13
最後にもう一度だけ生まれ育ったサウラの村の人々に会っていきたいと、ファラシアは言い張った。それがどんなに危険なことか重々承知した上で、やはりどうしても皆に別れを告げてからこの国を後にしたいと懇願する彼女に、渋い顔をしながらもカイルとノアはそれを受け入れた。
「ファーがどうしてもって言うからしょうがないけど、僕は、本当は反対なんだからね。いい?もしあいつらが来たら、今度はちゃんと闘うんだよ?躊躇ったり、遠慮したりしないで」
サウラに近付くほどに増えてくるカイルの小言を、すでに耳に巨大なタコができていたファラシアは半分以上聞き流している。一歩毎に近付いてくる懐かしい気配に、気もそぞろだった。
「あっ、ほら、見えてきた」
そう言うなり走り出したファラシアの後を、猫ほどの大きさになったゼンが慌てて追いかける。残されたカイルとノアは、やれやれと言うように顔を見合わせた。故郷と呼べるほどのものを持たない二人には、ファラシアの喜びようは今一つ理解できなかった。
「なんかなぁ、もう、この間までの落ち込みようが嘘みたいだ。子供みたいにはしゃいじゃってさ」
落ち込んでいるファラシアをずっと見てきたカイルにとって、彼女が喜んでいるのはとても嬉しいのだが、現在の状況を考えると、その能天気ぶりに呆れてしまうのもまた正直なところだ。
ファラシアが元気になったのは嬉しい。けれども、状況をわきまえてもう少し深刻になって欲しい。
「何だか、心配していた僕が馬鹿みたいだ」
複雑な心境を漏らすカイルの肩を、ノアが叩く。
「落ち込まれているよりはいいのだろう? それとも、ずっと、泣いて縋られていたかったか?」
「そんなことはないけどさ」
年齢相当の少年らしく、カイルは口を尖らせる。相も変わらず無表情なノアの言葉は、それがからかう為のものなのか、それとも何の裏も無いものなのか判断するのは難しい。
「……ちぇ、意地悪だな、ノアは。判っているくせに」
そう言って、照れ隠しのようにカイルは空を見上げた。翳りのない青空こそ、ファラシアに良く似合う。
「ちょっと、悔しいだけだよ。故郷とか何とか、そんな曖昧なものに負けちゃったってことがさ。でも、僕の励ましもちょっとは効いてたよ、きっと」
「ちょっとじゃないのよ?」
「え!?」
突然響いてきた予想外の声に、上を見ていたカイルは危うくひっくり返りそうになる。それを受け止めたのは、とっくに先に行ったと思っていたファラシアだった。そのまま後ろから両腕を少年の細い身体に回す。
「いやね。いくら何でも、村に帰れるっていうだけで全てがすっ飛んでいってしまうほど、わたしは単純じゃないわ。カイルがずっと元気付けようとしてくれていたから、村に着いたことをこんなに喜べるのよ」
屈託のない声でそう言ったファラシアの柔らかな身体の丸みを背中で感じ、カイルはまた別の思いを含んだ溜め息を零す。
「まったくね。こういうことを平気でしちゃうってことは、僕を一人前と見ていないからなんだよな」
小声でぼやいたカイルを、ファラシアが覗き込む。
「何て言ったの?」
「何でもないよ。ただ、ファラシアは子供だなぁって」
そう言って笑うカイルから、ファラシアは口を尖らせて離れる。
「カイルの方が子どもでしょう。……時々、凄く大人びているけど……でも、わたしの方が年上なのよ」
「そんなふうに拗ねるから、余計子供っぽく見えるんだよ」
更に笑みを深くするカイルに、ファラシアはより一層頬を膨らませた。
「もう、知らない。一人で大人ぶって!」
ぷいと背を向け、村へと走り出す。やりすぎたかな、と思いながらも、ファラシアの背中を見送るカイルはクスクスと笑いを漏らす。そんな少年を、ノアは横目で見やる。
「あいつは根が素直なのだから、あまりからかってやるな」
「う~ん、判っているんだけど、つい……」
そう言ったカイルは口元を手で覆い、やや反省の色を見せる。
「僕も、僕の種族のうちじゃぁ、まだまだ子供の内に入るから、素直に愛情を示せないのかなぁ」
惚けるようにそう言うカイルに、ノアは特に何の合いの手も入れず、さらりと聞き流しただけだった。そんな彼女の顔を、カイルが覗き込む。
「ノアってさ、どこまで知ってるの?」
「どこまで、とは?」
「そう、そういう返しも、何かね。達観している感じ。色んな事を全てお見通しで、それを知らないふりしているっていうふうに見える。僕が何なのか、ファラシアが何なのか、本当は全部解っているんでしょ?」
「お前が何なのか、か?私は特殊な力を一切持たないただの人間に過ぎない。そして、ただの人間に物事を真に見抜くことなど、まずできん」
「そうやって、惚けるのは……」
ずるい。
そう言おうとしたカイルに構わず、ノアは続ける。
「だがな、ただの人間にも、物事を推察するということはできる。様々な経験も重ねてきたことだしな。だから、お前たちがどんな存在なのかということの、大体のあたりは付いている」
「じゃあ、解ってて、何で付いてくるの? 本当は、ファラシアは『協会』の人間が全員でかかってきても負けないぐらい強いんだって事も判るんじゃないの?」
「『強さ』か。まあ、確かに、ある方面では強いかもしれん。だが、私にはファラシアは物知らずで弱い、ただの娘に見える」
「弱い? ファラシアが?」
「ああ。あの娘は、弱い。『孤独』という、化け物にな」
「『孤独』……」
「そうだ。あれは一番厄介なものだ。確かに、私やお前には殆ど無害だが、ファラシアのような娘には、何よりも手強い相手になる」
そう言って、ノアはファラシアが走って行った──サウラの村へと視線を送る。そして、呟いた。
「何よりも、厄介な敵だ」
*
ファラシアは小さくなったゼンを左腕に抱き上げ、リーラの家の前に立った。夜も遅いこの時間、辺りに人影は無い。軽く深呼吸して、戸を叩く為に右手を上げる。
こんこん、こん。
サウラのような小さな田舎村では、隣人を訪ねるのに戸を叩くような者はいない。大声で名を呼び、大声で応える。それが普通だった。
慣れない事に怪訝な顔で戸を開けたリーラは、そこに見つけた顔に目を見張る。
「リーラ、久し振り……」
元気だった? と続ける暇なく、ファラシアは家の中へと引き摺り込まれる。
「リーラ?ねぇ?」
無言で背を向けたまま手早く机の上のパンやらクッキーやらを袋に詰め込むリーラに、ファラシアは何と声を掛けていいものか判らず、所在無く立ち竦む。そして、その背中のみを見詰めるしかないファラシアには、リーラの目元に滲んだ涙には気付くことができなかった。
何だか怒っているようにも見えるリーラに、ファラシアはおずおずともう一度声を掛ける。
「リーラ、わたし、暫らくこの国を離れることになったの。だから、お別れを言いたくて……こっちを向いてくれる?」
ファラシアのその言葉がきっかけとなったようにリーラの手がふと止まり、彼女は小さく息を吐いた。ほんの少しの時を置いた後、クルリと振り向き、手に持った袋をズイと差し出した。
「リー……」
ファラシアに何か言わせる隙を与えず、リーラは袋を彼女に押し付ける。
「さっさとこの村から──この国から出て行っとくれ」
予想だにしていなかった、姉とも母とも思っていた人からの厳しい言葉に、ファラシアは愕然とする。だが、瞬時にその理由を悟った。
「お願い、リーラ、聞いて。わたしは悪いことはしていないの。信じて……」
しかし、その必死の訴えもにべも無く撥ね付けられる。
「そんなことはどうでもいいんだよ。ただね、あんただって解るだろう?こんな小さな田舎の村が『協会』に目を付けられたらどんなことになるかって」
「でも──」
「いいから!」
知らぬうちに大きくなってしまった声を留めるように、リーラはハッと両手で口を塞いだ、が、すでに遅かった。切羽詰ったその声は、泥のような子供の眠りを妨げるのに充分な大きさだった。
「ファアねえちゃん?」
舌足らずな幼い声が、嬉しそうに響く。眠たげに目を擦り、部屋の明かりの眩しさにカヤは目を瞬かせた。
「カヤ……」
思わず幼女の名を呼んだファラシアに、カヤはパッと笑顔になる。パタパタと駆け寄りしがみ付いてきたカヤを、ファラシアはしゃがんで受け止めた。
「カヤねぇ、ずっと『ありがとう』って言おうって、ファアねえちゃんのことを待ってたんだよ。でも、お熱が下がっても、お外で遊べるようになっても、全然来てくれないんだもん。もう来てくれないのかなぁって思ってたんだけど、おかあちゃんは、ファアねえちゃんはまた絶対来てくれるよって言うから、カヤ待ってたの。おかあちゃんも、まいんちまいんち、パンとかお菓子とか作って、ねえちゃんのこと待ってたんだよ。もう食べた?」
カヤの言葉に、ファラシアはリーラを振り返る。彼女はファラシアから顔を背けるようにして、前掛けの裾を目尻に押し当てていた。
ファラシアは先程の冷たい言葉の裏に隠されていたリーラの本心を悟る。
「そっか……ごめんね、カヤ。ねえちゃんはちょっと遠くに行ってたんだ。……お仕事だったの」
「そうなの? でも、もう終わったんでしょ? また遊んでくれるんでしょ?」
「んー、あのね、またお仕事で、今度はもっと遠くに行かなくちゃならないんだよ。だから、また、ずっと会えないの」
ファラシアは辛うじて笑顔を作り、明るい口調でそう言い聞かせたが、そんな誤魔化しは通用せず、カヤは半ベソをかいた。
「えー、やだなぁ」
「そうだね、わたしも嫌だな……」
堪らず子供を抱き締め、ファラシアは言う。涙が零れそうになったが、ここで彼女が崩れればカヤも泣き出してしまうことが判っていた。ミリアの時のように悲しい別れにはしたくない。
もう一度幼女の温かさを身体に刻み込み、ファラシアは未練を引き剥がすようにカヤから離れた。じっと自分を見詰めるファラシアに、カヤは小首を傾げて訊ねる。
「ファアねえちゃん、今度のお仕事終わるの、いつ?」
ものを知らない、だからこそ再会を信じて疑わない子供の、無邪気な問い掛け。
ファラシアも、カヤが信じる事を信じたかった。
「カヤがね、ずっと大きくなってからかな」
「大きく? じゃあ、カヤが五つになったら?」
「もっともっと大きくなってからだよ」
「ふーん、じゃあ、カヤいっぱい寝なくちゃ」
真剣な顔でそう言うカヤを見詰めるファラシアの胸の中が、愛しさで苦しくなる。それはほのかに甘い苦しさだった。
焼き立てのパンや菓子が詰まった袋を取り、戸に手を掛ける。
小さく深呼吸して振り返る。
笑顔を浮かべて。
「じゃあ、もう行くわね、リーラ。これ、ありがとう。わたし、リーラの焼いてくれるパンが大好きなんだ」
「ファラシア……!」
涙の混じるリーラの声を断ち切るように、ファラシアは戸を閉める。ついに泣き出してしまったリーラを案じるカヤの声が、扉越しに聞こえた。
「ごめんね、リーラ」
家の中には届かないような小さな声で、ファラシアは呟く。足元で心配するように喉を鳴らしたゼンを抱き上げる。
「大丈夫だよ、ゼン。永遠の別れじゃぁないんだもの。いつか、また、きっと……」
白銀の毛皮に頬を埋め、半分は自分自身に言い聞かせるようにそう囁いた。ゼンはそれに頷くように、ファラシアの頬に顔を摺り寄せる。
「ありがとう、ゼン」
手の中のゼンを目の高さまで持ち上げて、ファラシアは微笑んだ。
「二人が待ってるね。行こうか」
人の言葉を紡げない山猫は、目をギュッと閉じることで同意を示す。どこか可愛らしいその仕草に、ファラシアはクスリと笑った。そして、カイルとノアの待つ村の入り口へと歩き出す。
別れは辛い。
けれども、今度はただ辛いだけの別れではなかったと、ファラシアは確信を持って言える。
確かにリーラを泣かせてしまったけれど、ミリアの時のように絶望だけの涙ではない。いつかきっと、リーラとカヤの二人が笑って自分の事を話せるようになる時が来ると、何故か思えた。
そして、ファラシア自身も楽しかった思い出を心に抱き締めていける。
今こうやってサウラの通りを歩いていても、その此処其処に数限りない思い出たちが散りばめられている。それらはどれも胸を温めてくれるものばかりだった。その一つ一つを確かめながら、ファラシアはゆっくりと歩く。
広場の真ん中にある大きな木の下では、週に一回、子供たちに勉強を教えた。
村に一軒の雑貨屋からは、仕事で遠方へ赴く時には、よくその地の珍しいものを買ってきてくれるように頼まれた。
ファラシアが『ファル』の称号を名乗るようになってから産まれた子供は、皆、彼女が祝福を与えてきた。
年に一度の村の平安を願う祭りには、祭祀として、必ず招かれた。
全てが、いとおしい。
ファラシアは村の中央にある魔除けの祭壇に歩み寄り、念入りに結界の強化を施す。幾重にも幾重にも、永くこの村を護っていってくれるように。
願いと祈りを込めて、ファラシアは呟く。
「どうか、幸せに……」
閉じていた目を開き、立ち上がる。
連れてはいけない感傷を引き摺っていては、いつまでも歩き出せない。
ファラシアは未練の代わりにゼンを抱き上げた。その温もりが、新たに進むべき道を思い出させてくれる。
「さよなら、皆。サウラで過ごしたことは、絶対に忘れない」
決別。
そして、歩き出す。
ファラシアには、彼女を待っていてくれる人たちがいる。