたテーブルのガタつく音がやけに大きく響く。額に汗を浮かべるエルの体は、今や小刻みに震えていた。
「アンタ達の間では結構評判みたいじゃん。なんての……肉食系ネットワークってやつ?よく耳にするよ、あそこはなかなか上等の肉をだすって」
「…………」
「人の口に戸は立てられない……なんてね」
不意に、本当に何気ない動作で赤頭巾は手にしたワインの空き瓶を放り投げた。それはまさにエルが部下達に指示を出そうとしたその瞬間のできことだったのだが、店の照明を反射したワインの瓶が美しく宙を飛んでいくというその光景が、エルの意識から一瞬警戒心を奪い去ってしまう。
そしてその一瞬の間に全ては始まり、そして終わるのだ。
「ましてやアンタ達のデカ口なら尚更ってやつ」
辛うじてエルの耳で聞き取れた銃声は二発。
だが赤頭巾の手にいつの間にか握られていたブローバック式ハンドガンの銃口から飛び出した銃弾は、実際のところ四発。
それらの弾丸は黒服達の片膝を正確に打ち抜き、突然の銃声に腰を抜かしかけたエルが視線を向けた時にはすでに彼らの体から攻撃性を奪い去ってしまっていた。
「アンタ達の本能ってやつまで否定するつもりはないんだ。むしろアタシ的には寛大な心で接してるつもり」
ゆっくりとエルの傍まで歩みよってきた赤頭巾は、まだわずかに熱を帯びている銃口をエルの額に押し当てる。空のバスケットを床の上に放り捨てると、でもさと言葉を続ける。
「人の肉で商売しようってのはさ、さすがにちょっちやりすぎだよね」
すっかり全身汗まみれになりながらも妙に落ち着いた様子で一つ息を吐き、エルは言う。
「さすがは冷血な狩人、随分と酷いことをする。彼らはただの人間ですよ」
撃ち抜かれた膝を抑えながら激痛にのたうちまわる黒服の男達を一瞥し、赤頭巾はどこか不満そうに唇を尖らせた。
「そんなん知ってるし。だから殺さなかったじゃん、感謝してくれてもよくない?」
厨房から怖々と向けられる視線にようやく赤頭巾は意識を向けた。
「あのさ、逃げるんなら今のうちに逃げたほうがいいんじゃないかな。今夜の事は不幸な事故だと思ってさっさと忘れちゃうのがおススメ」
『煉瓦亭』の従業員たちはしばらくの間互いに顔を見合わせていたが、やがて先を争うようにして店の出入り口向かって駆け出していった。
「なるほど、噂に聞いていたよりも随分とお優しいようだ」
「でしょう。天使のようだってよく言われるし」
「ではその天使の慈悲とやらを私にも示してはくれませんかな」
「う~ん、悩む」
一見すると本気で悩んでいるかのように赤頭巾は言う。
「狩猟許可書の手続きは面倒だし、反省して商売替えするのなら半殺し程度で済ませてあげてもいいかなって感じなんだけど……どうする?」
まさに天使のような微笑みを向けられたエルは、引き攣った笑みを浮かべながら言葉を発した。
「その前に、一つだけよろしいですか?」
「命乞いなら笑えるやつで」
「貴様らが卑しいとみぐ出す我々にも矜持ってやつがあるんだよ」
震える声でありながらもエルの声は徐々に大きくなっていき、やがては力強い叫びへと変わっていった。
「そこんところをそのさびしい胸にしっかりと刻んでおきな、赤頭巾ちゃん!」
黙ったままエルの叫びを聞き終えた赤頭巾の笑顔に変化はなかった。だがその青い瞳の奥からは、見る者が見れば狂気の光がはっきりと見て取れることだろう。特にその視線を向けられた相手であれば尚更だ。
「えっと、それはつまりこういうことかな」
笑顔のまま、赤頭巾は楽しそうに言う。
「できるだけ苦しむ方法で、なるべく時間をかけて、それはもうむごたらしく殺して下さい。ってことでオケ?」
エルは激しく鼻を鳴らす。その鼻は、先ほどまでよりもはっきりと上向きになっていた。
「違うね!楽しいお喋りの時間は終わりって意味さ」
通常時よりも数倍は大きく伸び、まるで鋭利な刃のようになった牙を光らせながら、エルは獣じみた雄叫びをあげた。
「さっさとこの小娘を殺せ、エス!」
濃厚な気配と咆哮に赤頭巾が振り返るよりも一瞬早く、『煉瓦亭』ご自慢である煉瓦造りの壁をぶち破り、天井に頭が届きそうなほどの大男が外から室内へと飛び込んできた。
ひしゃげた鼻、つりあがった目、自身の口を突き破ってしまいそうなほどに伸びた牙。一瞬の判断からその巨体を敵と認識した赤頭巾は、手にした銃をこちらに向かってくる大男に向けると躊躇なく引き金を引いた。だがさすがに体勢と角度が悪かったのか、火薬の炸裂音と共に発射された銃弾の数発は壁に穴を開けただけに終わり。命中ラインに乗っていた弾丸も、赤頭巾の首よりも太そうな大男の腕によって防がれ致命傷とはならない。結果突進の勢いを止めるには至らず、赤頭巾の体をその勢いのまま撥ね飛ばした。その華奢な体は宙を舞い、そのまま壁に亀裂が走るほどの勢いで背中から激突した。
「よぉし、でかしたぞ弟よ」
「え、なんだい兄さん?」
テーブルの下で頭を抱えて震えていたエムが顔をのぞかせる。
「おまえじゃねぇよ、この役立たず!」
「いでぇ。兄ちゃん、腕がいでぇよ!」
そのいかつい巨体に反し、ホーク家三男エス・ホークはまるで幼子のような声を上げた。
「落ち着けエス、弾は後で抜いてやるから」
壁にもたれてうずくまる赤頭巾を指差し、エルは言う。
「とにかくあの娘を殺すんだよ。さっさとしろ!」
「えぇ、いいのぉ?」
キョトンとした顔でエスは尋ねる。体の大きさは兄弟一だが、頭の働きと気の弱さはやはり末弟のそれなのだ。
「良くはねえよ!」
興奮しているのか、喚くようにエルは言う。
「ここでこいつを殺しても今度は別の狩人がやってくるってだけの話だろうよ。だがな弟よ、肝心なのはそれで多少なりとも時間が稼げるってことなんだよ。そして今の俺達にはなによりもその時間ってやつが必要なのさ。わかったか?いやいい、わからなくても良いからさっさと殺せ!」
「わかったよ兄ちゃん。よくわからないけど、おで、あの女の子を殺すよ」
何度も頷きながらエスは手近にあった椅子を片手で軽々と持ち上げ、赤頭巾の蹲っていたはずの方向へと体を向けた。そのまま進みかけた足を不意に止め、そして首を傾げる。
「……兄ちゃん」
「あ、どうした?」
「いないよ」
「……あぁ?」
「あの女の子……」
赤頭巾が蹲っていたはずの壁のほうを指差し、エスはやけに間延びした声で言う。
「いなぁいよ」
エルの視線が吸い込まれるようにそちらへと向けられた直後のことだった。彼ら兄弟のすぐ傍らで、呻くような低い声が上げられたのは。その声に振り向いたエルが目にしたもの、それは彼の弟であるエムの顔を右手で鷲掴みにし、そのまま軽々と持ち上げている赤頭巾の姿だった。
「……ぅあ」
その引き攣ったような声を発したのが自分なのか、それとも弟たちのどちらかだったのか、驚愕と恐怖で麻痺してしまったエルの頭では判断できなかった。
白い髪の下から流れ落ちる一筋の血流。唇に触れた自身の血を艶めかしく舌で舐めとると、赤頭巾は視線をエル達の方に向ける。刹那、彼ら兄弟の全身から一瞬で熱が奪い取られ、全身に小刻みな震えが走り出した。本能的に一歩後退したエルは、傍らのエスと瞬間的に視線を交差させ、その潤んだ瞳に宿る感情を互いに共有することとなる。
クワレル。
脳裏に過ぎったのは、言葉にもならぬ本能的な恐怖であった。
「あァァああぁ唖っ!」
何十年と共に過ごしてきたというのに、エスのそんな叫び声をエルは初めて耳にした。
それは恐怖を振り払おうとするあまりよけいに恐怖に捕らわれてしまったかのような、憐れみすら感じさせるような悲痛な声だ。事実、手にした椅子を振り上げたエスの顔は今にも泣き出してしまいそうに歪んで見える。
恐怖にかられながらも振り下ろされた椅子は、見事に頭部へと直撃した。その威力の程は、振り下ろされた椅子が粉々に砕け散ってしまったことからも疑う余地はないだろう。
(……ああ、よかった)
砕け散る椅子の破片を目にしながら、エルはそんなことをぼんやりと思った。
(すくなくともこれで、エムの呻き声を耳にしないで済む)
盾代わりにされた憐れなエムの体を放り投げ、赤頭巾は握りしめた左拳をエスの横っ腹にめり込ませる。腰の入ったボディーブローを受け、エスの巨体が一瞬だが確かに浮かび上がるのをエルは目にすることになる。唾液を撒き散らしながらもなんとか反撃に転じたエスは赤頭巾目掛けて拳を振るう。小柄な体を素早く動かして右方向へと旋回していた赤頭巾は、エスの顎に回転の勢いを加えた肘内を叩きこんだ。急所を打ち抜かれる形になったエスであったが、その見た目通りの頑丈さを発揮することでよろめきながらも唸るような右ストレートを赤頭巾目掛けて繰り出す。ほぼ同時に動いていた赤頭巾の放った右拳がエスの拳とぶつかり合う。その瞬間エルの耳に届いたのは、骨と骨とがぶつかり合う音とは微妙に異なる音であった。
砕けた骨が肉を突き破り、冗談のように血を噴き出させる右手へとどこか他人事のような視線を向けていたエスの横顔を、赤頭巾のホットパンツから伸びた形の良い脚を覆うブーツの底がめり込むんだ。エスのその巨体が冗談のようにきりもみしながら宙を舞い、そのまま床の上に叩きつけられる。鼾のような声を一つ洩らした後、全身を痙攣させる以外の動きをエスは見せなかった。
「あ~あ……」
エスの腕よりもよっぽどひどい状態に見える右手をブラブラとさせながら、赤頭巾は言う。
「しくったなぁ、普段用のやつで思いっきり殴っちゃったよ。また文句言われる」
ひどく歪な形となった右手を、赤頭巾は左手で躊躇なく〝調整〟し始めた。その行為を治療でなく調整だとエルが認識したのは、聞こえてくる音が骨や肉の発するそれとは明らかに異なっていたからだ。レザーの手袋に隠された右手が実際にはどうなっているのかまではわからないのだが、その金属質な音はどう考えても骨折を治療している音とは思えない。
「草食のくせしてやんちゃしてくるからさ、うっかり爪立てちったよ」
ようやく手と呼べる形となった右手の動きを確かめるように動かしていた赤頭巾は、満足そうに頷いてから独り言のように呟く。
「うん、とりあえず動くから良しとしとこう」
一発の銃声と、金属同士がぶつかりあう耳障りな音。無雑作に振るった右手で弾丸を叩き落とした赤頭巾は、撃たれたという事実よりも、レザーの手袋に着弾した個所が裂けてしまったことに対してショックを受けているようであった。
「ちょっと!これアンダーグルーの新作なんですけど」
「おっかないな、まったく」
確かに銃弾が飛び出したはずの銃へと疑うような視線を向けながら、エルは苦笑交じりに言う。
「近頃の女性は見た目では判断できない……ということかな」
片手で銃を構え、空いた方の手で神経質に額の汗をぬぐいながら、エルはよろめく体を椅子の上へと下ろした。
「一つ賢くなったっしょ。ホント言うとさ、これってあんまり可愛くないからあんまり見せたくないんだよね」
レザーの手袋の亀裂から覗くその肌は、人の素肌とはとても思えない鈍い銀の色をしている。
「まさか銃弾が飛び出してきたりはしないですよね?」
「さあ?鳩くらいは出てくるかもね」
種も仕掛けもありません。そう言って、赤頭巾は無邪気に笑った。
「あのさ、そろそろやめとかない?」
床の上で大の字になっているエスの体を無雑作に踏みながら赤頭巾は言った。
「これ以上やるとうっかり殺しちゃいそうなんだよね。許可が下りてないのにやっちゃうとさ、いろいろうるさいんだ」
「……よく言う」
つい先ほど浴びせかけられた殺意を思いかえし、エルは身震いする。
「この辺が落とし所かなぁって思うんだよね。うん、あんまり悪さをしないよう脅かしてこいってのがさ、今回のアタシの仕事だったわけだし」
「十分なくらい脅かされましたよ。それはもう、縮みあがるくらいに」
「下ネタに引くほど初心じゃないし」
何気なく歩きだそうとする赤頭巾にもう一度しっかりと銃口を向け、エルは鼻を鳴らす。
「まだやる気なわけ?冗談は顔面だけにしといてよ」
「言っただろう、矜持という奴だよ。ここまで派手にやられた上に不様な情けまでかけられたなどと我々の世界で知られれば、どちらにせよ商売あがったりだ」
赤頭巾は納得するように一つ頷く。
「まあね。狩人に目をつけられたなんて話が広まったら、アンタ達ご自慢の商売とやらも遣り辛くなるでしょうね」
でもね、と赤頭巾は続けた。
「その点は心配いらないと思うよ」
「は?」
「わかんないかな。アンタ達って、とっくに積んでるんだよね。いやマジで」
エルの背後から振り下ろされたのはフライパンだった。その黒い鉄板がえるの頭に叩きつけられ、この場ではなんとも間の抜けて聞こえる音を店内に響かせる。思わぬ衝撃を受けたホークファミリー頭領は、目をまわしながらズルズルとその場に崩れ落ちていった。
「ウケる。……けど遅い!」
「ご……ごめんなさいです、マスタ」
赤頭巾の不機嫌な声に体を震わせたのは、最近では見ないような古いタイプの給使服に身を包んだまだ幼いメイドであった。元気良くあちこちにはねた黒髪と大きな瞳が特徴的な、どこかオドオドした猫を連想させるようなそのメイドは、フライパンを抱きしめるように抱え込みながら何度も頭を下げ続けている。
「で?」
「はい。ご命令どおり港の倉庫を捜索、冷凍保存された人肉の一部と、監禁状態だった数名の生きた人間を救護しました。既にこの街の警察機関に通報してありますので、間もなく現場にて一斉摘発が始まるかと」
「だってさ」
白目を剥くエルを見下ろし、赤頭巾は言う。
「しばらくは臭い飯ってやつで我慢しなきゃいけないみたいだね。ま、ダイエットにはちょうどいいんじゃいない」
「マスタ、お怪我を?」
額の血を拭おうと向けられたハンカチを軽く手で払いのけ、赤頭巾は言う。
「もう止まってる。いいから、アンタはこいつらを縛っといて」
「えぇ、ボク一人でですか?」
「そうよタマ」
タマと呼ばれたメイドの額を何度も指でつつきながら、赤頭巾は言う。
「メイド衣装に身を包んだ変態少年であるアンタが一人でやるわけ、わかった?」
「ぅぅ~、わかりましたぁ」
『煉瓦亭』のフロントにある電話が鳴りだしたのは、タマが怯えながらエルの体を縛り始めた時のことだった。
「相変わらず、見計らったかのようなタイミング」
フロントの机に寄りかかった赤頭巾はいかにも面倒くさそうに受話器を取り上げる。
「うちの店は出前やってないよ」
『報告を』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、錆びた鉄を連想させるような皺枯れた男性の声だった。
「スル―かよ」
受話器から口を離し、赤頭巾は毒づく。
「任務は無事終了。問題なし、今は後片付け中」
『少々時間がかかったようだな。草食をちょっと脅しつけるだけの簡単な仕事だったはずだが』
露骨な嫌みに赤頭巾は頬をひきつらせる。
「予想外の抵抗に遭った。以上、報告終わり」
『なるほど、それでやり過ぎたと。いつも通りだな』
「抵抗に遭ったからちょっと捻っただけだし、やり過ぎてないし。以上、報告終わり!」
背後から聞こえてくる無数の呻き声は無視して赤頭巾は言った。
『次の仕事だ』
赤頭巾の全身から再び凶暴な気配が発せられ、離れた場所で包帯を手にしていたタマが小さな悲鳴を上げた。
「……笑えねぇ冗談を言うじゃないか、くそジジィ」
『笑わせてやる義理もないね、くそガキ』
怒りに肩を震わせながら、内に溜まった殺意を吐き出すように赤頭巾は深く息を吐いた。
「あのさぁ、アタシってば三日もかけてこんな寂れた港町までやってきたわけよ。生温い潮風と臭い豚の血を浴びながらようやく一仕事終えたアタシがちょっとの休憩をとろうと考えるのはおかしいんですかね?」
『安心しろ。列車に揺られながらでも寝ることはできる』
「そういう話じゃ……」
『獲物は狼だ』
その一言、否、その単語だけで赤頭巾を黙らせるには十分だった。憤怒や怠惰の空気は一瞬で霧散し、あとに残ったのは狩人としての冷酷な仕事意識のみ。
「ちょい待ち……、タマ、なんか書くもの!」