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牧歌的な雰囲気が漂うサウラの村からやや離れた泉のほとり。
そこに、小振りな、しかし頑丈な作りをした一軒家がポツンと建っている。周囲に民家は無く、豊かな自然が、そのままその家の庭となっていた。
そこに住んでいるのは、ファラシア・ファル・ファーム。若干十六歳の少女である。その黒髪と黒瞳はこの地域では珍しい。
まだ自力で食い扶持を稼ぐこともできないうちに親とはぐれ、行き倒れ寸前のところで、この家の持ち主である魔道士に拾われた。ファラシア自身には全くその頃の記憶はないが、彼女の養い親は事ある毎に、恩を売ってくるのだ。
彼の元で魔道を学んだファラシアは見る見るうちにその才能を露わにし、史上最年少の十三歳で、最高の魔道士の証であるファルの称号を受けることとなった。
この記録は、恐らくこの先も塗り替えられることは無いであろう。
*
「何で、火が扱えないのかしら」
ファラシアは目の前に立てられている、火の点いていない蝋燭を見つめて深く息を吐いた。先ほどから懸命に念じているのだが、蝋燭は、煙を上げる気配すら見せない。
殆どの魔道士は炎を操ることから始まる。ファラシアの師匠などは、七歳の頃に、決して小さいとは言えない池を、丸々一つ干上がらせたことがあるという話だ。程度の差こそあれ、他の力が使えるにも拘らず、火を点すことができないという魔道士はまずいない。
練習していれば、いつかは、と考え、毎日欠かさず蝋燭と睨めっこをしているのだが、さっぱり実がならない。よほど才能がないのだろうか。
だが、その一方で、ファラシアの水を操る力、冷気を操る力は、並外れたものがあった。
元々、人間でこの能力を持つ者は少ない。いたとしても、水を動かしたり、凍らせたりできる程度のものである。しかし、ファラシアのそれは、天候を左右することでさえ、可能であった。魔物の中でもそれを可能とするのは、伝説に近い存在の龍族ぐらいのものであろう。
「やっぱり、だめ」
集中し過ぎて、目の奥が痛くなってくる。諦めてファラシアは蝋燭を脇へやり、席を立った。
いずれにせよ、そろそろサウラの村へ行く時間だ。
サウラはファラシアの家から歩いて一刻ほどのところにある。彼女はそこで井戸や田畑の様子を見たり、医師のような役目を果たしたりして日用品を賄っている。食糧は自給自足で間に合うのだが、衣類などはそうもいかない。
「ま、人には向き不向きがあるものよ、ね」
小さく溜息をついて、いつものように自分を納得させる。そして、頭の中を切り替えた。
軽く身支度をして外へ出ると、様々な声がファラシアの頭の中に飛び込んでくる。彼女の頭は、人以外の存在の声も理解することができた。
光を受けて謳う木々や花たち。
仲間と戯れる動物たち。
そして、精霊。
騒々しくは無いが、確かにそれらは今この時を楽しんでいる。
「世は事も無しって感じよね。平和が一番だわ」
のんびりとした空気に浸りながら歌を口ずさみつつ、村へ向かう──途中擦れ違う、牧場に向かう人々に挨拶しながら。ファラシアのお陰で、この辺りに危険な魔物は現れない。居るのは、自然に力を与える精霊たちぐらいだ。
村に着くと──正確には村の入り口で──リーラが手を揉みしだきながら待っていた。付き合いが長いので、村人の名前は全てファラシアの頭の中に入っている。
「待ってたわ、ファー。カヤが……うちの子が昨晩急に熱を出しちゃって……」
言いながら、ファラシアの腕を掴んでぐいぐいと引っ張る。ひっ詰めた髪の毛がかなり解れているところを見ると、昨夜は寝ていないのだろう。
「落ち着いて、リーラ」
カヤはリーラの初めての子で、まだ三歳になったばかりだ。よほど心配だったのだろう。殆ど引き摺られるようにして、カヤの部屋へと連れて行かれる。
診てみると、かなり熱が高かった。この年頃の子どもにはこういう唐突な発熱は良くある。
子どもの小さな顔を包み込むようにして首筋に手を当て、身体の中に入ってしまった病の精霊を外に追い出す。同時に軽く冷気を送って、身体の熱を冷ますようにした。
苦しそうだったカヤの呼吸が、見る間に穏やかになっていく。
充分に寝息が落ち着いたところで、手を離す。完全に治してしまうと彼女の病気に対する抵抗力がいつまでも上がらないので、多少は残しておく必要があった。
「もう大丈夫よ。あと二、三日はおとなしくさせておいてね。それから、栄養のあるものを食べさせて」
「良かった……ありがとう。主人も明後日までは帰らないし、どうなることかと思って……」
その場にへたり込みそうになるリーラに手を貸して、椅子に座らせる。
「それにしても、昨日の夜に連絡をくれればよかったのに。方法は教えてあったでしょう」
「ええ……でも、真夜中だったのよ」
「構わなかったのに」
「良くないわ。仮にも女の子が夜中に出歩くなんて。しかも、あなたは並み以上の器量をしているんだもの」
軽く睨んでそう言ったリーラを、ファラシアは笑い飛ばす。
「大丈夫よ。ここいらにわたしの相手ができるようなものはいないでしょ。人間でも、それ以外でも」
「駄目よ、油断は禁物だわ」
「そんな心配……」
いらないわ、と続けようとしたファラシアだったが、リーラの恐い眼差しに出会ってその言葉を喉の奥に呑み込んだ。
先ほどまでの、カヤの容態を気遣っておろおろしていたリーラとはまるで違っている。
年齢的にはリーラとは姉妹という程度なのだが、すでに出産を経験した彼女はファラシアにとって姉というよりは母親と言った方がいい存在だった。
母の記憶を留めていないファラシアは、リーラにこんなふうに言われるといつもくすぐったさを覚える。
「そう、ね。わたしもまた都での仕事が入ってるし、気を付けます」
ファラシアは少しおどけてそう言ったが、それを聞いてリーラの顔が曇る。
「仕事って、今度は何?」
「いつもと同じ、魔物退治よ。何でも、ものすごく大きな『猫』が都で暴れているんですって」
「『猫』? そんなものを退治するのに、あなたが呼び出されたの? 他の――都に常駐している魔道士では駄目なの?」
「彼らが手こずっているそうなの。で、わたしに来いって、連絡が……」
「まあっ、お偉い都の魔道士様も、威張るばかりで役立たずなんだから!」
両手を腰に当てて鼻息も荒く吐き出されたその言葉も、ファラシアの身を案じて為されたものである。宥めるようにリーラに笑いかけ、ファラシアは腰を上げた。
「じゃ、わたしもそろそろ帰らないと。出発は明日なのよ。『協会』からの依頼は急な話だったから」
「あらぁ、そうだったの。じゃぁ、忙しいところをすまなかったわね」
言いながら、ばたばたと忙しく周りにあったチーズやパンなどを包む。
「パンは良く焼き締めてあるから、日持ちすると思うわよ。都までじゃぁ、三日はかかるでしょ。持ってお行きよ」
「いつもありがとう、リーラ」
「それはこっちの台詞よ。あなたがいてくれて、大助かりだわ」
そう言って笑うリーラから包みを受け取ろうとしたファラシアの胸を、ふと微かな予感がよぎる。
本当に、小さな、別れの予感。
「どうしたの?」
手を止めたファラシアに、リーラが怪訝な顔をする。取り繕うように微笑んで、ファラシアは再び手を伸ばした。
「何でもない。帰ってきたら、また寄るわ」
「そうね、そうしたら、ご馳走作ってあげるから」
「それを励みに頑張ることにしましょうか」
笑って扉に手を掛けた。
平凡だけれども暖かなリーラの笑顔がファラシアを見送る。
大丈夫、またこの笑顔に迎えてもらえる。
胸の中に沈んだ不安を誤魔化して、ファラシアは自分に言い聞かせるように心の中で呟いた──確かなものは、何も無かったけれども。