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「ようやく戻ったのか」
見事に消え失せた頭髪の代わりとばかりに膝まで届くほど伸ばされた真っ白な顎鬚をしごきながら、渋面で協会長──カリエステはクリーゲルに言った。
「私の力は、もう、凡人に毛が生えた程度しか残っていませんからね」
魔道力を用いた遠話術は、魔道士の間で緊急招集の際に用いられる。それは、呼びかけを向けられた魔道士の力が優れていれば優れているほど、より遠くへ、より強力に届く。
「召集を聞き取るのも、一苦労なんですよ」
顔だけは真面目なクリーゲルに、カリエステは苛々と足を踏み鳴らした。
「戯言はそれぐらいにしておけ」
「たわごと、ですか?」
心外だというふうに眼を丸くしたクリーゲルだったが、今にも電撃を走らせそうなカリエステの眼差しに会い、小さな咳払いと共に背筋を正した。
「お前の力も見抜けんほど、儂は老いぼれちゃおらん」
「へえ、そうですか?配下の者の手綱も取れないようでは、引退を考えた方がよろしいと思いますが」
片方の眉を持ち上げたクリーゲルの返答に、カリエステは苦々しげに舌打ちをする。
「お前の言いたいことは解っている」
「そうは思えませんねぇ」
「中途半端な力しか持たない者が、最も始末が悪いのだ。相手の力を察知することができ、それを恐れていても、自らの力がもたらす人並み外れた自尊心の為に、相手を認めることができないとくる」
「そいつらを宥める為に、あの娘を寄ってたかって吊るし上げようってのを見て見ぬ振りってわけですか」
クリーゲルの視線はカリエステには向けられていない。それは、部屋の両側に掲げられたタペストリー──この世で最強の存在である龍を織り込んだ見事なタペストリーへと、注がれていた。
クリーゲルが見つめているものには白銀の風龍と薄い青色の水龍が、そして、それに向き合うように掛けられたものには朱色の火龍と褐色の地龍が、それぞれ螺旋を描くように絡まりあっている姿で描かれている。
「美しく、強大な彼らも、幼いうちは庇護者が必要だと聞きますよ」
穏やかなクリーゲルの声は、底に荒れ狂う流れを秘めた海面を思わせた。
カリエステは息苦しさを覚えて微かに喘ぐ。部屋の気温が明らかに上昇していた。
「クリーゲル、落ち着け。皆に知れるぞ」
「そうしたら、私も狩られる立場ってわけですね」
嘲笑としか見えない嗤いを口元に刻み、クリーゲルは肩を竦める。それを引き金としたように、室温が下がり始めた。
「ま、私はそんなの御免ですから、おとなしく追跡隊にでも何でも参加しますよ」
「いちいち口の減らん……まあ良い。さっさとディアンの班に合流しろ。お前は転移の術も使えるのだろう?」
「まさか」
眼を丸くしているクリーゲルに、カリエステは深々と溜め息を吐いた。
「どうでもいいから、他の者には見つからんようにしろ。二人も追わせられるほど人員は余っていないからな」
うんざりしたように片手で額を覆い、カリエステは空いている方の手をクリーゲルに向けて振った。いかにもとっとと失せろと言わんばかりのカリエステの口調に、クリーゲルは再び肩を竦める。
「それでは、失礼しますよ。あまり逆立てるとあなたの頭がイッてしまいますからね」
言い終えたクリーゲルはカリエステの反応を確かめようともせずに消え失せた。
残されたカリエステは苦りきった顔でクリーゲルの居た場所を見つめる。
ここへ来たばかり──まだ幼かった頃のクリーゲルの姿がカリエステの脳裏に蘇える。あの頃のクリーゲルは口数も少なく、どちらかと言えば引っ込み思案な子供だった。
何かの悪戯なのか、時として、ごく普通の人の間にもただ魔力を持つというだけでなく、『並外れた』力を持つ者が生まれることがある。カリエステがそうであり──クリーゲルもまた、それであった。
元来、魔道士の素質を持つ者の出生は血筋には関係がない。カリエステもクリーゲルも、両親は何の力も無いごく普通の人間だった。ただの人間が『普通でない』力を持つ子供を育てることはかなり困難なことである。力を制御できない子供を持て余した親が『協会』へ連れてくるというのが、『協会』に属している魔道士たちの生い立ちの殆どだった。そして、子供の力が強大であればあるほど、その時期は早まった。
クリーゲルの親は、それでも、頑張ったほうである。彼ほどの力を持つ子供では、それこそ赤子のうちから『協会』に預けられていてもおかしくはなかった。
身体中を軟膏と包帯で覆われた母親は、やはりあちらこちらに火傷を負っている父親に抱えられるようにして『協会』を訪れた。ぎりぎりまで張り詰めていた彼女の心が放っていた空気を、カリエステは未だにまざまざと思い出すことができる。
そして、彼らの無口な子供は、その幼さにも拘らず心の中を読み取らせない眼差しをカリエステに向けて、両親から少し離れて立っていた。
「名前は?」
両親よりも遥かに年経た老人の問いに対して、子供は小さな声で、しかし気後れした様子はなく、はっきりと答えた。
「クリーゲル」
子供の視線と自分のそれとが絡まったその時、カリエステはその子供の魔道力が己のものよりも優っていることを知った。
「『協会』に入るのだね?」
そう尋ねた老人に、子供は深く頷いた。背後で上がった母親の泣き声にも、振り返ろうとはせずに。
「クリーゲル……」
父親の呼びかけに小さく肩を振るわせた子供の表情を見ることができたのは、カリエステだけである。
強く唇を噛み締め──そして、微笑みの形を作り、両親を振り返った。
父親は幼い我が子の決意を痛いほどに感じ取ったようだったが、その微笑に母親はいっそう涙を溢れさせただけだった。
「頑張れよ」
父親の言葉に深く頷いたクリーゲルは、堅く心に誓ったに違いない。その手に余る能力を飼い慣らし、いつか必ず彼らの元へと笑顔で帰ることを。
子供にとっては、自分が持つその力を何とか制御できるようになるまでの、一時の別れの筈だったのであろう。しかし、母親にとっては、違ったようだ。
あれは、クリーゲルが『協会』に預けられてから二年──彼が七歳の誕生日を迎えた日の夜のことだった。
クリーゲルの両親の住む家が全焼し、二人は還らぬ人となった。
あまりの火の回りの速さから自然のものであるとは言い難く、特に母親の焼け方が酷かったことから、彼女が火を掛けたことは、まず間違いのないことだった。
その知らせをクリーゲルに伝えたのはカリエステ自身である。話を聞き終わるや否や、子供は大きく身を震わせ、焦りを含んだ眼差しで周囲を見回した。そして、彼が窓際へと走り寄った直後、庭が爆発したのだ。
後を追ったカリエステが目にしたものは、干上がり、湯気すらも立てていない池の残骸だった。大量の水を蒸発させてもなお立ち込めていたあの熱気の中で背筋を駆け上がった悪寒を、カリエステは今でもはっきりと思い出す。
クリーゲルが変わり始めたのはあの時からだった。
カリエステは深々と息を吐き、両手を組む。
拾った幼子に対してクリーゲルが失った家族を重ねているということは解っていた。その彼にファラシアを追わせることがどんなに酷な事であるかということも。しかし、クリーゲルを使うより他にファラシアを御す手はなく、だからといって彼女を放置しておけば『協会』という巨大な組織がぐら付きかねない。
カリエステとて、本当にファラシアが『協会』に刃向かうとは思ってはいない。だが、『協会』の他の魔道士たちの間に彼女に対する不信感がこれほど噴き出してしまった以上、何らかの手を打たねばならなかった。
「まったく、ここで一番の年寄りでなければ、こんな面倒な役柄なんぞ……」
ぼやいたところで聞いてくれる者とていない愚痴など虚しいものでしかない。
首をグルリと回して立ち上がると、カリエステはガランとした部屋を後にする。扉を閉ざす間際、彼はもう一度、水と風の龍が織り込まれたタペストリーへと眼を走らせた。