20
この世全てを滅び尽くさんばかりであった嵐が、はたりと止んだ。
根こそぎむしり取られた草木や、崩されて大きく形を変えた崖がなければ、嵐そのものがなかったのだと思い込むことができそうな、凪だった。
その場の殆ど全ての人々――意識のないリーラと、彼女を繋ぎ止めることだけに意識を集中していたカリエステ以外は、皆、嵐の中心であった場所に出現したものに、目を奪われた。巨大だが優美なその姿態は、現れた時は虹色に輝いていたが、徐々に白銀を塗した薄青になっていく――何かの拍子に、時折褐色が紛れた。
「龍、だ……」
『協会』の魔道士たちの中から、そんな呟きが洩れる。存在を疑われたことは無いが、その姿を目にしたことがある者は、長い人の歴史の中でもほんの一握りだ。
あまりに圧倒的な魔道力、そしてその美しさに、魔道士たちは息を呑み、心を奪われる。たとえその場で命を失ったとしても、その存在に見えた幸福の方が打ち勝っていただろう。
龍は、何かを探すように、長い頸を優雅に回らせ、一巡もしないうちに目を留めた。
不意にその姿は掻き消え、同じ色をした人影が舞い降りた。あろう事か、それは彼らの方へと駆けてくる。その元の姿を目にしていながら誰一人として逃げ出さなかったのは、それの意識が微塵も自分たちに向けられていなかったからだ。
カリエステは目の前に横たわる女性に両手を翳し、今にも燃え尽きらんばかりの命の灯火を保とうとしていた。リーラの傷は深く、持てる魔道力の全てを注いでもカリエステには彼女を引き止めるのが精一杯で、癒すまでには至らなかった。
――救えないのか。
人としては桁外れであるカリエステの魔道力も、尽きようとしていた。いくら力を持っていようとも、所詮は人間。ヒト一人の命を購うことなど、到底無理な話だったのだ。
カリエステの胸の内を諦めが過ぎった、その時。
殆ど骸のような冷たさのリーラの身体に、不意に、もう一対の手が差し伸ばされた。集中を切られ、カリエステの癒しの魔道が途切れる。だが、それを引き継ぐように、新たな手の主から、彼とは比較にならないほどの膨大な魔道力がリーラへ注ぎ込まれていくのが判った。
「ようやく、目覚めたのか……」
隣に座り込んだ、人には有り得ない色をした少女は、カリエステの記憶よりも5つほど年嵩のようだった。その人間離れした美貌には、かつての面影がある。
ファラシアの力を受けて、蒼白だったリーラの顔に血の気が戻ってくる。その容態が落ち着いたことを確認して、続いて彼女はカリエステに手を伸ばす。その指先が触れるや否や、カリエステは、憔悴し切っていた老体が見る見るうちに満たされていくのを感じた。
「繋ぎ止めていてくださって、ありがとうございました」
ニッコリと微笑んだその姿、その声に、カリエステは心を奪われる。それは、まさに人非ざる美しさであった。白銀の髪に薄青の瞳――そこに時々褐色の輝きが混じる。彼を現実世界に引き戻したのは、下から届いた弱々しい女性の声だった。
「ファ……ラ、シア……?」
「リーラ、気が付いた……?」
温もりを取り戻しつつあるその手を、ファラシアは頬に押し当てる。
「イヤだわ、きれいになって……見違えちゃった」
色も年もガラリと変わっている相手に向かって、まるで久し振りに会った近所の小母さんのようなリーラの台詞に、ファラシアは脱力を禁じえない。思わず真顔で確認してしまう。
「リーラ、状況が解ってる?あなた、死にかけたのよ?」
「解ってるわよ。あたしも、もうダメだと思った。綺麗な花畑が遠くに見えたもの」
「リーラ!」
シャレにならない言葉に、ファラシアは思わず声を荒げる。だが、それを制するように、リーラは微かに微笑を浮かべた。
「あなたが引き戻してくれたのよ?」
「それは、カリエステ様が留めてくれていたから…。そうでなければ、間に合わなかったわ。わたしは起きた事から目を逸らして、危うく全てを駄目にするところだった」
「最後の最後に助けてくれたのは、あなたなのよ」
「でも、わたしさえいなければ、そもそもこんな目に合わなくて済んだのよ!」
そう叫んで固く目を閉じたファラシアの頬に、そっとリーラの手が触れる。
「違うのよ。悪いのは、自分達とは違うものを受け入れようとしない、あたし達なのよ。あなたは、一生懸命にこの社会に入り込もうと頑張ったわ。でも、ヒトは弱いから……」
「リーラ……」
ごめんね、と小さく呟いたリーラに、ファラシアは返す言葉を見つけられない。
お互いに押し黙ってしまったファラシアの頭の上に、後ろから、ポンと誰かの手が置かれる。小さな子どもに対するようなその所作に、ファラシアは振り返る。そこには、いつの間にかクリーゲル、ノア、ゼン、そしてクァールーンが立っていた。
「師匠……」
やるせなく、ファラシアは養い親の名前を呼ぶ。彼なら、何か答えをくれるような気がした。だが、クリーゲルはクシャクシャとファラシアの髪を掻き混ぜ、残念そうな声を上げただけだった。
「あーあ、せっかく苦労して着けた色だったのに、すっかり元に戻っちまったなぁ」
呑気な声で、聞き捨てならない台詞である。
「師匠、それってどういう意味……」
「言葉の通りだろ? お前の黒目黒髪は俺がやったんだよ。拾った時はこの色だった。いや、もっと無難な色を着けようとはしたんだが、どうしても茶髪や金髪、青目なんかの薄い色じゃぁ、駄目だったんだよ」
「そうではなくて、この色で、おかしいと思わなかったんですか!? 明らかに人ではないでしょう!?」
「そうだな、まさに龍の色、それも珍しい風と水の混じりだろ? 本やらタペストリーやらならよく見たけれど、本物を見ることになるとは思ってもみなかった」
はなからファラシアが人間ではないことを知って、拾い、養ったというのか。そして、それを今まで全く、おくびにも出さなかったわけだ――ファラシアが自らの能力に悩んでいたことを知りながら。それはあんまりではなかろうか。
「師匠……、一言、言ってくれれば……」
「すまんな」
がっくりと肩を落としたファラシアに、クリーゲルが返したのはそれだけであったが、そこに含まれる様々なものを、彼女には知る由もない。
「そう見えて、その男も甘ったれだからの」
カリエステがクリーゲルの心境をその一言で代弁する。
「お伽話の天使みたいに正体がわかったら飛んでいってしまう、なんてこと、するはずないじゃないですか」
「複雑な親心ってのがあるんだよ」
クリーゲルはそう言って、妙齢の美女となったファラシアの頭を、子供時分によくやったようにワシャワシャと掻き回す。そして、照れ隠しのように話題を転じた。
「そう言えば、カイルはどうなったんだ? お前のところに行っただろう?」
あの小生意気な少年がこの話題に口を挟んでこないのは、おかしい。軽く辺りを見回してみても、その姿は見えない。
「カイルはわたしの中に居るわ」
「お前の中?」
「そう。ほら、見て?」
促されるがままにファラシアの目を覗き込むと、彼女を初めて目にした時には薄青だけだったその中に、時々褐色の輝きが瞬いた。
「わたしは大気の力が強いから、大地の力は出にくいんです。使えないことはないんですけど……」
ファラシアの説明を補うように、クァールーンが付け加える。
「我らは、番を作っても、すぐにその場で再構築するか、あるいは暫らく融合したままで過ごし、気が向いた時にそうするかを選ぶことはできる。だが、融合しても、大体は前身の個体の意識なども混ざり合って存在するようになるのだが……あれは、余程お前を残したかったらしい。見事に自分の意識は封じ込めたな」
「ええ。なんて言うか……わたしの中でカイルが眠っている感じ」
目を伏せ、ファラシアはそっと両手を胸に当てる。心地良い温もりが、その奥に確かに感じられた。
「ヒトで言うところの婚姻関係を結んだということと同義なのか……?」
ノアが軽く頸を傾げ、
「なんとなく、面白くないな」
ノアの台詞とファラシアのその様子に、クリーゲルがボソリと呟く。
一人娘を男に取られて不貞腐れる父親に呆れたように、カリエステは溜息を吐いた。拾ったモノが後々厄介な事態を引き起こすと判っていても、きっと、この男は何度でも同じ選択をするのだろうということは、今の態度から明らかだった。
「それで、ファラシアよ。これからどうするつもりだ?龍だということが皆に知られた以上は、このまま人の振りをしていくことはできまいよ。だが、龍を我ら人ごときがどうこうできる訳もない。お前への追っ手を引き上げさせた上で、『協会』からは名前を抹消することになる。それでも、暫らくはこの国から離れて貰わんとならないがな。死んだことにでもしないと、他の魔道士達への説明が厄介だ。ここに連れてきた者達は上級ばかりだから軽い舌は持っていないとしても、他の者はそうはいかん」
「それで構いません。でも、わたしは人の傍に居すぎました。今更人から離れて生きてはいけません。人に紛れて、人の中で生きていきたいのです」
「しかし、真の意味で人と生きることはできんぞ。それは辛くないか?」
「それでもいいのです」
真っ直ぐに、揺らぎ無く。
しばしファラシアの眼差しを受け止め、カリエステは小さく息を吐いた。
「いっそ、人を見限ってくれればいいものを」
諦めたようなカリエステの呟きに、ファラシアは小さく笑って答える。チラリとクリーゲルやノア、リーラの方に視線を送り。
「人間全てを嫌いになるには、大事な人が多すぎます。確かに、わたしを受け入れてくれない人たちもいるけれど、同時に、想ってくれる人もいる――わたしには、その人達の方が重いんです」
「仕方が無いの」
「はい、仕方がありません」
言いながら、彼女の笑顔は晴れやかだった。一礼して『協会』の長に背を向ける。振り返った先には、大事な人たちがいた。
「ノア、もう少し一緒にいてもらえるかな。追手はもうないし、護衛は必要無くなっちゃったんだけど、まだ、一緒に居たい」
「それは構わない。いずれにせよ、ガスとの契約期間はもう少し残っているしな」
その素っ気ない言い方の裏側を、この数ヶ月を共に過ごしたファラシアには、もう判断できる。ニッコリ笑って頷いた。その手に、心地良い温もりが擦り付けられる。
「ゼン、あなたも来てくれるの?」
言うまでも無い、と金の両目をギュッとつぶった。
その頭を一撫でして、先程から黙って事の成り行きを見守っていたリーラへと向き直った。彼女の両手は、固く握り合わせられている。
「ゴメンね、リーラ。わたしも、自分の事を人間だと思っていたのだけど」
そう言って、少し苦しげに微笑んだファラシアを、リーラはそっと抱き寄せた。
「どんな姿になろうが、あんたはちっちゃな頃からあたしが面倒を見てきた、ファラシアだよ。前から凄い力は持ってたけど、どこか頼りなくて……。あたしは、勝手に、あんたの姉さんか母さんの気分でいたよ」
「うん……うん、わたしもそうだった」
図らずも、ホロリと涙が零れ、リーラの肩を湿らす。自分の肩も濡れていることには気付いていた。
少しふくよかなリーラの胸は、ふわふわで。
龍には母親などという存在はいない筈なのに、何故、こんなにも懐かしい気持ちに包まれるのだろう。
「これで最後じゃないのよ。また、きっと、会いに行くから。カヤにも」
「当たり前でしょ。待ってるわ」
スンと一度、小さく洟をすすって。身体を離した時には、もうお互いの頬は濡れていなかった。どちらからとも無く、笑顔になった。
そして、最後に。
「またな」
ニヤッと笑って、素っ気ないほどにあっさりと。それは別れではなく、再会のための一言だった。
「はい」
ファラシアも、余計な言葉は続けなかった。クシャクシャと髪を掻き混ぜられて、くすぐったそうに首を竦める。
「ではな、そろそろ我らは行くぞ」
色々と、口裏を合わせねばならんしな、と残して、カリエステは連れてきた上級魔道士達と共に、転移の魔法陣へと消えていった。
「俺はもう少し、お前達を見送ってやるよ。その後、リーラと一度サウラに戻るわ」
いつぞやと同じように、背中に視線を、感じて。
しかし、あの時は小さな手の温もりが無ければ脚を踏み出すことができなかったが、今度は違う。その一歩は、再開のためのものであり、絶望へと向かうものではなかった。
左と右に、ノアとゼン。そして、姿は無いけれども、すぐ傍に、もう一人。
ファラシアのこれからは永い。これから、何度も、何人もの人たちに置いていかれるだろう。だが、決してその人と出会った事を後悔することは無いはずだ。一人でも多くの人と巡り会い、その絆を大事にしたい。そして、いつの日か、再び人嫌いの少年に会えた時、やっぱり自分は人間が好きなのだと、胸を張って宣言するのだろう。
どんなに彼が呆れようとも。
「ホントにしょうがないな、ファーは」
そう言う時の少年の声も、表情も容易に浮かび、ファラシアはコッソリと笑みを浮かべる。
その時が、待ち遠しかった。