そのに。
キーワード見て「やっべえなこれ!」ってなった人は自己責任でよろしくです!
感情が高ぶればその分、平坦に生きようと言う気になる。
世の中の全てがバランス論で片付けられるんじゃ無いだろうかと本気で信じている私は、おそらく今生きて来た中の何割かのしんどい思いをまだまだ序の口の悪夢だと思っている。
私は今とても幸せで、たまに耐えられないくらいの不安が頭をよぎり全て壊してしまいたい衝動に駆られる事がある。
人間関係や自分の置かれている状況だったり、そう言ったものから逃げ出してしまいたいと思っていても、私はいつもまたどこかのスタートラインに戻っている。
苦しくて苦しくて叫んで誰にも相談出来ない内容や事柄に悩んで悩んで絶望して、私はふと我に帰るのだ。
そんな事しても無駄なんだと。
ここは現実でどれだけ叫んだところで自分以外に味方は居ない。
親も友達も一歩先を行く全然別の生き物であり、頼る事は許されない。
押し込めて押し込めて自分の中で消化するのにどれだけの時間が掛かったとしても、私はその人達を信用出来ないからだ。
私の事は所詮私が解決するしかないのだから。
誰かに選択を任せても最後に決断を下すのは私だ。
私がどの事柄に対しての判断を下してもその責任は私が取らなければ行けない。
その為には誰の意見も所詮は選択肢を傾ける要因の一つにしかなり得ないと思っている。
初めからその一点のみに信用しなければ楽しい友人関係で居られたと気付いたのはいつだったのだろうか。
学校の中でグループと言うものが出来て壁を感じ始めた頃からだっただろうか。
誰に相談しても人は自分の事でみんな手一杯なのに。
誰かの話しに対して意見を求められる時にだけ答えればそれで充分、それ以上に答えたとしてもきっと彼等にとっては「うるさい」と思われる要因の一つとなってしまうのだろう。
たらればの話しではあるものの、だからと言って求められる以上に答えれば面倒な事になる事が多かった。
簡潔に吐露した部分は自分が決め付けて居る自覚があるが、今のところはその一点のみ気を付けてみることにしている。
夢の中は自由だけれど、本来なら知り合いでない私自身の知り合い同士が話している時の会話などは面白い。
知らないはず同士の言葉なのに会話が成立してしまっているから信憑性は無いけれど、その人が本当はその時どう思っているんだろうかと想像する事が出来るからだ。
人と話す時、おおよその会話分を覚えている。
それはその会話した相手に対して気を使う為であり、自衛のためでもある。
気を抜く時は全部は覚える必要は無いけれど、その人物に対しての情報や行動、趣味嗜好は知っていて損は無かった。
喜んでくれる事を自ら進んでする事は私にとって苦では無いからだ。
ただ、日頃から気を使い過ぎると疲れるので、事実内側の人達に該当する人にはバラバラの感情で接する事になるのだが。
わざと冷たく当たったり逆に懐いたり構ってもらったりわがままになったり。
人一人それぞれに違う態度を取るのだが、少し変だなくらいで済む様にセーブ出来てれば良いなあと思わなくも無い。
残念ながらストレスを溜めやすい性格になるので自己分析をしながら周りからどう見られているのか気を付けながら疲れない様にばら撒くのだった。
夢の中の事、と言うよりも愚痴のようになってしまったけれど、これはきっと自分の中でリフレッシュする為にとっても必要な事なんだろうと思っているので、これからも続ける事だろう。
私は自分の中で自己処理出来る回路を作っているので、誰かの話しを聞いたりする事は得意だった。
私の周りの人間が苦しむくらいなら、私で良ければいつでも好きに使って良いのにと毎日思っている。
誰かに聞いてほしい、誰かに助けてもらいたいと思う事は絶対に悪い事なんかじゃない。
誰だって自分一人で溜め込むのは無理だ。
処理が追い付かなくて心が壊れてしまう。
そうなったら先の事を悪い様に考えてしまって、思考はその場から動き出せなくなるだろう。
それは私が嫌だ。
私の周りの人達には幸せになってもらわないといけないからだ。
自由な精神で自分の考える最善の生き方をして幸せになってもらいたい。
人それぞれ幸せな形は違うだろうが、その合間で私と遊んで貰わなければいけない。
私は誰かと会話しなければきっと悪い方に考え出して止まらなくなってしまうから。
そう言う意味での利用されると言う事なら喜んで手を貸すのに。
私は自分の為に友達を守りたいと思っている。
そして私に守らせて欲しいとも思っているのだ。
弱くて脆い心はすぐに崩壊してしまうのを見た事があったので、もう2度と同じ事を繰り返さない為に。