18
キアを出立してから1週間、ドゥワナとグレイスターヌとの国境まで、あと3日程の距離まで来たところであった。
不意に足を止め、前方をヒタと見据えたファラシアを、ノアが振り返る。
「どうした、ファラシア?」
しかし、ファラシアは唇を引き結んだままだ。その彼女の隣で、カイルがうんざりしたように溜息を吐く。
「あーあ、来ちゃったよ」
全く緊張感のない少年の口調であったが、その一言でノアは事態を察する。
「逃げる時間はあるか?」
「んー……ダメそう。もう扉が開く」
肩を竦めたカイルの返事に、ノアは無言で剣を抜く。
「ノア、たぶん無駄だよ。今度は総力戦だ。こんなに連れてきちゃったら、本業は放ったらかしなんじゃないかな」
税金の無駄づかいだ、とボヤきながら、カイルはファラシアを横目で見遣った。
「いい? キアであんなことしちゃったのが悪いんだからね? 身から出たサビってやつなんだから、今度は本気でやるんだよ? 元同僚だから戦えない、なんて言ってたら、ダメなんだからね?」
しかし、カイルの念押しも耳に届いていないように、ファラシアは顔を強張らせたまま、魔道風が渦を巻き始めた様を見つめている。
「ファラシア?」
ノアとカイル、ゼンの怪訝な顔にも気付かず、ファラシアは呆然と呟いた。
「何で……、何で、彼女がいるの?」
何を指しているか要領を得ない言葉であったが、すぐに二人はそれを知ることになる。
三人と一匹の前で、魔道風は激しく砂塵を巻き上げ、そして次第に収束していく。数秒後には、あれほどの嵐が嘘のように凪ぎ、代わって二〇名程の人影が現れた。
漲る魔道のにおいから、いずれも上級魔道士ばかりであることが容易に察せられたが、そのうちの一人はいささか場違いな姿と気配をしていた。その一人を見極めたカイルは、思わず額を押さえる。
「うっわぁ、セコすぎ」
今となっては敵としか言いようのない者達の中に埋もれた、この世で一番大切な女性の姿に、ファラシアは搾り出すようにその名を口にする。
「リーラ……」
まるでそのヒトから逃げようとするかのように一歩後ずさったファラシアを、カイルが支える。
「ファラシア」
名前を呼ばれ、ファラシアは震える手で少年の手を探り、強く握り締めた。
「お願い……お願い、離さないで」
「解ってる。大丈夫だよ」
カイルの微笑みに、釣られるように、ファラシアも頬を弛めた。それに伴い、少し余裕ができる。
ファラシアは立ち塞がる人々に数歩近付き、中でも桁外れの魔道を漂わせている老人と視線を合わせた。
「リーラを解放してください、カリエステ様」
今のファラシアは、たった一歩も下がれない、崖っぷち立たされているようなものだ。そんな内心を悟らせないように、声に力を入れる。しかし、彼女の数倍は経験を重ねている老人は、実際はともかく、表面的には遥かに上手に立っているようであった。
「息災のようだな」
まるで、『協会』本部で顔を合わせているかのように、穏やかにカリエステは答える。
たった数歩でも、近付くとリーラには左右から剣が突きつけられている事が見て取れた。それは、まるで罪人に対する処遇だ。
何故、こんなことに。
ファラシアの中に静かに怒りが燻ぶる。その場に居る者には、周囲の気温が明らかに下がったことが感じられた。
ファラシアはもう一度繰り返す。
「リーラを、放してください」
ファラシアの感情を受け、場は緊張した空気で張り詰める。
しかし、カリエステは素知らぬ振りをして豊かな白髭をしごいた。
「それはできんよ。この者は無許可脱会者を逃がした、重違反者だからの」
「違います! わたしはそのひとに追い出されたんです!」
「いや、お前がサウラに現れた時にこの者がすべきだったのは、『協会』への通報だ。そう、触れを出しておった筈だったがな、違うかの?」
最後の問いは、リーラへのものだ。彼女は俯いて唇を噛み締める。結局、自分のしたことは何だったのか。あの時はひどい言葉で少女の心を引き裂き、今はその身を捕らえる為の餌になっている。
涙を堪えるのが精一杯のリーラの耳をカリエステとファラシアの声が通り過ぎていく。
「この者の罪状では、まあ、禁錮二〇年というところだろうな」
「そ、んな……リーラには、カヤだっているのに……」
血の気の引いたファラシアの顔を見詰め、カリエステはしばし口を閉ざす。彼女の頭へ十分に事態が浸透するのを待って、続けた。
「幼い娘がいようと、罪は罪だ。ましてや、お前の事はこの国を揺るがしかねない。断じて、捨て置くわけにはいかんのだ」
厳しいカリエステの眼差しには、一片の慈悲もなかった。
自分のせいで大事なひとが陥ってしまった窮地を、どうしたら救うことができるのか。
――もしも、もしも今、彼等と戦ったら、どうなるだろう?
ファラシアの頭を、ふとそんな考えが過ぎる。
今まで、人間相手にこの力を振るったことはない、が――恐らく、勝てる。
それは、予測ではなく確信だった。しかし、彼等と戦い、勝利したその果てには、ファラシアが最も恐れていた何かがある。
結局は、ヒトから離れることのできない、ファラシアの迷い。
カリエステは、鋭くその隙間を突いた。
「よいか、ファラシア。罪は、罪だ――しかし、その罪の元は、お前にある。裏を返せば、お前の事さえなければ、特赦を出すことも可能なのだ」
容易に推し量れるその先に、突かれたようにリーラが蒼白な顔を上げる。その視線は忙しなく老人と少女を行き来した。
ファラシアは期待を込めて、カリエステを見る。繋がれたカイルの手に力が込められた事には、気付かなかった。
「それは、どういう……?」
「お前が、捕らわれればいい」
「わたしが……」
「そうだ。お前が『協会』に戻り、二度と我等に背くことがなくなれば、この者の罪は無かった事にできる。お前の後ろにいる者達のことも」
それは、つまり、死ぬまで封じられるということ――キアの町の魔物のように。
自分が、あの孤独に耐えられるかどうか、ファラシアには判らない。しかし、今は選択肢がなかった。振り返り、首を傾げて彼女を見詰めるゼン、唇を引き結んだままのノア、そして厳しい眼差しで一心に訴えるカイルを順々に目の奥に焼き付ける。
皆、かけがえのないもの達だった。
カリエステに向けてフラリと足を踏み出したファラシアを、カイルの腕が引き止める。
「ファラシア……? 手を離さないでと言ったのは、ファラシアだよ?」
振り返ると、少年の真直ぐな眼差しとぶつかった。その手を繋いだままであったことを、忘れていた。
「ごめん、ごめんね、カイル……」
小さく呟き、ファラシアは手を開く。しかし、カイルはより一層、力を込めてファラシアの手を握り締めた。
「イヤだよ。離さない――離すもんか」
あれもこれも、全てを手に入れることなどできはしない。この少年は、一番、手放してはいけないものなのかもしれない――しかし、ファラシアはもう一方を取った。
「お願い、カイル。離して」
静かな懇願に、ふと、カイルの力が緩み、ファラシアの手がすり抜ける。
「ごめんね」
もう一度繰り返し、ファラシアは一歩を踏み出した。
視線の先には、カリエステと、目を大きく見開いたリーラがいる。溢れ出す涙で彼女の頬は濡れ、唇は今にも何か叫び出しそうに震えている。
母とも姉とも想った、大事な人。
彼女を守れるのならば、生涯の孤独も許せる気がした。
泣かないで。
思いを込めて、ファラシアは微笑んだ。
すべてを許容したファラシアの眼差し。
それを向けられ、リーラの眼は一瞬にして乾いた。そこにあった絶望が、決意の色に塗り替えられる。
それは、ほんの瞬きほどの時間に終わってしまった。
立ち上がった、リーラ。
その胸を貫いた、剣。
そして溢れ出す、深紅。
倒れ込むリーラと視線が交差し、微かに微笑んだその口元とそこから零れた赤いものに眼が吸い寄せられる。血に染まったいつかのクリ-ゲルの姿がそこに重なり、次の瞬間、ファラシアの中で何かが弾けた。
声無き声が空気を引き裂き、ファラシアの居た場所から網膜を焼く光が溢れ出す。光の奔流はやがてその中心に吸い込まれ、換わって闇が現れた。それは渦を巻き、次第に激しい魔道風を引き起こし始める。魔道風はやがて暗雲を呼び寄せ、雨と雷が地を撃ち始めた。
人知を超えたその現象に、誰もが恐怖と畏怖を抱く。
刻一刻と勢いを増していく嵐の中、一番に我を取り戻した人間は、カリエステだった。
地に伏したリーラを抱き起こし、息を確かめる。辛うじて上下している胸に小さく安堵し、そこにある傷に全魔道力を注ぎ込んだ。
そうしながら、眼を上げ、その先にある、かつて少女だったものを見詰める。実体はどうであれ、ただ一人の人間であろうとした彼女を追い詰め、今の事態を招いたのは、彼らだった。そして、カリエステ達に、それを収めるだけの力は無かった。
じわじわと、絶望が満ちていく。