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結花は一つの世界を作っていた。それは例えば麻里が小さい頃に絵本でよく見た天使のイメージとかなりよく似ていた。彼女の中心はふわふわとして清らかで、彼女の笑顔はそれだけで人々に活力を与えた。(本文より)
春の光は明るい。それは夏の太陽のように上から叩きつけるようにして一直線を射すのではなく、広がる大気を横に横に溶かしていくかのよう。春の息吹を受けた小さな虫たちやアブラナが輝きを増す。桜などはとうに散っていた。それでも世界は優しいままだ。麻里も結花も春色のやわらかい色調のコーデを着ていたから、学内を歩く彼女たちもまるでそうした春の景色と一体になるかのようだった。二人は昼食を終えてふたたび自分たちの研究室に向かっていた。
白色のコートにさきほどのピンクのスカーフを巻きつけた結花は、「夜はどうする?」と口にした。
膝丈まであるスカートにニットの上着を着た麻里は春の空気に気持ちをよくしながら答える。
「今日の研究はちょっとだけ早く終わるようにする。そうだなぁ、九時。九時に私の家でどう?」
「買い物もしなきゃだね。したら、学校で待ち合わせて、買い物をして、それから麻里の家でどうかな。」
「すると9時半くらいかな。」
「じゃあ9時半に。」
二人はまるで芽吹いた生命たちのあどけなさに驚くかのように、ふふふとやさしくわらった。
時計は夜の11時を回っている。材料を少しだけ入れすぎた鍋の中には、切れ切れになった白菜や豆腐がふわふわ浮かんでいる。
だるみのある時間帯、と言えば良いのだろうか。鍋は、それを囲む人たちの時間をゆるやかなものにする。出来たての時はスープも熱くてお箸もスピードに乗るのだが、みんなのお腹が膨れ出す頃にはこのだるみがやってくる。麻里はこういうものを愛す。何となくまったりした雰囲気。
今、麻里は結花と二人で小さな鍋をつつきながら、缶チューハイ片手に語り合っていた。適当なバラエティ番組を流している。ここは麻里の部屋だ。部屋が生活感に満ち溢れているということはないが、散らかりすぎているというわけでもない。ほどよく整理整頓された感じ。麻里はマメな性格の持ち主でもある。
二人ともカーペットにペタンと両足をのせて、鍋の中を適当につついている。春に鍋と缶チューハイ、冬の名残りみたいで、こうして結花と春を迎えるのも4年目なのだな、と思う。
結花はくつろいだ様子で、スカーフも春用のコートも脱いでいる。結花がうちに来れば、テレビをつける。麻里はほとんど見ない。結花はありふれたものを愛する。
結花と出会ったのは私たちが大学2年生の時だ。きっかけを憶えていない。確か演習か何かの授業の時にたまたま席が近くて…そんな感じだったような気がする。
結花の美しさについては触れる前から分かっていた。麻里の求めるものが形姿として凝縮されていると思った。麻里はひと目で彼女を気に入ったし、友達になってからも、ますます依存心を深めていった。
一方結花の方はどうか?麻里にはそれが分からない。結花はポーカーフェイスと形容される以上の神秘的なところをもっていた。結花は一つの世界を作っていた。それは例えば麻里が小さい頃に絵本でよく見た天使のイメージとかなりよく似ていた。彼女の中心はふわふわとして清らかで、彼女の笑顔はそれだけで人々に活力を与えた。彼女の周辺にも普段の世界とは違う空気が流れていた。麻里は23年間生きていてそんな人に二度あったことがついぞない。
「あのね、麻里。」
と、そこまで考えていた麻里の思考は、結花の少し緊張した声でさえぎられた。
(続く)