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「おはようございます先輩。」「おはよう。」
何人かの後輩たちとあいさつを交わしながら、麻里は準備を整えた。男女入り混じったメンバーの中で、最近麻里は一人の面白い人材を見つけている。村重くんという、4年生の子だ。
「村重くん、わたし『ノルウェイの森』買って読んだよ。」
「え、買ったんですか、でもう読んだんですか?? 里美先輩、だから貸しますよって言ったのに!」
「いいのよ。買いたかったし。」
「それでどうでした?内容は。」
村重くんは厚ぼったい眼鏡を光らせて面白そうにこちらをうかがってきた。文学部の学生といえば、大抵のイメージどおり、本などろくに読んでもいないし、卒業までの4年間をどうやってより楽に過ごそうかとばかり考えている人がほとんどだ(現に私も学部2年まではそうだった)。村重くんは、そんな大方の人と違ってとても知的好奇心に溢れていて、私や結花が勧めるものなんかを次から次へと吸収していくのだった。それに麻里の考えでは学問的なセンスもいい。彼はこのまま卒業していくにはもったいない、と麻里は思っていた。当然私たちのように大学院への進学も考えてみてほしい、と思っている。
「それがね、、うん。うーん。」「はい。」
「…。」「え、感想なしですか?!」
麻里は村重くんのコメディタッチな反応に苦笑して、真面目に答えた。
「それがねぇ、私、いまいちあの物語は面白いと思わなかったなぁ。登場人物の心情が大きすぎてしゃくに触るというか。どこがいいの。」
「言いますね。そりゃまぁ、自我の問題とか扱ってますからね。いいですか、あの小説に出てくる人物でキーポイントとなるのは小林緑です。『僕』と直子という主旋律からはみ出た領域で、小林緑は自由奔放に振舞っている。それが、全体として『ノルウェイの森』の3者関係を単純ではないものにしていると思うんです。」
「ちょっと待って。かなり変わった見方ね。私はあくまで二面関係だと思うわ。そして小林緑に関しては、何とも言えないというのが私の感想。」
「いや、3面関係ですよ。直子の脆さにたじろぐ『僕』と、そしてその『僕』を誘惑する小林緑。小林緑の存在が不可解ですか…。うーん。謎めいたところがってことですか?」
「というより、あの女性を描くことで村上春樹が何をしたかったのかが見えてこないの。小林緑って、自分をあれだけ表現=expressionするのに、結局男性の隷属に伏しているじゃない。」
「先輩はそう見るんですか…! やっぱり、里見先輩と話すのは楽しいなぁ。」そこまでしゃべると村重くんは持ってきたペットボトルのお茶を飲んで一息ついた。麻里はそれを眺めていた。私と話すのが楽しい、か。麻里ももちろん楽しかったし、こういう話を建設的にするときに必要な冷静さもひとつも失っていなかった。ただ少し、話のもってきどころが分からなくてイライラする心情はあった。
(続く)