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ヴァルネラビリティ
ヴァルネラビリティ、と麻里は声をださすに口でなぞった。聞きなれないことばだ。
そのことばは「傷つきやすさ」という日本語の読みとして示されている。ジュディス・バトラーという哲学者の、「平和とは戦争への恐ろしいまでの満足感に対する抵抗である」というテクストを麻里は読んでいた。
傷つきやすさ。個人それぞれが感じているものを政治の議論に接続すること。傷つきやすさを一つの概念として日常生活の言葉から取り出したとき、人間の感情は一つ違うステージへと運ばれる。私たちはいったいなぜ傷つきやすさを持つのか?何によって? そういう問いの視点に写ったとき、個人の生は一気に狭い牢獄を飛び出し世界の様々な事柄と結びつくようになる。
例えば、Precarious Lifeというのは彼女の著書のタイトルの一つだ。日本語訳は「生のあやうさ」。彼女はどうやら近年になってますます「生」という平面、語り口を前面に打ち出すようになっているが、それは麻里のやわらかな思考を魅力的にさせた。
麻里は喫茶店の中にいた。La vieというすこし大それた名前の、最近もっぱらお気に入りの店だ。店内には誰の歌とも分からない優雅で落ち着いたシャンソンが流れていた。
La vieもほかの店と同じように、喫茶店独特の空気が流れている。例えば窓を隔てた外でスーツに身を固めた30代のサラリーマン男性が、書類ケースとパソコンを抱えながら忙しそうに走り去っていくのを見る。店の中にいる自分はちっとも急ぐ必要などないから好きなようにコーヒーを嗜む、おしゃべりをする、あるいは小さな文庫本をパラパラとめくる。要するに時間は人それぞれによって流れ方が違うのだということ。そして喫茶店のそれでは、明らかに外界とテンポを分け隔てている。
バトラーの論文―素晴らしいテクストだ―を何回かに分けて精読していたら、携帯の着信音(初期設定のまま)が鳴ったので、麻里は論文を机に置いて電話を取った。下級生の白井くんからだった。彼の声は若干緊張していた、それも私が2つも上の先輩だし、なにより私は女だからだろう。少し申し訳ないなと思ったけれども、麻里はあくまで淡々とした口調で内容を確認し、短い礼をすると電話をあっさり切った。
目の前に置かれたコーヒーカップにはまだ半分くらい温いブラックコーヒーが残っている。麻里は本や筆記用具をバッグにしまったあと、それをぐいと一口で飲みほし、席をあとにした。
麻里は大学院に上がってイタリア文学を専攻した。理由らしい理由はあまりない。学部の卒業論文でイタリアをかなり扱ってそれなりに興味を持ったのと、調べてみると周りの環境がイタリア文学やイタリア思想史などをやっている人で豊富だったから、メリットが大きいと感じたくらいだ。
ジュディス・バトラーは、アメリカの哲学者だ。これは彼女の専門外になる。麻里は、大学で勉強をすすめていくうえで、いくつか寄り道をした。その一つが哲学だった。バトラーにたどりついたのも偶然だった。イタリア文学をやるだけでは全く駄目だと指導教官もいうし、哲学はあくまで独学でやっていくつもりだった。
(続く)