アレクシス・クシュナー その1
「わるいな。アレックス」
東洋人の男が流暢なドイツ語で私に謝る。
「気にするな。どうせ暇だからね」
ミュンヘン工科大学にある私の研究室に、日本留学時代からの友人である日影宗光が訪ねてきた。
彼は代々続く医師の家系で病院を経営している医師だ。専門は消化器外科であり、腹腔鏡下での手術に力を入れている。
現在使われている腹腔鏡は腹部に小さな穴を開け、そこから腹腔鏡や手術器具を挿入して腫瘍や臓器を取り出すことができるが、患者の少ない負担とは裏腹に使用する側には熟達した技術が必要なのだ。
コンピューターサイエンスが専門の私に宗光は、より正確に手術を行えるよう3D技術を取り入れ立体的に臓器を観察できるシステムの開発を依頼してきた。
「うちみたいな小さな病院だとメーカー側も相手にしてくれなくてさ、本当助かるよ」
バンッ!と研究室の扉が勢いよく開けられる。
「父さん!すげーよ!ここ滑り台あるんだぜ!長いやつ!」
「光晴!静かにしてろっていっただろ!」
「もう一回行ってくる!」
「ホテルで待ってろって言ったんだけどな。ホントわるいな」
宗光の息子である光晴が興奮してはしゃいでいる。宗光には三人の息子がいるが彼は一番下で私の娘と同じ十二歳だったはずだ。どうやらキャンパス内にある滑り台が気に入ったらしい。
「まぁ、そう怒るなって。大学の中に滑り台があるのが悪いんだ。学生達も子供みたいに滑ってるしな。よし、こんなもんかな?宗光、モニターを見てみてくれ」
3D対応の液晶には従来のものより立体的に表示されるはずだ。
「お、いいね。これならいけるな。日本の大学病院に持ち込んでみるよ」
私ができるのはここまでだ。個人的に開発したものをいきなり患者には使用できないため大学病院で実験と症例を重ねなければならない。あとは宗光が研究を続けていくはずだ。
「それにしても凄い柄のネクタイだな」
「娘が買ってくれたんだ。アメーバみたいだろ?」
今日のネクタイは娘が私の誕生日プレゼントに買ってくれた物だ。アメーバのような模様がこれまた凄い色で描かれている。
「よし!じゃぁ夕食に行こうか。妻と娘もお前に会うのを楽しみにしてるんだ」
「アデーレちゃん大きくなっただろう?」
「お前が毎年誕生日プレゼントを送ってくるもんだから、あしながおじさんだとおもってるぞ?」
「あしながおじさんか。そいつはいいな」
私たちは大学を出て、私が運転する車で妻と娘が待っているレストランへ向かった。
子供達はお互いに片言の英語だが仲良くできているようで、楽しい食事の時間を過ごす。
「次はいついらっしゃるの?」
「そうだなぁ。向こうで研究を続けてアレックスのシステムが認められるようになったら今度は日本に招待するよ。もちろん家族全員でね」
「まぁ、ステキ!一度日本に行ってみたかったの!」
宗光がクンクンと鼻をならす。
「焦げ臭くないか?」
レストランの三階の扉から飛び込んできた店員が叫ぶ。
「火事だーー!」
それを聞いた客達は一斉に立ち上がり階段やエレベーターに殺到する。
「階段はダメだー!二階まで火の手がきてる!」
誰かが叫ぶ。
次第に煙の量も増えてきて停電も起こす。
「非常階段があるはずだ。そっちにいこう!」
私たち四人は非常口に向かう。外に階段があるはずだ。
「そんな……」
非常口は手動では開かない仕組みになっていた。火事を感知すれば電子制御で開くはずなのだが、壊れているのかビクともしない。
階段を諦めた人々が非常口に集まってくるが、蹴ろうが体当たりしようが開かない。
頼む、開いてくれ!子供達を助けてくれ!そう願いながら私は何度目かの体当たりをする。
『ボクが助けてあげようか?』
子供の声が聞こえた気がした。煙を吸い過ぎたせいで幻聴でも聞こえたのか?
煙の量はどんどん増えていき、妻も宗光も子供達も限界が近づいてきている。
私は朦朧とする意識の中で体当たりを続ける。
『扉を開けてあげよう。そのかわりと言っちゃなんだけどキミには手伝ってもらいたい事があるんだ。アレックス』
「なんでもいい!なんでもするから助けてくれ!神様!」
『ボクは神様じゃないよ。まぁいいさ』
あれだけ体当たりしてもビクともしなかった非常口がガチャン!と大きな音を立て開かれる。
助かった!
非常階段に大勢の人々が、妻や友人と子供達がなだれ込んだと思った。
「誰もいない?どこだここは?夢?」
非常口を出た先には非常階段があるはずなのに私は真っ白な空間に立っていた。
『やぁ』
さっきまで聞こえてた子供の声がする。
「私は死んだのか?あなたは神なのか?」
『それは違うよ。ボクは神なんかじゃない。キミ達の世界でいうコンピューターウイルスみたいなものさ』
「私たちの世界?ウイルス?」
『そう。キミ達とは違う世界にボクは生きている。生きているっていうのは語弊があるかな?ボクの意識をプログラム化してあちこちに潜り込ませているんだ。だから壊れた電子ロックを開けるなんてのは簡単な事だよ』
「みんな無事なのか!?子供達は!?」
『心配しなくても大丈夫。みんな無事だよ。もちろんキミもね』
「では、ここにいる私はなんだ?夢じゃないんだろう?」
『キミはコピーだ。アレクシス・クシュナーという人間の複製だよ。もう一人のアレクシス・クシュナーは難を逃れて家族と一緒にいるよ』
いよいよもって意味がわからない。私が複製?さっきまで食事をしていたではないか?
『混乱するのも無理ないよね……。さっきも言ったけど、ボクはただのウイルスだ。人でもないし神でもない。そもそも実体がない。だけれども力はある。実体がないボクは自分の世界がピンチでも見ていることしかできない。だから、ボクの代わりに救ってほしいんだ。ボク達の世界を……。少しずるいと思ったんだけど、困ってたキミならボクの話に乗ってくれるんじゃないかって。無理矢理連れていくのは可哀想だからね』
この話が本当なら藁にもすがる想いを利用したという事になるが、そんな事はどうでもいい。家族が助かったのも事実という事になるのだから。
「誰かはわからないが、妻と友人と子供達を助けてくれてありがとう。私に出来ることならなんでもしよう……」
『ボクの名前はファフニール。キミをボクの世界に再構築するから、向こうに行ったら北を目指すんだ。フォーリアという土地の迷宮で待ってる。何年かかってもいいからボクに会いに来るんだ』
北へ……。




