12
長くてすみません。切れませんでした……
血の気の引いた顔でぐったりと地面に横たわっているクリーゲルに、ファラシアは必死で治癒の術をかけていた。その横には、魔力を取り戻し、すっかり傷も癒えたゼンが項垂れたように頭を下げ、申し訳無さそうに座っている。ノアとカイルは二人と一匹からやや離れたところに佇んでいた。
ゼンの爪によるクリーゲルの傷は思ったよりも深く、何より、出血が著しい。
もしかしたら……
喪失への恐怖感が、どうしようもなくファラシアを襲う。
「いや……師匠……死なないで……」
無意識のうちに呟きながら、冷え切ったクリーゲルの身体に力を注ぎこむ。傷が塞がれば、次は自らの生気を。
徐々に赤味を取り戻していくクリーゲルと反比例して、ファラシアの頬は見る見る蒼褪めていく。
「ねえ、ファー、もう止めてよ。やりすぎだよ」
見兼ねてクリーゲルを挟んでファラシアの向かいに膝を突いたカイルが、心配そうに言う。クリーゲルの身体に翳したファラシアの手を押し戻そうとするが、彼女は頑として手を引こうとはしなかった。
「駄目、まだ駄目。もうちょっと……」
殆ど独白のように言った矢先に、ファラシアの視界がぶれた。大きく揺らいだ上体を、カイルが支える。
「ファラシア、もう止めるんだ! 君の身体がもたないよ!」
カイルの声が、先程よりも厳しいものとなった。そんなカイルの手を押し退け、ファラシアは更に続けようとする、が、そこまでだった。完全に力の抜けた身体は言うことをきかず、クリーゲルの上へと倒れこむ。
遥か遠くで自分を呼ぶカイルの声が聞こえたような気がしたが、応える為に口を開くことさえ至難の業だった。手も、足も、瞼も、まるで鉛のように重い。急速に遠退いて行く意識を留めておくことはできなかった。
「ファラシア、目を開けてよ。ねぇ、ファラシアったら!」
呼び掛けに全く応えないファラシアに焦り、カイルは隣に腰を下ろしたノアを見上げる。
「ノア……どうしよう。かなりまずいみたいだ」
泣きそうな顔で問われ、ノアはファラシアの首筋に手を触れた。肌はヒヤリと冷たく、脈は速く弱い。あまり良くない兆候に、ノアの眉根が微かに寄った。
取り敢えず楽な体位を取らせようとファラシアの身体に手を掛けたノアだったが、ふと何かに気付いたようにその手を止めた。何故止めるのかと、カイルが覗き込む。そして、目を丸くした。
「やあ、初めまして、と言っておこうかな」
場違いなほど陽気な声。それは意識の無くなったファラシアの向こうから届けられた。
「俺はクリーゲル。この子の養い親兼魔道の師匠だ、よ、いしょ、と」
短い掛け声と共に、ファラシアの身体がずり落ちないように支えながら上体を起こしたクリーゲルは、腕の中で硬く目を閉じたまま身動ぎもしない少女を見つめる。
「まったく、無茶しやがる。あれほどの怪我をここまで完璧に治す必要なんぞないってのに」
苦笑しながらも、クリーゲルの眼差しはこの上なく温かかった。片手でファラシアの肩を抱き、残った手をゼンに向けて伸ばす。
「ちょっと、悪いが少し力を分けてやってくれ。俺のだけじゃぁ、足りないからな」
クリーゲルの依頼に、ゼンは神妙に頭を差し出した。彼自身、ルーベリーの火炎攻撃によってかなり消耗していたが、基礎体力がある分だけ、ファラシアよりも余裕がある。
ゼンに翳している手から、ファラシアに回された手へと、クリーゲルの身体を通じて何かが流れていく。
次第にファラシアの頬にはほのかな血の気が戻り、伏せられていた睫毛が震えた。一同が見守る中で、ゆっくりと瞼が持ち上げられる。
「ファー、良かった。気が付いたんだね」
抱き付いてくるカイルを戸惑いがちに受け止めて何度か目を瞬かせたファラシアには、咄嗟には自分の置かれている状況を思い出すことができなかった。
「カイル……? ──! そうよ、師匠は!?」
唐突に覚醒した頭が、意識を失う直前の事態を復元する。首を廻らそうとして、ファラシアは自分の身体を支えている手が誰のものなのかに気付いた。
「師匠……わたし、間に合った……」
震える唇で、ようやくそれだけ言う。堪えきれず、大粒の涙が零れ落ちた。
見慣れた微笑が、ファラシアを見下ろしている。二度とは見られないと思っていたその笑顔に、乾く間もなくファラシアの頬が濡れた。
「師匠……師匠……会いたかった、です……」
苦笑混じりにクリーゲルがファラシアの涙を拭う。
「おいおい、せっかくの再会に泣くんじゃねぇよ」
「ごめんなさい……でも、止まらないんです」
「まったく、こいつは昔から、すぐにべそべそ泣きやがる」
しゃくり上げるファラシアの背中を撫でながら、クリーゲルはカイルとノアに、仕方のない奴だろ、と目顔で言う。対するノアはいつも通りの無表情でクリーゲルに会釈を返し、カイルは時折見せるあの妙に大人びた顔で微笑みながら、何とか涙を止めようと四苦八苦しているファラシアを見つめていた。
「ファーは、僕たちの前じゃ、こんなふうには泣いてくれないんだよなぁ」
少々物足りなさそうに呟いたカイルに、クリーゲルが苦笑で返す。
「妬かないように。俺はこいつの父親みたいなもんだからな」
「うーん、僕も肉親扱いされるのはいやだから、まあ、いいか。あ、挨拶が遅れましたが、僕はカイルっていいます。ファラシアとは末永くお付き合いさせてもらおうかと……」
「ちょっと、カイル! また──」
泡を食って起き上がった拍子に立ち眩みを起こしたファラシアは、皆まで言い終えることができずにへたり込み、再びクリーゲルに抱き起こされる羽目となった。
「ファラシア、完全に治したわけじゃぁないんだから、あまり無理はするなよ。で、そちらの美人は?」
固く目を閉じたファラシアの顔を覗き込んだクリーゲルは呆れたようにそう言うと、ノアへと視線を転じた。彼女はクリーゲルの眼を真っ直ぐに見つめ返して答える。
「私はノア──傭兵だ。訳あってファラシアに同道することになった」
「ノア──? それは本名かい? 貴女にはザルク地方の訛りがあるように思えるが」
軽く首を傾げたクリーゲルの言葉に、ノアは特に気分を害した様子もなく繰り返す。
「クリーゲル殿は耳が良い。しかし、私はノア、それだけだ。名を偽ってもいない」
「へぇ……変わってはいるが、まあ、人其々だしな」
そう言って、クリーゲルは肩を竦めて頷いた。二人だけで分かり合っている会話に全く付いていけず、ファラシアはクリーゲルとノアを交互に見やる。その視線に気付き、ノアが言葉を足した。
「お前の師匠は随分あちらこちらを回ったと見える。『ノア』とは、私が子どもの頃を過ごした地方では『否定』の意味を持つ。そういう言葉を名前に付ける親は珍しい、と彼は言いたいのだろう。──ああ、そうだ。クリーゲル殿はこういう石が採れる地域を知らないか?」
思い出したようにノアが取り出したのは、ファラシアの国では見たことのない、虹色をした美しい宝玉だった。小指の先ほどの小さなものだったが、信じられないほどの輝きを放っている。クリーゲルは片手を伸ばしてそれを取った。横から覗き込んだカイルが感嘆の声を上げる。
「へえ、奇麗だねぇ。僕も結構あちこち行ってみたほうだけど、こんなの見たことないや」
「確かに見事なもんだ。だが、俺も初めて見るな」
「そうか……」
「それは何処で?」
クリーゲルが石を差し出しながら尋ねる。石を受け取ったノアは、再びそれを懐にしまった。素っ気無いその様子は、諦めているというより、たとえどんな答えが返ってきても諦めることができないから、というふうに見えた。
「これは、私の母が持っていた唯一の物らしい」
「らしい、と言うと──」
「ああ、母は死んだ。私を産んだときだと聞いている。だから、私の名前は母の最期を看取った村長が付けたものだ」
「へぇ、それで『ノア』って? 『お前は余所者』って、目一杯主張している名前だよね」
肩を竦めたカイルの感想とノアの胸中とは、あまり大きくは異なっていないようだった。
無遠慮な少年の脇腹を、ファラシアが小突く。時々、妙に『ヒト』というものに対して厳しい見方をするカイルに、ファラシアは今一歩、近付くことができない。
「違うわ、カイル。きっと、そうじゃないと思う」
「違うって、何が?」
きょとんとしたカイルにはチラリと視線を送っただけにして、ファラシアはノアの目を覗き込んだ。うまく言葉を選べるか不安を覚えながらも、ゆっくりと説明する。
「きっと……そう、村長さんは、ノアがその村に縛られることのないように、その名前をつけたのよ。自分を育ててくれたんだっていう義理なんかに雁字搦めにならないように、『お前は誰のものでもないんだよ』って」
自分の言いたいことがちゃんと伝わっているかどうか自信がないまま、ファラシアはノアの腕に手を添えて言葉を尽くす。この達観した女性が今更そんな些細なことを気にしているとは思えなかったが、それでも、カイルが言うような理由から命名されたのだとは思って欲しくなかった。
ファラシアの言葉を反芻しているように、ノアはしばし口を閉ざす。
「そういう取り方もあるかもしれないな」
軽く首を傾げて、その目に薄く新しい発見をした色を浮かべたノアが頷く。完全に同意したというわけではないが、ファラシアの説を頭から否定する気持ちは無いようだった。
「きっと、そうなんだと思うわ」
確信を持たせるように深く頷いたファラシアに、カイルが心底呆れたといわんばかりに溜め息を吐く。
「ファーはやっぱり甘いなぁ。そういうふうに人を信じてばかりいると、いつか泣かされる羽目になるよ」
可愛らしい夢ばかり描いている幼い子供を見るような眼でのカイルの台詞に、クリーゲルは苦笑混じりに同意する。
「こいつは育ちが平和だったからな。もう、刷り込まれちまってる。十や二十の裏切りじゃぁ変わらんだろうよ」
そして、思い出したようにゼンを振り返った。
「ああ、お前。言いそびれてしまったが、約束を守ってくれて有難うな」
「約束って……?」
「ん? ああ、こいつを解放する時に、ちょっとした契約をな」
「それって、どういう──」
再び跳ね起きそうになったファラシアを押さえ付け、クリーゲルはクシャクシャと彼女の髪を掻き混ぜる。
「まぁ、落ち着け。実はな、こいつに言っておいたんだよ。いざという時になったら俺をやれってな」
「そんな無茶なことを!」
「落ち着けって。勿論、死なない程度に、だよ。そうすりゃ、合理的に戦線離脱できるだろう? 死に損ないを連れて歩くわけにはいかないし。まぁ、ちょいとしくじったようで、危うくあちらの世界に足を片方突っ込みかけたがな」
ぐしゃぐしゃと乱暴にゼンの頭を撫でながら、クリーゲルは片目を閉じてそう言った。ファラシアには返す言葉もない。ただただ絶句するのみの養い子の背中を、クリーゲルは笑いながら叩く。
「そういうことだから、こいつのことは責めないでやってくれよ?」
ファラシアにとってはとてつもない大事を、クリーゲルは紙よりも軽いことのように笑い飛ばす。文句はいくらでもある筈だった。しかし、いざ開いた口は凍り付き、思考を言葉に変換することができない。
「師匠は……いつだって、いい加減なんですから……!」
唇を震わせ、ファラシアはようやくそれだけ言う。それが怒りから来るものなのか、それとも驚愕に拠るものなのかは、ファラシア自身も同定しかねるものだった。
俯き身体を硬くしている養い子を、クリーゲルは慈しみを込めた──陽射しに例えるならば、照り付け肌を焦がす真夏のものではなく、身体を芯から温めてくれる穏やかな小春日のような──眼差しで見つめる。
「けどな、現に俺は生きているだろう? お前が頑張ってくれたお陰で」
「もしも間に合わなかったら、どうするつもりだったんですか!」
ファラシアはクリーゲルの胸倉を掴み、額を強く押し付けた。自分がどれほど彼のことを大事に想っているのかを、どうしたら解ってもらえるのかと、もどかしくなる。
悔しさで涙が滲みそうになったファラシアの頭に、誰かの手が触れた。顔を上げた彼女に、カイルの微笑が向けられていた。
「大丈夫だよ。クリーゲルさんはちゃんと解ってる。だけど、ううん、だからこそ、君が辛い目に会うところを見たくなくて、ゼンにあんなことを頼んでいったんだよ、きっと」
そう言って、カイルはクリーゲルへと視線を移す。親子ほども年の離れた二人の男は、互いに共感の笑みを交わした。
「そういうことだ。結局は自分の為なんだよ。お前に泣かされるか、それともお前を泣かすかってのを天秤に掛けて、自分が後味の悪い思いをするよりもお前を泣かす方を取ったわけなんだからな」
ファラシアの頭を両手で挟み、顔を上げさせる。クリーゲルは真っ直ぐに彼女の眼を覗き込んで、一言一言を区切るように、しっかりと言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を選んだ。
「もしも、俺が死んだら、お前は物凄く悲しいだろう? 泣いて、自分を責めて、わたしなんかを拾わなきゃ良かったのに、とか思うことになるだろうよ。それと同じだ。お前が封印されたり、ましてや殺されでもしたら、俺は俺を責める。俺がお前を拾ったばかりにこんなことになっちまったんだ、他の誰かが育ててりゃぁ良かったんだ、てな」
「そんな……っ!」
「そうなんだよ。俺みたいに『協会』絡みではない、そこらのおっさんやおばさんが拾っていれば、お前はごく普通に成長し、旦那を貰い、子どもを産んで、それなりに幸せになれた筈だってな」
「わたしは、わたしを拾って育ててくれたのが師匠で、本当に嬉しいんです。わたしは充分に幸せです」
真剣な目で言い募るファラシアに、クリーゲルが苦笑する。
「解ってるよ、そんなことは。だがな、実際問題として、今のこの状況がある。俺はお前を釣る為の餌扱いだし、あいつらの思ったとおり、さっきの戦いでは、お前は俺が入るのを見て出遅れただろう? それじゃぁ駄目なんだよ。あちらさんも、これからは連れ帰って封印なんて面倒なことは考えずに、手っ取り早く殺っちまおうって気で来るだろうよ。今回はノアとこいつ──ゼンがいたから、何とか凌げたが、次もうまくいくとは限らん。お前がやる気になってくれりゃ、一番いいんだぜ、本当は。一度思い切り叩きのめしてやれば、お前をどうこうしようなんて馬鹿げたことだって解らせてやれる」
どうだ?と言うように、クリーゲルが首を傾げて見せたが、ファラシアは瞼を伏せて彼の視線をかわしてしまった。その反応は当然予想していたものだったので、クリーゲルはそれ以上の追求はしなかった。小さく笑いを漏らすに留まる。
「ま、お前は育て方が良すぎたからな。俺の案を実行するのが嫌だったら、前にも言ったように、とにかく何が何でも逃げ切るんだよ」
「……?」
途切れた声に、ファラシアが目を上げる。見返してきたのは、思いがけず真剣な色を宿したクリーゲルの眼差しだった。
「お前はな、ファラシア、俺みたいにどう足掻いても人間から離れられないのとは違って、独りで歩いていける奴なんだ。独りでも、何処へでも行ける」
育ての親の言っていることの意味が理解できず、ファラシアは顔中に戸惑いを浮かべて彼を見つめる。
「ヒトとの関わりに拘っている限り、お前は本当の自分に気付くことができないよ」
「でも、わたしは人間が好きなんです。仙人か何かのように、山奥で外界との関わりを絶って生きていくことなど、到底できそうもありません。わたしは、誰かが傍に居てくれなければ、生きられない」
「まったく、お前は……」
クリーゲルは苦笑を浮かべて、うなだれているファラシアの頭を抱え込む。
「まあ、しょうがないか。だがな、せめてこの国からは出て行けよ。ノアに頼めばよい方法を教えてくれるだろう。その後は何処かでいい男を見つけるも良し、あるいは……お前の仲間を探しても、良い」
「仲間……?」
「そう、仲間だ」
クリーゲルはやや身を離し、ファラシアの頭を両手で包んで彼女の眼を覗き込む。養い子の中には不安の色が見え隠れしていた。
「なぁ、ファラシア。お前もそろそろ気付いているんだろう?自分は他の人間──いや、魔道士たちとも、違っていると。協会長であるカリエステですら、お前の力の十分の一にも及ばない」
「師匠、でも……」
ファラシアはそれ以上聞くのが恐くて、クリーゲルを遮ろうと言葉を挟もうとしたが、彼は容赦なく続ける。頭をがっちりと捕まえられているので、目を逸らすこともできなかった。
「ファラシア。龍と闘った時、何を感じた? 他の魔物と闘うのとは、何かが違ってはいなかったか?」
「師匠、師匠。止めて下さい──わたしは、人間です。人間なんです」
「おいおい、いい加減に目を覚ませよ。こんなクソ詰まらん目に合わされて、まだ人間に未練があるってのか?」
硬く唇を引き結んだファラシアを、クリーゲルは呆れたように見る。人間であることのしがらみにうんざりしているクリーゲルにとっては、ファラシアが何故ここまで人間というものに拘るのかが理解できなかった。
「まぁ、いいさ。けどな、とにかく、この国からは出て行けよ。そして、人間でいたいなら、力を使わずに生きていくんだ。まぁ、最初にお前をこの業界に引きずり込んだ俺が言えることじゃぁないがな」
「……解りました。でも、じゃぁ、師匠も──」
一緒に。
そう請おうとしたファラシアを、クリーゲルはやんわりと遮った。
「俺は行かないよ。少なくとも、今は」
「どうしてですか、師匠」
ファラシアの縋るような眼差しが、もう離れていたくはないのだと、クリーゲルが追っ手として目の前に立つ姿は二度と見たくはないのだと、訴えかける。しかし、クリーゲルはそれに応じてはくれなかった。
「カリエステの爺さんには、結構世話になったんだよ。取り敢えず、あの爺さんが引退するまではおとなしくしていてやんないとな」
浮世のしがらみに縛られるのが嫌だと思っていても、結局はそれから離れられない自分を嗤いながら、クリーゲルは言う。
「まったくな。『したい』のと『しなくてはならない』のとでは、行って帰ってくるほど違うってもんだ。……そろそろ、無駄話は終わりにするか。お互い、もう充分名残は惜しんだろ」
クリーゲルの言葉に、ファラシアは弾かれたように顔を上げる。今に
も泣き出しそうな彼女の背中に、そっと、小さな手が触れた。
「カイル……」
振り返ったファラシアの視線を、少年は静かに受け止める。カイルはファラシアの肩を抱いて、そっとクリーゲルから引き離した。そんな二人を、養父は微笑みながら見つめる。
「そいつのことを頼んだぜ。いい年して甘ったれだからな」
片目を閉じてそう言ったクリーゲルは、両膝に手を突いて立ち上がった。尻に付いた砂を叩き落し、片手をファラシアに差し伸べる。ファラシアはわずかな逡巡の後、その手を取った。
手を引かれて立ち上がったファラシアは、一瞬ふらついたが、その二本の脚でしっかりと地面を踏みしめる。
「あんまりビービー泣くんじゃねぇぞ。たまには会いに行ってやるからよ」
ファラシアの頬に残る涙の跡を、クリーゲルが服の袖で拭う。そして、両手で彼女の身体を押しやった。
「もう行けよ。俺は見送られるのは嫌いだからな。お前らが見えなくなるまでここにいる」
「師匠……」
両手を硬く握り締め、ファラシアはクリーゲルの方へと踏み出しそうになる一歩を懸命に堪えた。その一歩が出てしまえば、自分はクリーゲルにしがみ付き、決して離れようとはしなくなるだろうことが充分判っていた。
「早く行け。何もこれが永遠の別れになる訳じゃない。いつか何処かで逢えることもある。そうだろう? お互いが生きていればいいのさ」
軽く首を傾げて、なんでもないような口調でそう言ったクリーゲルに、ファラシアは素直に頷きを返すことができなかった。今別れてしまえば、それっきり、二度と会えなくなるような気がしてならない。それは死の予感ではない。だが、何か決定的な別離がこの先に待っている、そんな確信があった。
クリーゲルが、そして他の者も、ファラシアの中で決心が付くのを無言で待つ。
クリーゲルとファラシアが共に過ごした時間は、十四年しかない。家族というにはあまりに短いその年月だが、濃さで言えば四十年にも等しかった。
「師匠──あなたを愛しています。師匠として、何より、父として」
涙を堪えて、微笑んで。
ファラシアのその笑顔を、クリーゲルは内心安堵して見つめる。ここで彼女に涙を流されたら、それ以上ファラシアを突き放すことは到底できそうもなかった。
「俺もだよ、俺の娘。あの時お前を見つけたのが俺で、本当に良かった」
笑って、クリーゲルはファラシアの身体に腕を回す。
「じゃあな」
身体を離したクリーゲルは、今度こそ本当に別れを告げる。
ファラシアも、それ以上の躊躇はなかった。
「さようなら、お父さん」
本物の笑顔で、そう言えた。ファラシアがクリーゲルを父と呼ぶのは、これが最初で最後になるだろう。
くるりと背を向け、大きく深呼吸を一つする。
ファラシアは最大限の努力で最初の一歩を踏み出した。しかし、クリーゲルの顔が見えなくなった途端に、辛うじて押し留めていた涙が堰を切って溢れ出す。
確かめなくとも、他の者たちが付いてきているのは判った。
拳を握っていたファラシアの右手を、そっと小さな温もりが包む。
「カイル……お願いだから、離さないで」
少年のまだ柔らかなその手が、今は何よりも強固なファラシアの決心を繋ぎ止める為の鎖となっていた。彼女の言葉に応えるように、幼い子供のように鼻をすするファラシアの拳を包んだカイルの手に力が篭る。
ファラシアは己の中にある根本的な弱さを充分判っている。しかし、その弱さを持つが故に、例えどんなに強大な力を持っていたとしても、自分が人間であることを信じていられた。
一歩、また一歩。ゆっくりと、だが確実にクリーゲルからは遠ざかっていく。
「僕は君を独りにはしないよ」
ファラシアと並んで真っ直ぐ前を向いたまま歩くカイルが、大人びた声で静かにそう言った。
子供の筈なのに、時々そうとは思えない様を見せるこの少年が、今では自分の中で小さくない存在となっていることをファラシアは否定できない。自分よりも頭一つは小さい少年に縋ろうとしてしまいそうになる。しかし、カイルの言葉が本心からのものであることを解っていても、いつか彼とも離れなければならない日が来ることをファラシアは予感していた。
「……ありがとう」
微かに笑みを浮かべてファラシアはそう返す。たとえカイルの約束が果たされることが無かろうとも、今この時、彼がくれた言葉は嬉しかった。
ファラシアは吹っ切るように顔を振り上げる。駆け抜けた風がひんやりと頬の涙を乾かしていく。
「わたしは、強くなる。何ものにも揺らがない心を手に入れるわ」
ファラシアは誰に聴かせるでもなく、決意を口にした。カイルも、ノアも、ゼンも、敢えてそれに答えることなく、ただ黙ってファラシアの隣を歩く。
返事は無くとも、彼らが自分の言葉をしっかりと聴いていてくれることを疑わずに、ファラシアは独語を続ける。
「確かに、闘う為の力は他の人よりもあるかもしれない。……けれども、自分自身と闘う為にはそんなの関係ない。わたしは……わたしの中にある弱さを克服しなければならない。そうしなければ……」
ファラシアはそこでふっと口を噤む。カイルと繋いだ彼女の手に、意識せぬうちに力がこもった。カイルはその力を受け止める。
「大丈夫。ファーなら、きっと、誰より、何より強くなれる。僕が保証する」
「うん……」
確信に満ちたカイルの言葉が、不思議とファラシアに自信を与える。ゼンも、そっと彼女に身体を摺り寄せた。両側から与えられた温もりに、ファラシアの口元にはうっすらと微笑みすら浮かんでいた。
ファラシアには未来のことなど判らない。だが、今自分の傍に居てくれる仲間たち。彼らがこれからもずっと共にいてくれるなら、きっとどんなことにも負けないでいられるだろう。
そう、信じられた。