2.シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテⅰ
その日も彼は、夕闇を引き連れ、お店を訪れました。
「いらっしゃいませ、魔王さん」
「ああ。いつものを頼む」
「かしこまりました」
魔王さんは、うちの大切なお得意様の1人です。“いつもの”、で注文が通じるくらい、常連さんなのです。
さて魔王さんの“いつもの”といえば……。
「――お待たせいたしました」
私は手早くそれをお皿に盛り付け、差し出します。
「ご注文のコーヒーと……シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテです」
シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ——ココア生地に、キルシュ(サクランボの蒸留酒)を使ったクリームと、ふんだんのサクランボの実をサンドしたチョコレートケーキ。
生地はキルシュのシロップを含ませているため、しっとりしていて、かつ、味わい深い重みを感じさせます。同じくキルシュ入りのクリームは大人の味。チョコレートケーキだからといって、子供っぽさはまるでありません。
シロップに漬けた大粒のサクランボを飾れば、一気に華やかさが増します。
名前の意味は、“黒い森のケーキ”。周りを飾るクリームは雪のよう、削り下ろしたチョコレートは落ち葉のようで、ケーキ全体の様相が、雪と落ち葉に埋もれるチョコレート色の森のようなのです。
魔物が住む魔国と、人間界との境界にある、“黒の森”を模したという言い伝えもありますね。
魔王さんはいつも決まってこのケーキを注文しました。
……何故か、彼が訪れる時はいつもこのケーキが置いてあるんですよね。売り切れるということもなく。不思議なこともあるものです。
魔王さんは真っ先に、ケーキへとフォークを刺しました。
「頂こう。……む、店主、味がいつもと違うぞ」
1口食べて、それからすぐに眉根に皺を寄せます。
「あら、気付かれました? ほんの少し、クリームに使うお酒の量を変えてみたのですけど……お気に召しませんでしたか?」
「……いや、まぁ、これはこれで悪くない」
と、そんなことを言いつつも、普段よりフォークの進みが早いので、改良は成功だったようです。正規レシピとして登録しておかなきゃ。
魔王さんは、結局コーヒーには手を付けることなく、キルシュトルテを一気にペロリと平らげました。普段なら、ぽつぽつとではありますが、私とお話してくれるのですが、終始無言でフォークを動かし続けていたということは、よっぽど気に入って下さったのでしょう。パティシエール冥利につきるというもの。
それから思い出したように、冷めかけたコーヒーに手を伸ばします。
「もし良ければ、新しいの、淹れ直しましょうか?」
「いや、いい。余にはこれくらいの温度が丁度良いのだ」
意外と、猫舌?
あんまり見た目に合わないかも……いやそれは、チョコレートケーキをぱくぱく食べてる時点で、初見のイメージとだいぶ違うんですけどね。
だって初めて見た時は、なんだか気難しそうだし、威厳があるし、どこかの貴族さんかと思いましたから。
それに、黒尽くめだし、目付きは鋭いし、見るからに不健康そうだし……実はちょっと怖かった、というのは秘密です。
常連さんになって、会話を重ねる内に、とても穏やかで優しい方だとわかりました。当時怖がっていたのが馬鹿らしいくらい。
それに、人の入りが無くなってからいらっしゃるから、他のお客様よりゆっくり会話する機会が多いんですよね。今ではすっかり、気を許して話し合えるお客様の1人です。
魔王さんは、ゆっくりとコーヒーを口に運びます。ちなみに、ブラックコーヒー。チョコレートケーキが好きですが、甘党というわけではないようです。
そしてそれも全て飲み終えると、静かにカップを受け皿に置いて、いつもようにすぐ店をあとに――――
しませんでした。
「……はぁ…………」
普段なら短くお礼を言って立ち去るところを、今日はというと、なんと溜め息などをこぼしているではありませんか! これは、一大事です。
「ど、どうかされましたか? どこかお具合でも……? あっ、それともやっぱり、キルシュトルテがお口に合いませんでしたか?」
私は思わず、声をかけていました。
一介のカフェのマスターが、お客様の私情に首を突っ込むのは、ルール違反のような気もしますが……さすがに、目の前であんなに重たい溜め息を吐かれ、この世の終わりを言い渡されたかのような絶望一色の顔をされては、無視するわけにもいきません。
……私の死後の人徳とかにも関わりそうですし。私は死んだ後も幸せになりたい。欲深い生き物なのです……あの世では、毎日おなかいっぱいお菓子を食べていたいなぁ……もちろん太らないし肌も荒れない体質で……。
っと、思考が脱線してしまいました。
今は、魔王さんです。魔王さんがおかしいのです。
「いや……体調は万全だし、今日の甘味も……その、えぇと、美味かったぞ」
「それなら良いのですが……えっと、それじゃ、何か悩みごとでも?」
「悩みごと、か……まあ、そうとも言えるかもな」
「良ければ話して頂けませんか? 解決はできないかもしれませんけど、第三者に話すだけで、結構楽になったりすると言いますし……」
「ふむ、そういうものか…………」
それからしばらくの沈黙の後、魔王さんは、そっとその薄い唇を開きました。
「それならば、店主、聞くが良い。余の数奇にして悲壮に満ちた、この艱難を――」