19
闇の珠と化したファラシアを目の前に、カイル、ノア、ゼンには為す術がなかった。そもそも、近付くことすらできない。
「せめて、あそこまで辿り着けないことには、何も始まらんな」
吹き付ける雨と風に眼を細めながら、ノアが呟く。本来の大きさに戻ったゼンが風除けになってくれてはいるが、勢いは増すばかりだ。そのうち飛ばされてしまうだろう。
「このままいったら、この国ぐらい滅ぼしそうだね」
ゼンに?まったカイルが嵐の中心をヒタと見据えながら、言う。揺るぎ無いその視線は、その先にファラシアの姿を捉えているかのようであった。
「もっと、僕に力があれば……!」
悔しさから噛み締めた唇から、血が滲む。そんなカイルから、ノアは視線をファラシアであったものへと移す。あの少女が、この状況を望んで招いているとは思えない。
「埒が明かん。強行突破だ」
自分でもらしくないと思うが、他に手がない。時と共に事態は益々悪化していく一方であるならば、無茶と解っていてもやるしかあるまい。
「ゼンにしがみ付いていくぞ」
とにかく、と足を踏み出した一行だったが、それを阻むように巻き起こった新たな魔道風に押し止められる。現れたのは、二つの人影――ひとつは栗色の長髪、もうひとつは、あろう事か、この暴風の中で真紅の髪をそよとも揺らすことなく立っていた。
「あなたらしくないなぁ、ノア」
栗色の髪からのその声には、聞き覚えがあった。
「クリーゲル殿?」
目の前に立つ、確かに数秒前までは存在しなかったその人物の名を、ノアは最後に疑問符を付けて呼ぶ。ファラシアの養い親は、切羽詰った現状に全く気付いていないかのように、二人と一匹に向けて手を振った。
「どうして、此処に?」
あまりに都合が良すぎる救い手の登場に、その姿を見、声を聞いても半信半疑のノア達である。
「声が聞こえちまったから」
短い返事に、誰の、と問う者はいない。
クリーゲルの全身を貫いた、絶望に満ちたファラシアの悲鳴は、まだ彼の中に響き渡っている。あの瞬間、彼女が何かの境界を超えた事を悟った。
ファラシアの心は、内包する強大な力に比して、あまりにも柔い。あの時自分が拾い上げなければ、彼女は人の弱さも優しさも知ることなく、その力に相応しい強い心を得ていたのかも知れない。しかし、そう悔やむ一方で、クリーゲルは、同じ場面で同じように赤子を抱き上げてしまう自分がいることも判っていた。
クリーゲルは眼を上げて、嵐の中心に在る闇の核を見詰める。その魔道力は、脆弱な人間など触れるだけで消し去ってしまうだろう。その堅固な鎧の中に、絶望で心を染め上げた少女が閉じこもっている。
「さて、これからどうしたらいいでしょうかね」
クリーゲルは後ろに立つ真紅の男に、そう問い掛けた。
それにより、一同は改めてその異様な風体に眼を留める。瞳と髪は純然たる赤――それは人としてあり得ない色である。しかし、魔物というには整いすぎた姿だった。
ノアは正体が掴めず眼を細め、ゼンはかつて眼にした相手の力を思い出し、わずかばかり後ずさった。カイルだけが、正確にその本性を捉え、気圧されることもない。
「初めて御目にかかります、火の方。僕はカイル――キャンイールーといいます」
頭は下げないが、常になく丁寧な口調でカイルが言う。少年の名乗った耳慣れない響きにノアの眉が微かに動いたが、声に出すことはなかった。
「大気と大地――しかも相殺されているか。苦労したようだな。我はクァールーンだ」
軽く首を傾げてカイルを見下ろしながら、赤い男――クァールーンが名乗る。
「しかし、何故、あなたが彼と一緒にいらっしゃるんですか?」
心底不思議そうにカイルが訊ねると、クァールーンはやや鼻白んだ様子で軽く眼を逸らした。
「あの娘とは、縁があってな」
どうやらそれ以上触れて欲しくないらしいようだ、とカイルは察する。ファラシアとの関係は気になったが、今の状況でそれを追求する余裕はない。
「それで、手を貸して頂けると思っていいんですね?」
「已むを得まい。この国が滅びようと我には関係ないが、あの娘には借りがある」
「この国が滅びる……?」
聞き捨てならない一節に、ノアが初めて口を挟んだ。
「ファラシアがこの国を滅ぼしかねないということか?」
「このまま放っておけばそうなるが、そもそも自業自得であろう?あの娘が、自ずからこの国を――他者を害そうとするとは思えん。余程、追い詰めたのではないのか?」
クァールーンの言うことは、何一つ間違っていない。返す言葉もない一同を気に留める様子もなく、クァールーンは続ける。
「あれは所謂『暴走』というやつだが、我も話に伝え聞いただけで、まだそのものを見たことはなかった。絶望やら憎悪やら、激しい感情が引き金となって起こるらしいが。最後のものでも、五百年は経っているだろう。その時も国が一つ無くなったと聞く」
「その時はどうやって治めたのでしょう?」
「ひとしきり暴れれば、いずれは落ち着く。人間もそうであろう?それがいつで、どれ程の被害をもたらした後になるのかは、判らんがな」
事も無げなクァールーンの台詞だが、ファラシアを知る者達は、とてもではないが、それを待つ気にはなれなかった。そんな事になったら、全てが終わった後、ファラシアも終わってしまうだろう。
「で、結局、どうすれば今すぐ彼女を止められるのだ?」
ノアの声はいつもと変わらず冷ややかで、その内にこれまでに経験した事がない程の焦りが渦巻いているとは、毛ほども悟らせなかった。
「手っ取り早いのは、あの中に入り、あの娘と話をする事だ」
「では、何とかあそこに辿り着かせてくれないか」
入るどころか近付くことすらできない現状を何とかして欲しい。こうして話している間にも、嵐は益々勢いを増していた。クリーゲルが張ってくれた結界のおかげでノア達は落ち着いていられるが、今も目の前をなぎ倒された巨木が飛び去っていく。そのクリーゲルの額にはじっとりと汗が滲んでおり、魔道に関しては素人のノアにも、結界の維持にはかなりの力を要している事が察せられた。
自分が行く、と名乗り出ようとするノアの出鼻を挫くように、クァールーンが付け足す。
「だが、ひとの身では、中に入ると同時に消え失せるであろうな」
それでは、いったいどうしろと言うのか。
わずかに苛立ちの色を見せたノアを他所に、クァールーンはカイルを見下ろした。カイルもその眼差しを受け止める。
「僕が行く」
何かがあるとは思うが、どう見ても年端のいかない少年であるカイルの言葉に、ノアが眉を顰める。
「色々な意味で、僕が一番の適任なんだよ」
ニッコリと笑ったカイルの晴れ晴れとした顔には、自己犠牲の文字はない。
「しかし……」
それでも、と言い募ろうとするノアをカイルが押し留める。
「ファラシアの事は、僕が、何とかしてあげたいんだよ」
他の誰にもその役を譲りたくない。それは、独占欲の形の一つかもしれなかった。
「カイル……」
少年の決意の固さを緩める事ができるものはいない。
カイルは、再度クァールーンを振り仰いだ。
「僕に、行かせてください」
「では、我の力を少しばかり貸してやろう。いくら我が眷族とはいえ、独りで相手をするには荷が重いだろう。何しろ、あの娘は我の腕を切り落とした程のものだからな」
エッと問い返す暇も与えずクァールーンはカイルに手を翳す。そこから自分に向けて力が流れ込み――瞬き数回のうちに、自分の身体が爆発するのを感じた。
その瞬間に溢れた眩い光に、クァールーン以外のものは、思わず瞼を下ろす。
そして再び開いた視界一杯に存在するものに、皆、目を奪われた。
カイルという少年であったものは会釈の代わりに瞬きを一つすると、真直ぐに嵐の中心へと向かう。光り輝くそれは、闇の核に触れると同時に、弾け飛んだ。
*
ファラシアはただひたすら自分の膝を抱え込み、胎児のように丸くなっていた。
彼女の前にあるのは、血に塗れた大事な人達の姿。深い闇の中なのに、一つ一つはっきりと見える。
最初に拾い上げてくれた養い親も、母親のように温かだったひとも、一番寂しい時に傍にいてくれた白銀の毛皮も、無愛想だけれど優しい女性も、ずっと一緒にいると言ってくれた少年も。全てが鮮やかな赤に染まっていた。
自分の所為だ。
自分の弱さが、皆を殺した。
グルグルと、その言葉だけがファラシアの中を回っている。
どこか、奥底の方で、それは違う、まだ間に合うのだ、と叫ぶ声も聞こえたが、それから逃げるように、心を塞いだ。
廻り続ける螺旋のような自責の念。
それに浸っていれば、嫌な現実を見ないで済んだ。
だが、しかし、固く閉ざした筈の心の扉の隙間に微かに差し込んでくる光に、気付く。
「ファー、ファラシア。眼を開けて」
その声は、ファラシアの表面をかすめて、消える。
――今の、誰だっけ……?
渦巻く絶望が、刻一刻と彼女を削っていく。わずか前には確かにあった自分の名前も、今は深い霧の向こうにぼんやりと浮かんでいるようだった。
そんな彼女を引きずり出すように、声は何度も繰り返す。
「ファラシア、駄目だよ、ファラシア。思い出してよ。ファラシアにそんな姿は似合わないんだから」
――しつこい……誰の事を呼んでいるの?
別に、声の主に問いかけた訳ではなかったが、律儀にそれは答えてくる。
「君に、ファラシア以外のどんな名前があるっていうの?」
声は、まだ少年のもの。
それは、ずっと傍に居てくれると言った、少年のものだ。
――ウソ。あの子は死んでしまったもの。
「ひどいな、ピンピンしてるよ。ほら、よく見てよ」
――いいえ、そんな筈ない。だって、わたしが殺してしまったんだもの。
「違う、僕は死んでない。ファラシアは、誰のことも殺してなんかいないんだ。傷ひとつ付けてない」
――でも、わたしの前には、みんながいる。みんな、血に染まって…
応えながら、彼女の再び闇に呑み込まれていきそうになる。
声は――カイルは、それを留めようと必死に言い募る。
「違う、それは間違っている。僕はずっと傍に居てあげるって、言っただろう? 君がどんな事をしようと、どんな姿になろうと、僕はずっと君と居る。だから、お願いだから、僕を思い出して、僕の名前を呼んでよ!」
少年の叫びは光の矢となって闇を振り払っていく。その願いは、遠くない過去の約束を蘇らせる。
――ああ、そうだ……あの子は、カイルは、わたしの傍に居てくれると、言ってくれたのよ……
「カイル……カイル、あなたが見えない。ここは、暗いの……」
「この闇は君が作っているんだ。ファラシアにしか晴らせない」
「そんなの、できない。どうやってやるのか、判らないわ」
「大丈夫、僕が手伝ってあげるから。ほら、手を伸ばして……」
言われるがままに、ファラシアは声のする方へ見えない手を伸ばす。指先に温かいものが触れ、そして――次の瞬間、視界が拓けた。
「あな、た……カイル……?」
気配は確かにあの少年のもの――だが、真っ先に目に飛び込んできた姿は、そうではなかった。
「僕以外の、誰だって?」
「でも、その姿……」
言葉を失い、呆然と彼を見詰める。
その視線を受け、どことなく楽しそうに、カイルは長く優美な尻尾を振って見せた。
ファラシアは、一度だけその眷属の姿を目にした事がある。あの時は遥か遠くで、全身真紅だということぐらいしか判らなかった。今のカイルの鱗は褐色に白銀が入り混じっており、その身体を真紅の輝きが取り巻いている。
「あなた、龍だったの……」
「うん。僕も、この姿になれたのは初めてだけど。ファラシアの事を知ってるらしい火龍が力を分けてくれたんだ。元々僕は大気と大地の力を持ってるんだけど、運が悪くてね、相殺されてしまってたんだよ。でも、今は僕の事に驚いている場合じゃないと思うよ。ファラシアも自分を見てごらん。このままじゃ、ファラシアの大事なヒトが死んでしまうし、君の力でこの国を滅ぼしてしまうよ?」
驚き冷めやらぬまま、ファラシアは言われたとおりに自分の身体を見下ろした。そこにあるのは、すべての光を吸収してしまいそうな、真の闇の色。鋭い爪の先から波打つ尾の先まで、その色だけだった。
「わた、し……これ……」
試しに尾っぽを目の前に持ってきてみる。これ以上はないというほど、意のままに、それはやってきた。しかし、そんなことをしてみなくても、頭ではなく感覚で、これは紛れもなく自分の身体であると理解する。
「わたし、人間じゃなかったんだ……」
ぼんやりと呟くファラシアを宥めるように、カイルはそっと鼻面を寄せる。
「実感できた? 驚いたと思うけど、感慨に耽っている暇はないんだよね。余裕ができたなら、周りを見てみてくれる?」
カイルに言われ、ファラシアはその惨状に息を呑む。
「何、これ……何でこんなことになってるの?」
吹きすさぶ暴風に、見渡す限りの木々が薙ぎ倒されているばかりか、大地からの軛から解き放たれた大木が、まるで枯葉のように辺りを飛び交っている。雨は海の水を吸い上げ、そのままぶち撒けたかのように地を叩き、雷はひっきりなしに薄闇を切り裂いていた。
「この場にいるひと達はそれぞれの結界で何とか凌いでいるけど、そのうちどこかの町まで拡がっちゃうよ、これ」
「じゃあ、どうすればいいの? わたしにできることなら、何だって……」
「うん。ファラシアがやってるんだから、ファラシアにしか止められないんだ」
言われた事に更なる衝撃を受け、人の姿であれば、ファラシアはあんぐりと口を開けているところだった。
「でも、どうやってしているのかも解らないのに、止めることなんでできない!」
後半は殆ど叫んでいるといってもよかった。立て続けの事態に、頭の中が飽和状態寸前となったファラシアに、カイルが寄り添った。
「大丈夫。僕も一緒にやってあげるから。僕はファーよりも弱いけれど、君が一番大事なものは護ってあげられる。正直言って、僕はこの国なんかどうでもいいんだけど、ファラシアはイヤなんだろう? この国が消えちゃったら?」
「そんなの、イヤに決まってる!」
カイルの怖い台詞に猛然と答えたところで、ハッと、この事態となる直前の記憶を思い出す。
「リーラ……リーラはどうしたの!?」
真っ赤に染まった彼女の姿は、まだ脳裏に焼き付いている。
「たぶん、生きてるよ。あっちの連中のうちの一番偉そうなのが治癒をかけているのがみえたから。ただ、確かに力はありそうだったけど、ヒトにあの傷が治せるかなぁ」
「そんなの、ダメ! カイル、わたし、これを止めたい…止めなきゃ!」
ファラシアの瞳に力が戻る。そして、それと共にその鱗と眼からは闇の色が褪せていき、代わって白銀を塗した薄青で輝き始める。
「その色の方が、ずっと似合ってる」
うっとりとカイルが囁き、ジッと、ファラシアの瞳を覗き込んだ。
「いい、ファラシア? 僕は、ずっと君と居るからね」
それを問い返す間はなかった。次の瞬間、龍としてのカイルの姿が掻き消え、そこに同じ色をした珠が浮かび上がる。促すように、それはゆっくりと瞬いた。
「カイル……?」
名を呼び、手を伸ばす。
両の手でそっとそれを包み、そして――