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 『協会』の宿泊所に辿り着き、ファラシアはようやく一息吐くことができた。寝台に腰を下ろし、天井を仰ぐ。

 件の魔物は連日出現するというわけではなく、再びその姿を現すまで、暫らくの間ここで過ごすことになりそうだった。

 都の人間は、忙しない。

 絶えず何かを望み続ける人々の思いが、周囲に満ち溢れていた。サウラの穏やかな流れに慣れてしまったファラシアには、都の空気はいささか息苦しい。

「今晩にでも、来てくれればいいのだけれど」

 『協会』の者に聞かれれば、その呟きは『驕っている』と取られたであろう。

 並外れたファラシアの力に不安を覚える者は、『協会』の中でも少なくない。彼女がその気になれば──そんなことは万に一つも在り得ないことだが──たった独りで、『協会』を壊滅させることも可能であろうからだ。自分たちには御せない彼女の力を、彼らは恐れている。ファルの称号を与えられた当初は『協会』始まって以来の逸材と褒めそやされたが、彼女が業績を上げる度に、向けられる眼差しに込められるものが変わっていった。

 しかし、それが解っているからといって、ファラシアに何ができるというのだろう。

 『協会』に入る以前に時を戻すことはできないし、辞めようと思ったところで、『協会』が彼女を監視下から外すわけがない。

 ファラシアの憂鬱な物思いを吹き飛ばすように、激しく戸が打ち鳴らされた。

 ビクリと顔を上げたファラシアの返事を待たずに、扉が開けられる。

「奴が来ました。すぐに行ってください」

 やや蒼褪めた、『協会』の魔道士は、引き攣った声でそう告げる。そこに恐怖が混じっているのも、仲間がすでに何人も喰われているとなれば当然のことであった。

「何処ですか?」

 立ち上がったファラシアは、外套を掴んで走り出す。

「街の西です。何人か向かいましたが……」

 隣を走る魔道士は、そこで言葉を濁す。ファラシアは敢えてその先を問わなかった。

「……相手はどんな力を使うんですか?」

「炎です。大体はその牙と爪でやられるのですが、炎で焼き殺された者も少なくはありません。逆に、こちらの使う炎は殆ど役に立たなくて……」

 その時のことを思い出したのか、魔道士は身を震わせる。決して彼が臆病であるわけではなかった。ただ、その力の差がありすぎるだけだ。

 宿泊所を駆け抜け、ファラシアは外に用意してあった馬に飛び乗った。

「あなたはここに居て下さい」

 そう魔道士に言い残し、馬の尻に鋭く鞭を当てる。

 案内が無くとも、『協会』の魔道士たちが放つ恐怖の波動が──そして、凄まじい炎の気配が導いてくれた。

「確かに、なかなかの難敵のようね……」

 誰もが固くよろい戸を閉ざした街並みを疾走する。

「いた……!」

 手綱を引き、棒立ちになった馬から身軽く飛び降りたファラシアは辛うじて残っていた魔道士たちに鋭く声を掛ける。

「あなたたちは下がっていてください!」

 いずれも軽いとは言えない傷を負った魔道士たちを背に、そして馬よりも巨大な『猫』を正面にして、ファラシアは身構えた。

 年経た獣は、時に魔物へと変化する。

 今、目の前に立つ相手は、恐らく山猫が変化したものであろう。銀色の斑が浮く純白の毛皮の中で、その爪と口だけが周囲に散らばる魔道士たちの残骸が流した血で濡れそぼっている。

「あなたに怨みは無いけれど、これがわたしの義務だから、ね」

 そう言いながら、ファラシアは心の中に氷の刃を思い浮かべる。それらは瞬時に空中に現れた。

「貫け!」

 鋭い気合を発し、無数の刃を放つ。

 並みの相手であれば、数本はまず間違いなく命中する筈だった。しかし、化け猫は身軽く宙に翻り、三階建ての屋根の上に降り立った。

「さすが、猫。凄い跳躍力ね」

 感嘆の声を上げ、ファラシアは化け猫が吐き出した炎を氷の壁で防ぐ。その炎の猛威に、壁は水蒸気すら上げずに気化していく。彼女の氷を作り出す力の方が勝っているからこそ防げているその炎は、確かに他の魔道士では耐え切れないものであろう。ファラシアのように、像を瞬時に結べる者は『協会』の魔道士の中にはいない。力を具現しようと集中している間に次々と殺されていく魔道士たちの姿が目に見えるようだった。

「水弾!」

 息切れした化け猫の隙を縫って、ファラシアは水の弾を、先ほどの刃よりも更に数を増して撃ち出す。

 あの炎を前に生き延びたものは今までいなかったのだろう。明らかに油断していた化け猫の右前足を、高い圧力が掛けられた水の弾の一つが貫いた。

 怒りと苦痛に満ちた怒声が、夜の闇を引き裂く。

 地面に落ちた化け猫を、氷の鎖が縛める。だが、まさに手負いの獣となった化け猫は、ファラシアの魔力が込められた氷の鎖を渾身の力で引き千切った。

「あらら……」

 思わず呟いたファラシアは、チラリと夜空を見上げる。そこには彼女の力に引かれて集ってきた黒雲が渦を巻き始めていた。所々に雷が瞬く。

 爛々と金色の眼を光らせる化け猫に視線を戻し、ファラシアは逡巡する。これからやろうとしていることは、更に『協会』の不安を煽ることになるかもしれない。しかし、今回の相手はなまじでは捕らえることができそうも無かった。

 右前足を引き摺って攻撃態勢を取る化け猫に、ファラシアは意を決する。躊躇しては、こちらが危なくなりそうだった。

 その後ろ足に溜められた力が弾け、白い身体が宙を舞ったのとほぼ同時に、ファラシアは右手を天に掲げ、叫ぶ。

「来たれ、雷光!」

 その瞬間、黒雲から化け猫へ向けて、轟音と共に一筋の閃光が走った。

 鼓膜を破らんばかりの雷鳴と強烈な白光が辺りを支配したのは、ほんのわずかな間だけである。

 目を眩ませる光が消え、代わりに薄っすらと煙が漂う中、ファラシアは目を凝らして化け猫を探す。それは煉瓦の敷き詰められた地面に長々と横たわっていた。

 警戒しつつ近寄ったファラシアには、化け猫の腹がゆっくりと上下しているのが見て取れた。

「口輪になるものと、鎖を持ってきてください。あと、檻も」

 振り返ることなく、ファラシアは背後に隠れていた魔道士たちにそう告げた。

「何故、殺さないんだ? こいつはもう何人も食い殺しているんだぞ!」

 ファラシアの指示を聞いて、恐る恐る歩み出てきた魔道士たちは眉を逆立てる。

「早くしないとまた息を吹き返しますよ。服従の印を刻んで山奥にでも放せばいいでしょう。何も殺す必要はありません」

「しかし……」

「早くしてください」

 ファラシアの声は穏やかではあったが、あれほどの力を見せ付けられた後である。魔道士たちは口を閉じ、三名が走っていった。

「君はこいつを庇うのだな……」

 残った者のうちの一人がそう呟いたのが聞こえたが、ファラシアは振り向くこともしなかった。そういうことではないのだが、それを説いてみても無駄だろう事は解っていた。

 ファラシアは化け猫の傍らに腰を落とし、そっと毛皮に手を伸ばす。

 何で、こんなところまで出てきてしまったの。

 ファラシアの心の中での呟きが届いたかのように、化け猫の目元がピクついた。

「駄目よ、おまえを殺したくはないの。ジッとしてなさい」

 薄っすらと開いた金色の目に向けて、他の魔道士たちには聞こえないように囁く。その言葉を理解したかのように化け猫は瞬きを一度して、再び目を閉じた。

「いい子ね、きっと助けてあげる」

 まるで仔猫を相手にしているかのように化け猫の毛皮を撫でているファラシアを、魔道士たちは気味悪そうに遠巻きにしていた。

 彼らにとってはただ憎いだけの仲間の仇であるかもしれないが、ファラシアはこの魔物を憐れんでもいたのだ。抵抗する術を持たない相手を捕食することは、生物として当然のこと。たまたま迷い出て来た所に格好の餌が溢れんばかりにいれば、手を出さずにはいられないだろう。

 この化け猫の唯一の過ちは、場違いな所に出てきてしまったことだ。野山の中では、強いものが弱いものを捕食するのは自然の摂理だ。だが、ヒトの中では、それは受け入れられない。常に自らこそが頂点に立つものであり、それを脅かすものは徹底的に排除される――その貪欲さこそが、ヒトのヒトたる所以なのだろう。

 鎖で縛られ、口輪をはめられ、檻に入れられた魔物を見送りながら、ファラシアは自問する。

 もしかしたら、あの化け猫と自分を重ねてはいなかったか、と。

   *

 ファラシアの電撃が化け猫を貫いた、その時。

 長い栗色の髪を無造作に束ねた青年は、遥かな東の空を見遣った。

「あの莫迦。やっちまったのか」

 舌打ちを一つして、そう呟く。

 次の瞬間、その姿は掻き消えていた。

   *

 宿泊所に戻り、ファラシアは何やら不穏な空気を感じていた。

 仕事が終わったのだから、報奨金が渡されてそれで放免となる筈である──いつもなら。

 しかし今回は、帰路に着く許しも与えられずに、ただここで待つようにと言われただけであった。

「まだ警戒しているのかしら……」

 ファラシアは化け猫のことを考える。あれが殺されるのではないかという心配はしていなかった。物理的な力でどうこうできる相手ではないし、魔道でも、炎は効かない上に、氷や水でもあの化け猫の炎の力の前では役には立つまい。あれを殺そうと思っているのであれば、再びファラシアに声がかかる筈だ。

 そもそもこの部屋からして何か変なのである。彼女の荷物は運び込まれていたが、そこは最初に通されたのとは違う部屋だった。家具は揃っているが、生活する場としてはどこか違和感がある。首を傾げつつ何度か室内を見回してみて、ファラシアはようやくその原因に思い当たった。

 この部屋には、窓が無いのである。

 無性に込み上げてきた不安と、ただ待つことに耐えかねて、こちらから出向いてやろうとファラシアが立ち上がったその時に、扉が開かれた。そして、そこに現れた人物に目を丸くする。

 ファラシアはその人をよく知っていた。

「師匠……?」

 修行の旅に出ると言って姿を晦ませたきり、二年振りの顔合わせだった。最後に分かれた時には肩を少し越すばかりだった栗色の髪が、今は背の半ばほどまで伸びている。

 師匠──クリーゲルは扉から身を滑り込ませると、厳しい眼差しをファラシアに向ける。

「再会を喜んでいる暇は無いぞ。さっさと荷物をまとめて、ここを出る用意をするんだ」

 ファラシアが拾われた時から全く年を取っていないように見えるその容貌を険しくして、クリーゲルはそう言った。

「師匠? いったい、どういう……」

「莫迦やろう」

「……?」

 予想外の人物からの唐突な言葉に、ファラシアは眼を白黒する。数年来、音沙汰の無かった養い親の第一声として、これはあんまりではなかろうか。

 言葉もない少女を見詰め、クリーゲルは苦笑する。

「連中の前で天を操るなんてマネをするやつがいるか」

「でも、あの時は……」

「仕方なかったってんだろ? それは解るが、それにしても、もう少しやり方があっただろうに。お前はあいつらの前で力を見せ付け過ぎたんだよ。奴らすっかり震え上がってやがる。お前をこの部屋ごと封じ込めることに決めたようだぞ」

「そんな──!」

「だから俺が言っておいただろう、あんまり力を使いすぎるなと」

 舌打ちせんばかりの声音でそう言うと、クリーゲルは呆然としているファラシアに代わって荷物を詰め始める。本気で苛立っているらしいその手付きに、ようやくファラシアの脳は事態を受け入れ始めた。

「でも……あの魔物を……あれを助けなければ……」

「ああ、こいつか?」

 ファラシアの呟きに、クリーゲルが懐から何かを掴み出した。無造作な扱いに、白い毛の塊が抗議の声を上げる。

「どうして……」

「お前がそう言うのが解っていたからだよ。だいたい、こいつを殺さなかったことも、お前を危険視する声が高まった原因の一つなんだぜ。魔物を庇うたぁ、やっぱり、実はあいつも魔物の仲間なんじゃないかってな」

 仔猫ほどの大きさになった化け猫をファラシアに向かって放り投げ、クリーゲルは荷物の紐を締める。それを突き出し、クリーゲルは鋭く目を光らせた。

「俺が助けてやれるのは今だけだ。次に顔を合わせるのは、お前の追っ手としてだぞ」

 クリーゲルは、息を呑んで荷物を受け取ったファラシアの頬を両手で包んで彼女の目を覗き込んだ。ファラシアがまだ幼い頃からの、大事なことを言い聞かせる時にする仕草だった。

「俺がお前の泣き所になるだろうってことは、余程の馬鹿じゃない限り判りきったことだ。十中八九、お前の追っ手の一人に命ぜられるだろうよ」

「師匠……そんなの……」

「嫌か? でも、しょうがねぇよ」

 笑ってクリーゲルは手を離し、ファラシアの頭をクシャリと撫でた。そして真面目な顔になり、呼吸数回の間だけ養い子を見つめる。それはほんのわずかな時間であったけれど、互いを想う気持ちを通じ合わせるには充分だった。

 先に廊下に顔を出し、周囲に人影が無いことを確かめてから、クリーゲルはファラシアを促した。

「いいか、見つかるんじゃねぇぞ」

 師匠の目に浮かぶ真剣な光が、これが悪い夢ではないことを証明している。

「師匠は、大丈夫なんですか? わたしを逃がして」

 大丈夫ではないから一緒に行く、そういう言葉を微かに期待して、ファラシアはそう問いかけた。

「まだ、俺がここに来ていることはバレちゃいない。それに、俺はお前に対する切り札だからな。そうそう廃棄処分にゃしないよ」

「切り札?」

「ああ。お前は俺に刃向かえないだろう?」

 当然のように言われ、ファラシアは言葉を失った。

「俺はな、お前を殺せる。それが自分の身を護る唯一の手段だとしたら」

 再び息を呑んだファラシアの頬を、軽く唇を歪めてクリーゲルはもう一度包んだ。

「それが嫌だったら、何としても逃げおおせろよ」

 そして、ファラシアの手の中の化け猫を摘み上げる。

「お前もな、例のこと、頼んだぜ」

「例のことって……?」

「秘密。その時が来れば解るさ。まあ、来ないことを祈っているがな。さあ、もう行け」

 背中を押され、その手の温もりをそこに感じた時、初めてファラシアの目に涙が滲んだ。もう二度とこの人と触れ合うことは無いのだという実感がジワリと襲ってくる。こぼれる前に、強い瞬きでそれを散らした。

「さようなら」

「元気でな」

 身を翻し走り去るその背を見送って、クリーゲルはぼやく。

「あん時お前を拾いさえしなければ、この身は安泰だったんだけどな」

 しかし、『もしも』という言葉は決して現実とは成り得ないことは解りきったことである。何度あの場面を繰り返したとしても、長衣の裾を握り締めてきた小さな拳を振り払うことなど、決してできはしないのだから。

クリーゲルは埒もないことを愚痴ってしまった自分に舌打ちを一つして、片手で栗色の長髪を掻き回した。

 そうしている間に、魔力を漲らせた人の気配が、複数近付いてくる。

 数を頼んだ上に不意打ちならば、あの娘を抑えることができると思ったのか。

「馬鹿な奴らだな。役者不足だよ」

 クリーゲルは薄い苦笑を浮かべて肩を竦める。

「まぁ、俺も精々逃げ回ってみるか」

 そして、一瞬にして掻き消えた。

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