15
念の為、『協会』の本部がある都は避けて進もうと、ファラシアたち一行はグルリと南方へ回るようにしてグレイスターヌとの国境を目指していた。
この時期、ドゥワナの南部は乾期で殆ど雨が降らない為、点在する水場を結びながらの旅が基本となる。水場は単に泉が有るだけの所から、人が集まりちょっとした街を形成している所まで様々だ。
ファラシアたちが次の休憩所に選んだのは、小さいながらも地図にその名を載せているキアの街だった。あと丘を一つ越えれば見えてくる。
「キアは小さいが、豊かな水源を持っている。どんな旱魃の時も決して枯れることはないという」
以前にもキアを訪れたことがあり、多少の土地勘があるノアの言葉だったが、それに対してカイルが首を傾げた。
「豊かな水源? でも、ここらにそんなに太い水脈が走っている気配はしないけど。近くに河も無いし……何処からその水が来ているんだろう?」
「確かに、自然の水脈は無いわ……でも、これは……」
水の魔道を最も得意とするファラシアは、カイルよりも敏感に、風に混じる水の気配を察知していた。
「何か判るの? ファーには」
微かに眉を顰めているファラシアの表情に気付き、カイルが彼女の顔を覗き込んだ。ノアも無表情の中にもわずかな好奇心を滲ませて振り返る。
しかし、ファラシア自身もその気配の正体をはっきりとは判断しかねていた。確かに何か魔道の力がこの辺りの水を支配していることは判る。かなりの力を持つ魔道士であれば、地下深くに眠る水脈から水を強制的に引き上げることは可能だ。だが、その力は魔道士が施しているものとはどこか異なる気がしていた。
もしも魔道士がいるのなら、それは即ち『協会』に繋がっているということになる。だとすれば、キアに入るのはあまり得策とは言えなくなってくる。
その不安を口にしたファラシアに、ノアは異を唱えた。
「だが、私が以前訪れた時も同じように豊富に水があったが、魔道士はいなかったぞ。水を護っている魔道士がいるのならば、少しは住人の口に上るのではないか?」
「ええ……わたしも、魔道士の力とは何かちょっと違う気がするんだけど……」
なかなかこれといった判断を下せない女性陣二人に、カイルが現実的な意見を挟む。
「でもさ、水も残り少なくなってきたし、そろそろ補充しないとだよ。この次の水場は随分先になるし、やっぱりキアに寄らないとまずいと思う。一か八かで行ってみようよ」
人間にとって、水分補給は食事よりも大事なことだ。キアの次の水場はやや離れていて、徒歩では七日はかかる。
「仕方が無いな、キアに入ろう。ファラシアは……そうだな、この布でも被っておけ。ガルディアのような大きな街であればそうでもないが、人の少ない所では、お前の黒髪黒瞳はそれだけでも目を引く。この辺りでは強い日差しを避ける為にこういう布を被ることは良くあることだ」
ノアが投げてよこした布を広げて、ファラシアは言われたとおりスッポリと頭から被る。
「どうかな、ちゃんと隠れてる?」
「隠れてはいるけど……それで周りは見えているの? 危なくない?」
心配そうなカイルの言葉も尤もで、目まで隠そうとしたファラシアは鼻先まで布を下ろしていた。ノアが手を伸ばす。
「もう少し上げても大丈夫だ。目の辺りが陰になっていれば、それ程色は目立たん。髪は束ねて纏めてしまった方が良い」
言いながら器用な手付きで三つ編みをし、クルリと団子を作る。戦い一辺倒のように見えたノアの意外な一面に、カイルが驚きの声を上げる。
「へぇ、上手だねぇ」
「仕事で王宮やら貴族の家やらに潜入することもあったからな。そういう時は侍女に化けるのが一番だった」
「……って言うと、もしかして、ドレスも着たりとかしたの……?」
殆ど恐る恐るという声で訊ねたカイルに、ノアは何故そんなことを訊くのかと言わんばかりの顔で返した。
「この格好で侍女の振りができるわけもあるまい。雇ってもらうことすらできん」
複雑な顔で沈黙したカイルに、ファラシアは笑いながら言う。
「でも、ノアは美人だし……似合うんじゃないかな?」
ただし、美人は美人でも、華奢な貴婦人などとは質の違う美しさではあるが。
「まぁ、いいか。──キアが見えてきた」
「あ、本当。ゼン、小さくなってくれる?」
その言葉に従って縮まったゼンを抱き上げ、ファラシアはもう一度被った布がきちんと髪や目を隠しているかを確認した。この一枚の布が、ドゥワナには無い目と髪の色だけではなく、異質である自分の存在全てを隠してくれるような気がする。
「大丈夫だよね……嫌な感じはしないし……」
半ば己に言い聞かせるようなファラシアの独白に、腕の中のゼンが何か言ったかというふうに顔を上げる。
「何でもないよ。何でも……」
微笑んで、ゼンの背を撫でる。
カイルもノアも、もうキアの入り口に向けて歩き出していたが、佇んだままのファラシアに気付き、カイルが振り返った。
「ファー? 置いてっちゃうよ」
「うん、今行く」
ホッと、息を吐くように笑ってファラシアは応える。そして一歩を踏み出しながら、心の中でもう一度「大丈夫」と呟いた。
*
流石に豊富な水量を誇っているだけあって、キアはこれまでに寄った水場のうちで一番の盛りようだった。南ドゥワナを走る国道の数本が交差している交通の要所であることも重なり、各所から集まってきた様々な露天商が軒を連ねている。いずれの商人も、二日と店を広げてはいない。当座の路銀が集まれば、他の店から新たな商品を仕入れて次の街へと移っていく。
そんな数ある露天の一つで、カイルはこれまで目にしたことの無い黄色の果実を数個取り上げ、金を払いながら店の主人にニッコリと笑いかける。好奇心一杯の少年という様子に、商人も笑顔を返した。
「ねぇ、おじさん。ここって人が凄く一杯いるね。お店も多いし、何処で買ったらいいか、迷っちゃうよ」
「そうかい、坊主。けど、うちにして正解だったぜ。そいつはここより南のハンディアで仕入れたやつで、キルミといってな、滅法旨いんだ。ハンディアなんて行ったことないだろう? そいつを食べて、気分だけでも楽しみなよ」
「うん、そうだね、味わって食べるよ。でもさ、何でここってこんなに水があるんだろう。池まであるなんて、驚きだよ」
「そうだろ。俺も良くは知らないが、なんでも水の神様が護ってくれてるらしいぜ」
「水の神様? 何それ。魔道士様のことかな」
「いや、魔道士なら魔道士って言うんじゃねぇか? ほら、池の傍に小さい祠があるだろ? あれに、その水の神様を祀っているそうなんだ」
「へぇ……」
言われて、カイルはその祠のことを思い出していた。ファラシアと、何を祀ったものなのだろうかと首を捻っていたのだ。
「水の神様、か……」
軽く俯いて考え込んだカイルを、商人が覗き込む。
「どうしたい、坊主?」
「ううん、何でも。色々教えてもらえて、楽しかった。ありがとう」
「おう、そうか? 俺は明日までここにいるからよ、良かったらまた来いや」
「うん、そうする。じゃぁね」
もう一度、ニッコリと笑顔を作り、商人に手を振って店を後にしたカイルは、他にも幾つかの店を回り、それまで仕入れた情報が正しいことを確かめてから、池の所で待っているファラシアたちと合流する。
聞いてきた話を一同に伝え、カイルはファラシアに笑顔を向ける。
「取り敢えず、一番の問題は解決したよね」
「そうね。少なくとも魔道士はいないようだし……ちょっと安心した。後はわたしが気を付ければいいだけだもの」
カイルを待つ間、いつ追っ手が現れるかと木を張り詰めていたファラシアは、ほっと胸を撫で下ろす。頭から布を被るこの格好も、ノアが言っていたとおりそれ程珍しいものではなく、五人に一人は同じような姿をして通りを歩いていた。
「ねぇ、魔道士はいないんだし、今夜はここで一泊していかない?ずっと野宿ばかりだったから、久し振りにちゃんと屋根のあるところで眠りたいよ」
目を輝かせてのカイルの提案について考えるように首を傾げたノアを、ファラシアも期待に満ちた眼差しで見詰める。
「そうだな……」
彼女自身も心配はないと判断したのか、あるいは二人の視線に負けたのか、ノアは暫らくしてから頷いた。
「今夜一晩だけ、ここで宿を取ろう」
「やったぁ。美味しいもの食べて、英気を養わなくっちゃ。宿屋って何処ら辺かな」
両拳を握って喜ぶカイルに、ノアの顔も心なしか綻んでいるようだった。
「来た方向には無かったから、あっちの方かな。行ってみよう、ファー」
ひとしきり喜んだカイルはファラシアの手を取り、宿屋を探して走り出す。ノアが声を掛ける間も与えずに、二人の姿は見る見るうちに人込みへと紛れ込んでいった。
「……やれやれ、私とお前はどうやら置いていかれてしまったようだな」
ノアは足元に座り込んでいるゼンを見下ろして呟く。化け猫は、素知らぬふりで耳の後ろを掻いていた。その仕草は、まるで『お前と一緒にしないで欲しい』と言っているようである。
「お前なら、二人の後を追えるだろう。私を案内してくれないか」
猫に道案内を頼むなど、傍から見ていれば頭の回線が一本ずれているようにしか思われないだろうが、ノアは至って真面目な顔である。そしてゼンはと言えば、ノアの言葉を聞き入れたのか、あるいは単に気が向いたのか、スイと立って歩き出した。ピンと立った尻尾が、まるで目印のようにも見える。
ノアは、旗のように揺らめくゼンの尾を見失うことなく付いていく。
直に、ノアとゼンは一軒の宿屋に辿り着いた。
ややこじんまりとした、さりとて安宿という感じもしない、家族だけで賄っているような落ち着いた風情の宿屋である。
「ここか……旅慣れているだけあって、宿の選び方もうまいな」
呟いて、ノアは入り口に座り込んだゼンを抱き上げ、戸を押し開けた。
「いらっしゃい!」
一歩中に踏み込んだノアを、女将の陽気な声が迎える。一階はちょっとした食堂になっているようだった。四脚の椅子が付いたテーブルは全部で五脚あり、その一つにファラシアとカイルが座っていた。入ってきたのがノアだと気付くと、カイルがひらひらと手を振った。
「こっちこっち。やっぱりちゃんと付いて来たね」
椅子に座ったノアに、カイルが笑顔を向ける。彼女とゼンに置いてきぼりを食わせた記憶など無いか、あるいはその気が全く無かったかのようだった。
「宿帳にはあなたの名前で僕が書いておいたから──ね、ノア=イーエル」
「……『冷たい水』か。解った」
古代神聖語を解すならば、それが偽名であることを薄々感じ取るだろうが、文盲の者が五割近いこの地域では、まず在り得ないことだと思っていいだろう。
「で、部屋は何処だ?」
「あ、鍵は僕が持ってる。僕たちの荷物は先に置いてきちゃった。はい、これ鍵」
カイルの差し出した鍵を受け取る代わりにゼンをファラシアに手渡し、ノアは立ち上がる。
「僕たち、ちょっと街を見てきてもいいかな?」
部屋へ向かおうとしたノアに、カイルが声を掛けた。
「この街って、店がたくさんあって面白いよ。売ってるのも珍しい物ばかりだし」
カイルが外見よりも年を経ていることはノアも薄々感付いているが、彼の好奇心はその外見通りのようである。あるいは、寿命自体が長いと、成長の速度が人とは異なるのかもしれないと、ノアはチラリと思った。この少年は、時々妙にちぐはぐな感じがする。
「まあ、構わないだろう。私は部屋にいるから、適当に必要な物を買い揃えてきてくれ」
「解った」
「僕たち……って、もしかして、わたしもなの?」
問答無用で頭数に入れられていたことにファラシアはかなり遠回しに抗議をするが、それはあまりに遠すぎて、カイルには無視されてしまった。
「じゃあ、行ってきまーす。夕飯までには帰るから」
言うなり席を立ってファラシアの手を取る。
ファラシアが何かを言う暇も無く、あれよあれよという間に彼女は外に連れ出されていた。
「まずは何かちょっと食べようか。ほら、あれなんか美味しそうだよ。あ、あっちのって何だろう」
まさに子供の身軽さでくるくるとファラシアを連れ回すカイルのその様子は、満開の花畑に遊ぶ蝶さながらである。ファラシアは次から次へと興味の対象が変わっていくカイルに付いていくのがやっとだった。
「カイル、もうちょっとゆっくり……」
目まぐるしい展開に気疲れして息が上がり加減のファラシアが、言いかけて、自分たちが今何処にいるのかに気付いて口を噤む。
「ファー? 疲れちゃった?」
足が止まったファラシアに、カイルが振り返って彼女の顔を覗き込んだ。そして、そのままファラシアの視線を追いかけて、その先に在る物に気付く。
「ああ、あの祠か。いつの間にかこんな所まで来ていたんだ。……気になるの?」
「ん、ちょっと……何となく……」
少し気遣うような顔付きでそう訊ねたカイルに、ファラシアは気もそぞろに答えただけだった。最初に近付いた時もそうだったが、あの祠には何か惹き付けられるものがある──そう、まるであの祠が手招きをしているかのように。
「近くに行ってみる?」
「ええ……いえ、止めておいた方がいい気がする……けど……」
「何だか歯切れが悪いね。あれは水の神様が祀られているんだっけ。ファーは水が強いから、何か感じるのかもしれない」
「そう、なのかな……」
そう話しながらも、ファラシアの足は少しずつ祠に近付いていっている。
もう、腕を一杯に伸ばせば祠に触れることができるぐらいまでの距離まで来ていた。
持ち上げようとしたファラシアの手が躊躇するように振れ、また上がり始める。
結局、ファラシアの手は祠まで紙一枚挟めるだけの隙間を空けた所で止まった。
「やっぱり、感じる。……魔道の力だわ──でも、魔道士の──人の、ものじゃない」
独語するような途切れ途切れのファラシアの言葉は、一つ一つを確かめながら呟いているような響きを持っている。そんなファラシアの邪魔にならないように、カイルは黙って彼女を見詰めていた。
「そう、魔道士の力は、ほんの残滓程度。なら、魔物……? でも、それなら、どうしておとなしく人に使われてなんているの……?」
額にうっすらと汗すら浮かべ始めているファラシアは、目の前の祠に吸い込まれていってしまいそうに見える。カイルはファラシアの腕を握る手にほんのわずかに力を込めたが、言葉は発しない。ファラシアの声は次第に小さくなり、囁くほどになり、そして終いには完全に口を閉ざしてしまった。後はただ食い入るように祠を見詰めているだけである。
夕焼けが辺りを照らすようになった頃、不意に、ファラシアが大きく瞬きをした──まるで、ぼんやりしていたところに急に大きな物音を聞かされた時のように。
「大丈夫?」
静かに声を掛けられて、ファラシアは振り返る。そして初めてカイルに気が付いたように、もう一度ゆっくりと瞬きをした。
「カイル……?」
「大丈夫?」
どこかぼんやりとしているファラシアに、カイルがもう一度訊ねる。ファラシアは痺れた指先から、随分長い間腕を強く掴まれていたことを知り、見渡した空がすっかり赤くなっていることでそろそろ夕飯時が近いことを知った。
ファラシアの視線が注がれて、カイルはようやく手を開く。
「ごめん。ちょっと強く握り過ぎちゃった」
申し訳無さそうなカイルに、ファラシアは微笑んで見せた。指先がチリチリして少々気持ちが悪かったけれど、気遣うカイルの眼差しを、心配させて申し訳ないと思いながらも、どこかで嬉しいと感じる。
「わたしこそ、心配させてごめんね。ボーっとしていたみたい。結構遅くなっちゃったから、買い物を済ませて帰らないと、ノアが心配するわ」
明るい声でそう言うファラシアが何かを隠しているのは手に取るように解ったが、カイルは少し彼女を見詰めただけで、すぐに頭を切り替えた。
「そうだね、摘み食いはしたけど、肝心な物は何にも買ってないや」
そう言ったカイルの笑顔は、先程までのことなど無かったかのように明るく、釣られてファラシアも頬を緩ませる。
「じゃあ、行こうか」
自らに差し伸べられたカイルの手を、ファラシアは以前のような抵抗感無く取れるようになった。
心を開けば開くほど、別れる時が辛くなる。
カイルは事ある毎に『傍に居る』と言ってくれ、ファラシアも確かに彼の心は信じている。けれども、以前ノアが言ったように、神様は絶対と誓ったことを実行困難にする事で、その人の決意の固さを試しているような気がする。
いつかカイルと離れなければならない時が来たときは、彼が悲しむようなことが無ければいいと、ファラシアは切に願う。
ファラシアはカイルに手を引かれるようにして祠を離れていく。
夕暮れ時で増えてきた人波に紛れて見えなくなる寸前、ファラシアはもう一度祠を振り返った。