16
またまた、長めです
夕食はとても美味しいものだったし、今横になっている寝台の硬さも丁度いい。
明日の朝はそれなりに早いし、出発したら一日中歩き通しになる。
けれども、ファラシアは今、暗闇の中で目を見開き、他の二人の寝息を聞いていた。
部屋には寝台は二つしかないので、カイルとファラシアが一緒に一つの寝台を使っている──いや、足元にはゼンもいるので、二人と一匹と言うべきか。
ファラシアはできるだけ毛布を動かさないように、身体を横に滑らせるようにして寝台から下りる。足元の方で死んだようになって眠っていたゼンが、首だけもたげてファラシアを見る。一声鳴こうとした彼に、ファラシアは人差し指を唇に当てて、鳴かないようにと合図をする。
衣擦れの音にビクビクしながら、ファラシアは頭からスッポリと服を被った。
物音を立てないように細心の注意を払って歩き、扉を開ける。彼女自身が通れるだけの隙間を、やはり音を立てないように摺り抜けた。扉の取っ手を両手で握り、そーっとそーっと閉める。
扉を閉じようとした寸前、珠が転がるようにゼンがするりと出てきた。
「一緒に行ってくれるの?」
暗い中でも微かに輝いて見える白銀の身体が、護符のようだ。
「何かが呼んでいるの……悪い感じじゃない。そう、どこか悲しい……」
喉を鳴らしながらファラシアの足に頬を擦り付けてくるゼンを抱き上げた。その艶やかな毛皮をゆっくりと撫でながら、ファラシアは囁く。
「あの二人に黙って行くのはあまり良くないことかもしれないけれど、『あれ』が呼んでいるのは、わたしだから」
だからね、と、ファラシアはゼンをそっと下ろす。てっきり一緒に連れて行ってもらえるものだと思っていた彼は、怪訝な顔でファラシアを見上げた。ファラシアは膝を突いてゼンに顔を寄せる。
「あなたもここで待っていて。一緒に連れてはいけない……わたしは独りで行くべきなのよ」
そうして、ファラシアはニコリと微笑む。その笑顔は晴れやかで、ゼンを安心させようとしているのと同時に、彼女の意志の固さも表わしていた。
「じゃあ、おとなしく待っていてね」
最後にもう一度ゼンの喉の下を掻いてやり、ファラシアは立ち上がる。咄嗟に一緒に歩き出そうとしたゼンを片手で制し、目顔でここに留まることを命じた。
再び腰を落としたゼンに静かな笑みを向けて、ファラシアは二、三歩後退る。そしてクルリと身を翻した。
少し足早に去っていくファラシアを見送ったゼンは、思案するように小首を傾げる。ファラシアの姿が見えなくなったところで彼は立ち上がり、一度カイルたちが眠る部屋を振り返った。扉を見詰めてピクリと耳を動かしてから、ファラシアを追って走り出す。
一方、皆を置き去りにしたファラシアは、新月の闇の中、慣れない街を迷うことなく歩を進めていた。祠に近付くほどに彼女への呼び声は強くなり、今では実際に音として届けられているようにすら感じられる。
道筋など殆ど考えず、グイグイと心を引っ張る力に任せて歩いていたファラシアの目の前が不意に開けた。池から跳ねた小さな魚の向こうに、微かに光を帯びた祠がひっそりと佇んでいる。
決して大きくはないが豊かに水を湛えた池をグルリと回り、ファラシアは祠に近付く。
手を上げ、掌二つ分ほどの扉へと近付ける。昼間、カイルたちといた時のように途中で止まることなく、指先が触れる。それは音も無く開き、中に隠されていたものが姿を見せた。
「これ……転移の術が封じ込められている……?」
祠の中に鎮座した、両手でスッポリと包めるほどの小さな珠は、ファラシアを誘うように微かに明滅している。その薄紅の輝きに魅入られたように、彼女は更に手を伸ばす。
各種の術が封じ込められた品を用いれば、魔力を必要とせずにその術を発動させることができる。今、目の前にある珠は、全く魔力を持たないごく普通の人間を、何処かへ転送する為のものであるに違いない。
珠に、触れる。
その瞬間、視界が暗転し、再び光を取り戻した時、ファラシアは青く見えるほど真っ白な石で造られた広い部屋の中に立っていた。明り取りの為の窓も無いのにほんのりと明るいのは、壁自体が淡い光を放っているからのようである。
ファラシアはグルリと辺りを見回し、一点で止めた。そして、そこに蹲るものに向けてニコリと笑う。
「わたしを呼んだのは、あなたね」
肯定の意を表わすように、それが身動ぎをした。
不安と、恐れと、期待。
それらがない交ぜになったものが、ファラシアに向けられている。
「変化ではない……あなたは本物の魔物、なのね」
ゼンや、ミリアの村を襲った蛇のように、動物から変化したものとは異なる何かがある。
ファラシアは相手を少しでもくつろがせようと、もう一度微笑んで見せた。それが効いたのか、魔物が意を決したようにゆっくりと身を起こす。
ファラシアが見上げる角度が大きくなるにつれ、その巨体の全貌が明らかになっていく。魔物とはそれなりに距離を置いている筈であるが、今、ファラシアは首を限界まで曲げなければ、それの頭があると思しき辺りを見ることができなかった。
ズルリと音を立てて、魔物が動く。
巨大な、蛇の身体。
長くとぐろを巻いた胴体は、両腕でも抱えきれないほどの太さがある。青銀の鱗が光るその身体だけ見れば、蛇の変化とも思えたかもしれない。しかし、それを辿っていった先に続くものは、明らかに蛇のものではなかった。鱗はそのまま続いている。だが、形は人間の上半身と酷似していた。
よくよく見ると、腕と首は長すぎるし、頭髪は毛というよりは太い紐を縒り集めたものが幾つも垂れ下がっているようなものだ。が、それでも、その魔物が人の姿を真似ようとしていることはヒシヒシと伝わってきた。
魔物は自ら望んだ姿を取ることが殆どである。それがどれほど理想に近付けるかは、魔物の魔力次第となる。今、目の前に居る魔物からは、確かに、水の力が色濃く匂ってくる。が、全体的に見て溢れんばかりの魔力を有しているかと言われれば、それは否と答えるべきであろう。変化としては桁外れの力を持つゼンと比べても、それほど大きな差は無いと思われる。にも拘らず、上半身だけとはいえ、これほど人に似た姿を取ることができているのは、余程強く望んだからに違いない。
奇怪な姿のこの魔物の、人に近付きたいと思う気持ちが、今のファラシアには切なかった。
「わたしを呼んだのは、何故? わたしに何をして欲しいの?」
躊躇いを含んだ沈黙がしばし流れ、そして、魔物が声を発した。
「アナタ……来テクレタ」
深い深い水の底から湧き立ってくる泡のようなその声は、たどたどしく、どこか幼さを感じさせる。やはり、どこかまだ不安そうだった。
確かめるような、訊ねるような魔物の言葉に、ファラシアは微笑むことで頷きに代える。それに勇気付けられたように、魔物がゆっくりと上体を寄せてきた。
近付いてくるに従って、それまでは気付かなかったその容姿の細部が露になってくる。
金色に光る双の眼からは、猫のように縦長の瞳孔が覗いている。顔の中央に盛り上がった鼻梁は無く、小さな二つの孔が開いているだけだ。唇の無い大きな裂け目には長く鋭い牙が光っており、その先から、透明な粘液が糸を引いて滴り落ちる。
異形のものに不慣れな者であれば、一目で失神するかもしれない。
魔物が、再び口を開いた。先程よりはしっかりしたものとなっている。
「龍ガ、ワタシニ応エテクレルトハ、思ッテナカッタ」
「龍?違うわ、わたしはファラシア=ファーム──人間の魔道士。でも、わたしにできることなら、力になりたいの」
やんわりと否定したファラシアを、魔物は軽く首を傾げて見詰めた。そして、首を振る。
「イイエ、ヤッパリアナタハ、龍。デモ、アナタガ違ウト言ウナラ、ソウネ」
ファラシアに諂ったというわけではなく、本心からそう言っているということは間違いなかった。魔物の感情はあけすけで、言葉などに頼るまでも無い。
ほんの少し微笑んで、ファラシアは言う。
「そう……わたしはただの人間なの。でも、そんなのはどうでもいいこと、そうでしょう?」
「ソウ、アナタガ何デモ、大キナ『力』ヲ持ッテイルコトハ同ジ。ソノ『力』デ、ワタシノ願イヲ叶エテ欲シイ」
魔物が切実に何かを望んでいるのは、痛いほど解る。けれども、それが魔物にとって重要なことであればあるほど、ファラシアは簡単に応えることができないと思った。
「あなたの望みが何なのか、教えてもらわなければ返事をすることができないわ。あなたはわたしに、何をして欲しいの?」
問いかけたファラシアを、魔物はじっと見詰めた。ファラシアに自分の望みを叶えることができるのか、急に不安になったようだった。
ふっつりと黙り込み、思案している。
ファラシアはそれを邪魔しようとはせずに、ひんやりとした床の上に腰を下ろすと、やはり口を噤んで、魔物が再び口を開くのを待った。
逡巡と迷い。
その二つが入り混じった空気が、がらんとした石室の中を満たす。
今までファラシアは、『協会』に命じられるままに数多くの魔物を封じ、時に──彼らの命をその手で断ってきた。『協会』の教えによれば、魔物とは己以外の存在には頓着せず、ただ人やその他の生物に害を与える為だけに生きているという筈だった。心を持たない、破壊のみを目的に生きているものだと、『協会』は常に言い続けてきたのだ。
決して楽しんで『協会』の命に従ってきたわけではないけれど、『協会』の教えに間違いはないと信じていた。だからこそ為すことができる仕事だった。
しかし、このキアに来て、最初にあの魔物が発する切ないほどの呼び掛けを感じ取った時、初めて疑いの欠片が生じた。それを放っているのが魔物だというのは感覚で判った。そして、その呼び掛けに、身を切るような、祈りが含まれているということも。魔物が本当に心を持たないのならば、どうしてこんなにも切ない声を上げられるのだろう。
魔物は未だ身動ぎ一つしない。
ファラシアは、待った。
己の鼓動の音さえ聞こえてきそうな、完全なる静寂。
不意に、魔物が、そしてファラシアが、動いた。
二人の視線の先には、大小の人影が二つ、そして、仔馬ほどの大きさの獣の影が、一つ。
「ヒト、ト……変化……ソレニ、マサカ、何デ……?」
後退りながら、魔物が呟く。その視線がファラシアとカイルの間を彷徨った。
カイルは魔物にチラリと目をやっただけで、すぐにファラシアへと歩み寄る。
「ファー、夜の独り歩きはあんまり感心しないな」
ニコッと笑った少年に、ファラシアは何と応えていいものか、言葉に詰まる。
「あ……えっと、……ごめん、なさい」
辛うじてそれだけ言って、俯いた。
もしかしたら、ゼンが二人に教えたのだろうか。
ファラシアは一瞬そう思ったが、すぐにそれを否定する。ノアとカイルを出し抜こうなど、はなから無理な話だったのだ。
しょげているファラシアの頭に、カイルが手を伸ばす。背伸び気味に、ワシャワシャと彼女の髪を撫でた。ファラシアの顔を覗き込んで、カイルが問い掛ける。
「で、ファー、何でここに? 見たところ、あの魔物が関係しているんだとは思うけど」
「……まだ、訊いてないの。わたし、あの魔物に呼ばれたから此処へ来たのだけど、何でなのかを訊いて、返事を待っているところでカイルたちが来たから……」
「そう。でも、何にしても、あまりろくなことじゃないと思うな」
突き放したようなカイルの言い方に、ファラシアは顔を上げる。
「そんな言い方……この魔物からは悪いものは感じないわ」
憤慨したファラシアの声に、カイルは眉を片方だけ持ち上げる。彼は肩を竦めて、石室の奥の方を目で示した。それに釣られるように、ファラシアは魔物の背後へと視線を動かす。
魔物の巨体で殆どが隠され、暫らくはそれが何であるのか判らなかった。
水晶の柱──いや、もっと屈折率の大きい、そう、氷の塊。そして、その中には何かが封じ込められているらしき影が見える。
目を凝らしてみると、それが一つや二つではないことに気付く。そして、その正体も、嫌な予感を伴って、ジワジワと心に浮かんできていた。
ファラシアは引き寄せられるようにフラフラと氷へ歩み寄る。
震える指先で氷塊に触れた。
中に閉じ込められているのは、まるで眠っているかのように穏やかな顔をしている人たち。
それが全部で、十七体。
皮膚を切るような冷たさの氷に額を押し付ける。人肌に触れても滴一つ作らないことが、それがただの氷ではないことを証明していた。
いったい、自分は何を見て、何を感じていたというのか。
ファラシアは己の甘さにほとほとうんざりする。身体を離して、もう一度氷の中の人々を見詰め、そして、魔物を見上げた。魔物は、何の悪意も感じさせない眼差しで見返してくる。
ファラシアの前に存在する確かな惨状にも、魔物は全く悪びれる様子を見せない。
ある意味無垢な魔物に向けて発する言葉が見つけ出せないファラシアに代わり、それまで無言で成り行きを眺めているだけだったノアが問い掛けた。
「さて、我々としては、お前の希望を聞く前に、この氷漬けの人間たちはどういうことなのか、話して欲しいのだが?」
新たに、そして予想外に出現した人間からの質問に、魔物は戸惑いを隠せない。その上、魔物には、今この場で何が一番の問題となっているかが解っていないのである。
冷ややかなカイルの、状況を見極めようとしているノアの、そして、不安と疑念を含んだファラシアの、三者三様の視線を一身に受け、魔物は大きく一つ瞬きをした。
更に数呼吸分の沈黙の後、魔物がようやく語りだす。
「ズットズット、昔、ワタシハ小サカッタ。小サクテ、力モ無クテ……。魔物ハ、他ノ魔物ヲ食ベルコトデ、ソノ力ヲ自分ノモノニスルコトガデキル。ワタシノ力ハワズカナモノダッタド、ワタシヲ食ベレバ、タトエホンノ少シデモ、確実ニ力ヲ上ゲルコトガデキル。ダカラ、弱イ魔物ハ、常ニ、ヨリ強イ魔物ニ狙ワレル。
ワタシハスバシコカッタカラ、何度カ狙ワレテモ、ソノ都度、ナントカ逃ゲキルコトガデキテキタ。デモ、アル時、ワタシハツイニ追イ詰メラレテ、モウ少シデ食ベラレソウニナッタ。ソノ時、人間ノ魔道士ガ現レテ、アットイウ間ニ、ソノ魔物ヲ倒シテシマッタ。
ニンゲンハ、きあトイウ名前ダッタ」
「キア……? この街と同じ名前……」
小さく呟いたファラシアに、魔物は頷いた。
「きあハワタシヲ見タケレド、ワタシヲ殺ソウトハシナカッタ。きあハ、一人デ世界ヲ回ッテ、魔物退治ヲ頼マレテイルノダト言ッタ。ワタシヲ食ベヨウトシタ魔物ヲ殺シタノハ、ソレガ自分ノ仕事ダカラデ、ワタシヲ殺サナイノハ、ソレハ自分ノ仕事デハナイカラダト言ッタ。
ソレカラ、ワタシハきあト一緒ニ旅ヲシタ。……ワタシガ勝手に付イテイッタダケカモシレナイケレド、デモ、きあモ別ニ何モ言ワナカッタ。ワタシハ、早ク強クナリタクテ、きあガ倒シタ魔物ヲ、少シズツ食ベルヨウニナッタ。きあハ、ワタシガ魔物ヲ──同ジ種族ヲ食ベルコトガ、アマリ好キデハナイミタイダッタ」
魔物はそこでふっと口を噤み、何かを思い起こすようにうな垂れる。ファラシアたちは敢えて先を促さずに、魔物が言葉を継ぐのを待った。
魔物はさほど時を置かずに顔を上げ、そしてチラリとノアを見た。
「ワタシハ段々ト強クナリ、ソシテ、ニンゲンハアットイウ間ニ老イテイク。ワタシト初メテ会ッタ時、きあハソノニンゲント同ジグライノ年ダッタノニ、コノ場所──おあしすニ着イタ時ニハ、モウ、次ノ街ヘ行ケル程ノ体力ハ残ッテイナカッタ。
きあハココカラ動クコトガデキナイノニ、ココハ今ノヨウデハナカッタ。小サナ、イツ涸レテシマッテモオカシクナイヨウナ泉ノ周リニ、陽射シヲ避ケル為ノ屋根ヲ作ッテ、何トカニンゲンタチハ暮ラシテイタ。
普通ノニンゲンハ、ワタシヲ見ルト恐ガル。ココノニンゲンモ、最初ハソウダッタ。デモ、ワタシガきあヲ助ケテクレト頼ムト、皆スグニ寝床ヲ作ッタリ、食ベ物ヲ分ケタリシテクレタ。皆、親切デ……直ニワタシガ魔物デアルコトモ気ニシナクナッタ。
暫ラクハ、何事モナク過ギテイッタ。ズット、旅ヲシテイタカラ、一箇所ニ留マルトイウコトガ、少シ楽シクモアッタ。デモ、ワタシタチガソコデ暮ラシ初メテカラ暫ラクシテ、ソレマデモタップリトハ言エナカッタ泉ガ、涸レ始メタ。皆ハ泉ヲ広ゲヨウトシタリ、新シイ井戸ヲ掘ロウトシタリシタケレド、駄目ダッタ」
「そこから移動しようとは、誰もしなかったの?」
ファラシアがそう訊ねたが、魔物は首を振った。
「水ガ涸レ始メタノハトテモ急ナ事ダッタカラ、別ノ水場ヘ移ロウトシテモ、ソノ準備ガデキテイナカッタ。ソレニ、皆、長く住ンデイタ場所ヲソウ簡単ニ諦メタクハナイト言ッテイタ。ダカラ、皆何トカシタイト言ッテ。
ケド、ドンナニ頑張ッテモ、水ハドンドン少ナクナッテイッテ……。
ソノママデハ渇キ死ニスルノモ時間ノ問題ダッタノニ、皆ハ、きあニ何モ求メナカッタ──きあガ力ノアル魔道士ダトイウ事ヲ知ッテイタケレド、デモ、何モ言ッテコナカッタ。多分、何ノ力モ無イニンゲンニモ、アト一度デモ大キナ力ヲ使エバ、きあハ死ンデシマウダロウトイウ事ガ判ッタカラダロウト思ウ。
皆ハ来ル日モ来ル日モ、諦メル事無く井戸ヲ掘ッタ。デモ、ヤッパリ水ハ出ナクテ。アル時、きあガワタシニ力ヲ貸シテ欲シイト言ッタ。ワタシノ力ヲ使ッテ、水ヲ引キタイト。デモ、ソレハソノ時ダケデハナクテ、ズットズット、きあガ死ンダ後デモ、ワタシダケニナッテモ、続ケナクテハナラナイコトダカラ、嫌ダッタラソウ言ッテクレト言ッタ。
きあハアマリ考エテイル時間ハ無イト言ッタケレド、ワタシノ答エハ決マッテイタ。ソレデコソ、急イデ強クナッタ甲斐ガアルト思ッタ」
「……キアさんの役に立ちたかったのね……」
我が身を振り返って、ファラシアは呟く。彼女自身、ただでさえ人間として桁外れの力をより一層磨いたのは、最初は、少しでも養父であるクリーゲルの助けになりたかったからだ。そして、サウラの村に出入りするようになってからは、村人たちの力になりたかったから、だった。
誰もが、誰かの力になりたいと思っている。
ファラシアは魔物の背後の氷漬けの人々を見詰めた。
──彼らはどうだったのだろう?
ファラシアの視線の行方に気付いた様子なく、魔物は続ける。
「きあハ最期ノ力デコノ場所ヲ作リ、泉ノ横ニアノ入リ口ヲ作ッタ。……最初ハ、何デきあガアンナモノヲ造ッタノカ、解ラナカッタ。デモ、段々、解ッテキタ」
魔物は振り返り、ファラシアが見ているのと同じものを見た。
「ワタシタチガヤロウトシテイル事ヲ知ルト、皆、ソンナコトヲスル必要ハ無イト言ッタ。ソレハ皆ノ本当ノ気持チ。デモ、ワタシトきあニハ、口カラ出ルノデハナイ、モウ一ツノ声モ聞コエテイタ──助ケテ欲シイ、何トカシテ欲シイ、ト。ドッチノ声モ本当。
独リキリニナル事、ソウシテ、ズット生キテイク事。ソレハ……ソレハ、寂シクテ恐イ事。ケレド、ドウシテカ、嫌ナ事デハナカッタ。きあニソウ言ッタラ、きあハ笑ッタ。笑ッテ、ソウイウモノダヨッテ、言ッタ。
きあトワタシガドウシテモヤル気ダトイウ事ガ解ッタ皆ハ、一ツダケ、自分タチノ言ウ事ヲ聞イテ欲シイト言ッタ。ソレハ、皆ノ中カラ誰カ一人、連レテ行クトイウ事ダッタ──ワタシヲ独リキリニスルワケニハイカナイ、ト。きあモワタシモ、勿論駄目ダト言ッタ。一度ココニ入レバ、魔力ノ無イニンゲンハ外ニ出ル事ハデキナイ。ワタシハ魔物ダカラ、ココデモ生キテイケル。デモ、ニンゲンニハ無理ダトイウノハ判リキッタ事。キット、アットイウ間ニ死ンデシマウ。ダカラ、絶対ニ駄目ダト言ッタ。─ワタシタチハソウ言ッタノニ、皆ハ聞カナカッタ。
何人カガ、ワタシト一緒ニ行ッテモ良イト─行キタイト言ッタ。ソノウチノ一人ガワタシトココニ来テ、……今ハアソコニイル」
そう言って、魔物は部屋の奥を見やった。
ファラシアたちもその方向へと視線を向ける。その場所には五名ほどが氷の中に封じ込められていた。うち、一番奥で眠っている一人の女性は、十七人の中でも目立って若い。他はいずれも三十歳台後半から四十歳には至っているだろうに、彼女だけが二十歳半ばほどだった。
魔物の顔は陰になっており、その表情を読む事はできない。そして、魔物自身は自分に『表情』などというものがある事を否定するだろう。しかし、ファラシアには容易に想像することができた──魔物が、今、どんな『顔』をしているのかを。
「最初ニワタシト居テクレタれのあハ、ココニ来タ時ハ、マダ子供ダッタ。ドノクライノ年月ヲ一緒ニ居タノカハ、判ラナイ──ココニハソレヲ確カメル方法ガ無イカラ。デモ、アマリ長イ間デハナカッタ事ハ判ル。れのあハ、ワタシニ『ごめんね』ト言ッテ死ンデイッタ。……デモ、何ガ『ごめん』ダッタノダロウ?れのあハ、ワタシト一緒ニ来タセイデ死ンダノニ……ワタシノ、セイダッタノニ……」
言いながら魔物は俯きがちになり、そしてふっつりと黙り込む。
「きっと、あなたを残して逝く事を、謝っていたんだよ」
そう言ってあげたかった。
だが、そうする事で魔物は楽になれるのだろうか。
ファラシアが決め兼ねているうちに、魔物が再び話し出す。その顔は、いつの間にかファラシアたちの方へと戻されていた──少し、うな垂れて。
「ソレカラ暫ラク、ワタシハ独リデ居タ。寂シクテ、デモ、我慢シテ……段々、寂シイ気持チデ身体ノ中ガイッパイニナッテ、誰カニ傍ニ居テ欲シクナッテ……イツノ間ニカ、呼ンデイタ。……イケナイ事ダト、解ッテイタノニ」
「……寂しいと思ってしまうことは、仕方のないことだわ。誰も孤独には耐えられない。……寂しさを辛いと思うことは、決して、罪ではない……」
「デモ、ワタシニトッテハ、罪ダ。ワタシガ、コノ場所デ、誰カトイタイト思ウ事ハ、赦サレナイ。ワタシハ……誰モ求メテハ、ナラナイ」
魔物の声は段々と小さくなり、うな垂れた身体は一回りも二回りも縮んだように見える。
この場所を造ってからどのくらいの月日が流れたのかは、判らない。しかし、その永い時の中で同じ事を繰返してしまう度、魔物が己の弱さを責め、心の内に持つ刃で自らを切り裂いてきた事は、ファラシアには容易に測る事ができた。
きつく目を閉じ、ファラシアは深くうな垂れる。魔物の心が解るだけに、何と言っていいか判らなかった。
魔物とファラシア、両者の間に重苦しい沈黙が漂う──ねっとりとした、触れる事ができそうなほどの質感のある、沈黙。それは一呼吸毎に肺の中に染み込み、ゆっくりと身体中を満たしていく。
あと数回吸い込めば、窒息すらしていたかもしれない。
そんな鬱々とした重い空気を一掃したのは、苛立たしげな子供の声だった。
「何で君は、そう自分を弱いと思いたがるのかな」
「カイル……」
ファラシアは振り返り、少年の冷ややかな眼差しを受け止めた。
カイルは疎ましそうに魔物を眺め、その眼差しのまま、ファラシアを見やる。その足は、苛々と床を踏んでいた。
「君は、ちっとも弱くなんか無いんだ。そこの魔物とは、全然違うんだよ。君は僕が欲しくて堪らないものを全て持っているのに、それを見ようとしない。それがどんなに悔しい事か、解る?解らないんだろうなぁ」
カイルのその冷ややかな眼差しに射竦められながらも、ファラシアは懸命に首を振る。
「違うの、カイル。あなたの言う強さと、わたしの求める強さは違うのよ。力だけではない、他の──」
「もういいよ。ファーはそいつのお願いでも何でも聞いてやればいい。僕はご免だから」
「あ……」
言い置いて脊を向けたカイルを止めることができず、ファラシアは差し伸べた手を力なく垂らす。項垂れた彼女に、静かな声が被さる。
「あまり気にするな。お前とカイルは別のものなのだから、いつでも同じ意見を得られると思っていてはいけない。なに、次に顔を合わせる時には、いつものカイルに戻っているだろう」
自分よりも遥かに様々な経験を積み重ねてきているノアの言葉に、ファラシアは気弱に微笑む。ノアの言う事は、解る。けれども、ファラシアは、やはりカイルに自分と同じように感じて欲しかった──同じように感じて、一緒に生きていきたいのだ。
どんどん欲張りになっていく自分を、ファラシアは止めることができない。最初は、ただ、一緒にいる誰かが居てくれれば良いと思っていた。その誰かが、いつしかカイルという一人になり、更には、同じものを見つめていきたいと考えるようになってきている。
「何で、わたしはこんなに弱い……」
呟いたファラシアを、ノアは暫く黙って見つめ、そして、促す。
「さて、それではどうする?」
このまま、魔物をそのままにここを去るのか──願いを聞き届けるのか。
ファラシアは数瞬の迷いの後、顔を上げた。そして魔物を振り返る。
また、カイルの怒りを買ってしまうかもしれない。けれども、それがファラシアのしたい事、するべき事であった。
「あなたを眠らせるわ。もう、寂しさを感じることの無いように」
永遠の眠り──それは殆ど死に等しいものであるけれど、目の前に蹲るこの淋しい魔物にとっては、数少ない幸せへの道には違わなかった。
「いつか、この辺りもあなたの力を必要としない、豊かな土地になるかもしれない。あるいは、あなたが眠り続けるまま、この町が朽ちていってしまうかもしれない……それでも、いいのね?」
「ソレデモ、イイ。きあノ眠ルコノ場所デ、ワタシモ眠リタイ」
魔物の眼差しには、一片の迷いも無い。
「そう……」
ファラシアは一瞬瞑目し、そして魔物を見上げる。思い浮かべるものは、氷の揺り籠。孤独な魔物を包み込み、その想い、その願いは静かに溢れ出させるまま、優しい夢を紡がせ続ける。
室の中に次第に冷気が満ち始め、魔物の身体は、透明な氷塊に包まれていく。
「おやすみなさい──いい夢を」
ファラシアは氷にそっと触れ、呟く。絶望に溢れていた魔物のその目は、今は閉じられており、心做しか、微笑を浮かべているように見えた。
いつか、この土地が緑溢れるものになれたなら、魔物も解放される時がくるだろう。町が栄え続ける限り、魔物はそこに住む人々の生気を受け、生きていく。
──もし、その日が来なくとも、魔物は静かにこの地を潤していくのだ。
ファラシアは、自分とどこか似ていたその魔物をもう一度眼に焼き付け、背を向ける。振り返った先に佇んでいたノアに、微笑んだ。
「さあ、行きましょう。力を使ってしまったから、いずれ協会の人たちがやって来るわ。早くこの地を離れないと。カイルを探さなくちゃ」
転移の魔道を使われてしまったら、もう手遅れかもしれないが、とは思ったが、口には出さない。今度こそ、彼らはファラシアを『退治』するつもりでくるだろう。だが、背負うものが増えてしまった今の彼女には、負ける事は赦されない。前回の戦いでこちらの面子は向こうに知られ、ファラシアを助けるものとして、ノアとカイルも協会に追われる身になってしまった。ノアとゼンは、ファラシアの助けが無くとも、恐らく逃げ切れる。だが、カイルはどうだろう?
何か底知れぬものを内に潜ませている少年だけれども、恐らく、カイルに戦う力は無い。
かつては曲がり形にも『同僚』と呼んだ者達ではあるが、どちらを優先させるかと問われれば、今のファラシアにとってはカイルに軍配を上げることになる。
逃げ切るか――戦うか。
自分がヒトと戦った時、どんな光景になるかは予想も付かない。ただ、あまり嬉しい事にはならないのは確かであった。