3.シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテⅱ
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余は日頃、ある土地とそこにすむ民の管理を責務としておる。
この国からは、広大な森を隔てたところにある地だ。
名前? ……いや、この国の言葉で言い表すのは難しいのだ。
とにかく、余の治めるそこは、幾千の同胞を抱えている。争いはなく、年中気候の落ち着いた、穏やかな所だ。
……そうだな、店主もいずれ来訪するが良かろう……いつか、この件が収まったとしたら。
……ここ数十年で、一つの問題が浮上して来たのだ。
それこそ、余の抱える艱難の根源。
――深刻な食糧危機である。
もともと、昔から、肥沃とはとても言い難い土壌だった。それでも今まで、懸命に田畑を耕し、皆慎ましやかに過ごして、永らえ栄えて来たのだが……。
ここ最近になり、次第に、外界の者に荒らされることが増えて来てな。交通機関の発達、武力の向上……これといった原因は一つには絞れんが。
更に加えて、大量の移民を受け入れる機会があった。祖国を追われた者達を拒むわけにもいかぬ。
結果……需要と供給のバランスは瓦解し、瞬く間に貧困が広まって行ったのだ。貧しさは治安を悪化させ、更に田畑は荒れて行く。やがて飢餓で死ぬ者があらわれ、疫病が民を蝕んでいった……。
そこで余は、ようやく、決意したのだ。
遅過ぎたと言えよう。
もはや、手遅れなのやも知れぬ。
もう、終焉を迎えるしかないのかも知れぬ。
それでも……それでも、だ。
たとえ全てが無駄になろうと、いらぬ犠牲を出すことになろうと……。
余は、余の民を守らなければならない。
どんな手段を取ろうとも……。
それが、余が自らに課した責なのだから。
故に…………。
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「故に今は、絶賛、領土拡大政策中だ」
と、魔王さんはそう締めくくりました。
領土拡大、というと……。
「開墾、とかですか?」
「……好きに想像するが良い」
「それにしても、魔王さんってどこかのご領主様だったんだすね」
なんとなく、ただ者じゃない感じはしてましたけど、まさかそんなに立派な方だったとは。
でも言われてみれば、お召し物はいつも仕立ての良いものでしたし、話し方も高貴な感じがするし、納得です。
お客様には変わりありませんから、今まで礼節を尽くして接して来たつもりですが……身分の高い方への正しい接し方などわからないので、もしご無礼を働いていたらどうしましょう。……いや、それこそ、今更の話ですね。
「まあ、領主、といえばそうだな……」
「大変なのですね、食糧不足だなんて……」
この世界に、そのような深刻な問題を抱えた国がいくつもあることは、知っていたつもりでした。
しかし実際にそういう話を聞くと、生々しさを持って私の心を苛ませます。
……カフェでの食事なんて、娯楽以外の何ものでもありませんからね。
食事が娯楽ではなくて、犯罪の動機になってしまうような国の方からしてみれば、どう思うのかな、なんて……。
そんなことを思えばキリがないのはわかってはいるのですが。
そんな国のために何かできたら……そうは思えど、理想と現実とは常に隔絶されているものです。不特定多数の方に食料を配る余裕はありません。私にできることなんて、何もないのです。
「……無力な自分が、情けないですわ」
「店主が負い目を感じることではなかろう。お前とは無縁の話なのだから」
「そうは言いましても……」
食事を提供する立場だからこそ、強く思うのです。飢餓などあってはならないのに、と。
だって、ご飯は、いつでも楽しく食べてもらいたいじゃないですか。
「……まぁそういう訳で、今後、この店を訪れる機会は減るだろう。ようやく準備が整って、領土拡大政策が本格化して来たのでな」
「あ……そう、ですよね……。……寂しいです」
数少ないお得意様なのに……。
と、そんな打算的なことは置いておいても、やはり見慣れたお客様と会えなくなるとなると、純粋な寂しさも感じます。
でも、それ以上のことを言う訳にもいきません。問題は深刻を極めているのですから。
魔王さんもその時ふっと、険しい目元を少しだけ、悲しげに緩めてくれた……ように見えました。
「……余も、真に口惜しい。…………この店の甘味は美味だからな」
「ふふ、ありがとうございます。それじゃあ、いつかまた魔王さんが来て下さる時までに、もっと美味しくしておきますね!」
「ふむ、そうだな…………いや。できることなら不変であるのが望ましい」
「え?」
「……きっと、また、同じ味が恋しくなるだろうからな。それに……不思議なことに、ここの甘味は、余の故郷を思い起こさせるのだ……」
そして、心なしか柔らかく、その鋭い目を細めて――
初めて、笑顔を見せてくれました。
「ぁ……」
笑むと、普段からは想像もつかないくらい、優しげな雰囲気になって……。思わず呆然としている内に、魔王さんはするりと立ち上がると、代金をカウンターの上に置きました。
「……では、しばしの間さらばだ、店主よ」
「えっ、あっ」
驚きと興奮でしどろもどろになる私には一切構わず、魔王さんは颯爽とお店から出て行ってしまいます。
ああ、いけない! 魔王さんが行ってしまう……! 私は慌ててその背中を追いかけます。
「あ――ありがとう、ございました!」
呼び止めることなんて、できないから。
力になれることも、悲しいくらいに少ないから。
だから、そのすべての代わりに。
「またのお越しをお待ちしております!」
精いっぱいの感謝と、応援の気持ちを込めて、笑顔でお見送りを。
魔王さんは振り返らずに、軽く手を上げて答えて下さいました。……きっとあれが、彼なりの“約束”なのでしょう。
また、戻って来てくれる、と。
何故だか、その無言の応答は、とても安心感を与えてくれました。きっと彼は約束を果たしてくれると、そう信じられたのです。
それなら私だって、応えない訳にはいきません。
私は遠ざかって行く黒い後ろ姿を見つめながら、胸の内で決意しました。
「魔王さんが帰って来るまで……」
キルシュトルテのメニューは残しておいて。
彼の特等席も、とっておいて。
あとは、それから……。
「……募金でも集めようかしら?」
おそらく、雀の涙ほどしか力になれないでしょうけど。
——お客様のために、今できることを、少しずつ。
それが、カフェのマスターとしての誉れですから。
「よしっ、そうと決まれば、もっとお客様に足を運んで下さるよう、がんばらなきゃ」
夜の帳が下り初めたグラデーションの空を見上げながら、自分を鼓舞するために呟きます。
でも、今日はもう店じまい。
“closed”の看板を扉にかかげましょう。
さて、明日はどんなお客様が来て下さるのでしょうか————