11
「どうした?」
ガルディアの門をくぐった直後、身体を強張らせて宙を凝視したファラシアを、ノアが振り返る。ゼンは不機嫌そうな唸り声を上げ、カイルは眉を吊り上げた。
「お客さんのようだよ」
肩を竦めたカイルが視線を送った先に、光の円陣が浮き上がる。
「来た……!」
喉を引き攣らせてそう呟いたファラシアには、今にもそこに現れようとしている追っ手の中に懐かしい人の気配が含まれていることが判っていた。
「ファー、逃げなくていいの?」
あまり緊迫感の無い声でのカイルの問い掛けに、ファラシアは咄嗟に答えを返せない。
逃げなければいけないということは解っていたが、クリーゲルの姿を一目見ておきたいという気持ちを黙らせておくこともできなかった。勿論、いざとなればすぐに転移の術で逃げられるという自信も、少なからずあった。
ファラシアたちの目の前で光の渦は見る見るうちに地面に吸い込まれ、完全に消え失せた時、代わって、そこには人影が五つ佇んでいた。
「あまり手間を掛けさせないでよ」
美人ではあるがけばけばしい装いの女性──クリミアが、小馬鹿にした口調で言う。彼女の後方に、クリーゲルは立っていた。ファラシアには自分に向けられた彼の目に苦笑じみたものが含まれているのが見て取れた。
初めて会う、あるいは擦れ違ったことがある程度の『協会』の元仲間である追っ手たちのうち、二人は精々中級程度だが、残る二人はそこそこの力を感じさせる。
「ファー、一緒に帰ろうか」
「師匠……」
クリーゲルの笑顔は、そこだけがポッカリと過去から持ち込まれたようだった。頷いた先にあるものが永遠の牢獄だと知っていても、ファラシアは危うく首を上下に振りそうになる。
「ファラシア=ファーム。貴女は無許可脱会者として手配されています。速やかに『協会』に出頭してください。なお、他の方々も、ファラシア=ファームに加担すれば重違反者として罰せられます」
上級の一人、穏やかな顔をした水の魔道力を漲らせた男──ディアンが、一歩踏み出して言う。攻撃としてはあまり有用ではない水系であるが、強力な魔道力を持つ者が使えば、強固な結界を築くことができる。ある意味、彼が最も厄介な相手であるかもしれなかった。
「私はこの国に籍を置いていない。この国の法には縛られない。私には雇い主との契約の方が優先する」
五人もの魔道士を前にしてもまるで怯んだ様子も無く言ってのけるノアからは、当然のことながら、魔道力の欠片も感じさせない。『協会』に楯突く凡人の不遜な態度に、クリミアが鼻の頭に皺を寄せる。
「ちょっと、あんた? 今、この場であたしたちに逆らうってことは、この国の全魔道士を敵に回すってことなのよ。そこのところが解って言ってるんでしょうね?」
ディアンとルーベリーの後ろから発せられたクリミアの言葉に、ノアは鼻で嗤うことすら返さなかった──唯一の返事は、『無視』である。
感情を制御できる者を相手にするのは容易なことではない。ディアンは小さく溜め息を漏らした。
「仕方がありませんね。不本意ではありますが、全員、連行させていただきます」
本心から残念そうに、ディアンは言う。
一歩を踏み出した彼らから、ファラシアは怯んだように後退る。
ここまできても戦う意志を見せようとしないファラシアの前に、小型の弓矢を手にしたノアと本来の大きさに戻ったゼンが立った。
「待って、今、転移を……!?」
言いかけて、ファラシアは愕然とする。いつの間にか結界が張られていたのだ。
ファラシアに加え、ゼンという強敵を前にして、真っ当に考えればディアンたちには万に一つも勝ち目は無い筈だということは明白である。にも拘らず余裕に満ちた彼らの態度に、不審を覚えるべきだった。
ディアンが持つ魔道力は、明らかにファラシアよりも数段劣っている。にも拘らず彼女の術が封じられたのは、ディアンが魔力増幅の護符を持っているからに違いなかった。更に、ファラシアの心の根底には、彼らを傷付けたくないという、無意識の抑制がある。
わずかな油断が招いた窮地に、ファラシアは唇を噛んだ。
「ファラシア?」
振り向くことなく問い掛けてくるノアに、ファラシアは指一本動かすことができぬまま答える。
「ごめんなさい、油断、したわ──! 彼の集中を、一度……一度だけでいいから、断って」
「彼、とはどいつのことだ?」
魔道力を察知することのできないノアには、『彼』と言われても、いったい誰が結界を張っているのかなどということはさっぱり判らない。口を開くことにさえ汲々としているファラシアに代わって、カイルがディアンを指差した。
「ほら、あの人。あの、一番お上品そうなのだよ」
カイルに頷き返したノアが弓を番え、ゼンが身体を低くする。ノアの動作は滑らかだったが、ゼンの方にはファラシアに対して張られている結界が影響を及ぼしていると見え、その動きはやや鈍かった。
身構えた二人にルーベリーが反応する。予め待機状態となった彼の炎の魔道は、一気に放たれ、数個の灼熱の塊となってノアとゼンを襲う。
並みの炎などものともしない身体のゼンが、ノアを庇う形で彼女の前に立ちはだかった。だが、一瞬後、その白銀の体躯は朱に染まる。
「ゼン!」
悲鳴のようなファラシアの呼び声に応える余裕も無く、ゼンは苦悶の叫びを上げて転がり回り、燃え盛る炎を消そうと地面に全身を擦り付ける。以前捕らえられた時に施された術の為、水の魔道による結界に対する反応性が高められ、かつては不可能だった彼の魔道力を封じることが可能になっていたのだ。そして、魔道力を封じられた今、ゼンにはファラシアと対峙した時のような炎に対する耐久性は無い。
火を消そうと躍起になっているゼンの隣で、ノアは更なる攻撃を牽制すべく矢を続けざまに放った。だが、次々と射掛けた矢は、いずれも彼らの数歩手前で見えない壁により阻まれる。
「どうやら、直接仕掛けるしかないようだな」
呟き、ノアは弓を腰に差し、代わりに剣を抜く。
「ゼン、行けるか?」
追っ手たちに目を据えたまま問いかけるノアに応え、ゼンはくすぶる身体を持ち上げた。何とか四本の足で立ち上がった彼は、参ったとばかりに頭を振る。完全にはその力を封じ込められていなかった為、赤剥けにはならなかったが、決して軽いとは言えない傷である。
ゼンの毛が焦げる臭いが風に運ばれ、ファラシアの元へ届いた。自らの甘さによって引き起こすことになった仲間たちの苦境に、ファラシアは何もできない我が身のもどかしさに唇をかみ締める。カイルが宥めるようにファラシアの腕を軽く叩いたが、あまり心を休める働きは果たしてくれなかった。
一瞬の溜めの後、ノアが腰に下げた小さな布袋から取り出した何かをディアンたちに投げ付ける。それが破裂し、周囲に目晦ましの煙が充満するや否や、ゼンの身体が宙を舞った。ディアンたち五人の頭上を一息に飛び越え、彼らの背後に降り立つ。
「この、化け猫!」
ギリ、と奥歯を噛み締め、ルーベリーが振り向きざまに炎を放つが、同じ手は喰わんとばかりに、それは敢え無くゼンにかわされた。
「ルーベリー、前!」
イオザードの声に振り返ったルーベリーは、間近に迫ったノアを目前にする。間一髪で振り下ろされた彼女の剣をイオザードの剣が薙ぎ払った。『追跡』の他にこれといった力を持たない彼のような特殊能力者には、いざ戦いという場面になった時に足手纏いとならないように物理的な攻撃ができるように訓練している者も多い。
「ルーベリー、お前はあの化け猫の方を頼む。クリミアは俺の援護を」
流石に文句が言えるような状況ではないことを解っているのか、クリミアは何も言わず弓を手にイオザードの元に走り寄る。
「魔力を封じられたお前なんぞ、ただ馬鹿でかいだけの猫に過ぎないさ」
敵が一体に絞られ多少なりとも余裕の出てきたルーベリーが嘯いた。そして、そのまま、続けざまに火炎の弾を打ち出す。触れれば一瞬にして燃え上がる炎の塊を左右に跳んでかわしながら、ゼンはなかなか近付けないことに苛立ちを覚え、低い唸り声を上げた。
一方、ノアも、隙在らば背後にいる身動きの取れないファラシアに手を伸ばそうとする、そこらの兵士よりはよほど腕の立つ二人に息を吐く暇も無く攻め立てられ、事態を改善する為の一歩を踏み出すことがなかなかできずにいた。今も、ファラシアに向けてクリミアが放った二本の矢を短剣で叩き落し、返す手でイオザードの剣を受け止めた。
事が長引けば、身体を使って戦うことを生業としているノアと元来野生動物であるゼンの二者に軍配が上がることは当然判りきったことだ。ディアンの魔力も無尽蔵ではない。時間を掛ければ必ず勝機は見えてくる、そうノアの頭は判断していたが、それとは裏腹に、長年の戦士としての勘はなるべく早くけりを着けろと、終始警告を発していた。その根拠は何なのか、それははっきりとしない。ただ漠然とした焦燥感のようなものがノアの項の毛を逆立てる。
ファラシアの要望を受け入れ、極力『協会』の面々に致命的な傷を負わせないように剣を繰り出していたノアだったが、あまり悠長なことを言ってはいられないと判断を下した。目の前の敵の腕の一本も切り落としてでも戦力を削がなければ、ディアンの元へ辿り着くこともままならないと見て取り、気合を入れ直す。一度牽制を放ったノアは剣を腰に戻し、両腕を一振りして籠手に仕込んだ刃を飛び出させた。彼女が最も得意とするその武器は、標的への接近を必要とするが、より正確且つ強力な攻撃が可能となる。
地面を蹴って一気にイオザードとの距離を詰めたノアは、左方からの攻撃で虚を突き、そのまま同じ流れで右腕の刃で彼の左足を狙った。
半ばよろめきながらイオザードは咄嗟に飛び退くも、完全にはかわしきれず、長衣の裾と少しばかりの腿の肉を引き裂かれる。その感触はノアの腕にも伝わったが、それが戦意を奪うには不十分なことも同時に判った。
両者共に不満な状況で舌打ちを漏らしたのはイオザードの方である。痛みは堪えることができるが、失血による脱力は己で制御できるものではない。べったりと濡れそぼり足に纏わり付く長衣から、イオザードは出血の両を推し量る。状況は彼にとって芳しいものではなかった。
間、髪を入れずにイオザードへ迫るノアを、クリミアの矢が牽制する。しかし、ノアは事も無くそれらを籠手で受け止め、代わりに、そちらに向き直ることなく小刀を投げ付けた。
自分の放った矢がそのまま反射されたかのようなその返しに、クリミアは思わず手にした弓を翳すことで身を護ろうとしてしまう。幸運なことに盾としてはいささか心もとないそれは望んだ役目を果たしてくれたが、望ましくなかったのはその当たり所であった。聴覚、次いで手の甲に走った痛覚への刺激で予測できた事態は、開いた目に入ってきたことで確認される。
「切れちゃった……」
クリミアはだらりと垂れ下がった弦を指で摘まんで半ば呆然と呟いたが、即座に立ち直り、速やかに戦線復帰すべく新しい弦を取り出した。
わずかなノアの動きでやや彼女らに傾いた均衡は、その直後、クリーゲルの予期せぬ行動によって更に大きく崩されることとなった。
「クリーゲル、いったい何を……!」
上擦ったルーベリーの声には、戸惑いと驚愕が半々に含まれている。そして、それと同じ感情は、その状況をしっかりと目に捉えていたファラシアの中をも満たしていた。
ルーベリーとゼンを結ぶ直線上の丁度真ん中に、剣を手に立ちはだかったクリーゲル。しかし、その構えはいかにも素人臭く、俊敏なゼンの動きに追い付くことができないことは一目瞭然だった。
「どけ、クリーゲル! そこに立たれちゃ、炎が撃てねぇ!」
待機中の炎を両手の間に留めたままのルーベリーの怒声を背中で聞き流すクリーゲルの表情を見ることができたのは、唯一彼の前に立つゼンだけである。金色の目を輝かせている化け猫が目の前の闖入者をどのように思っているのかを察するのは、困難だった。
「ゼン、お願い、師匠を傷付けないで……!」
攻撃態勢を崩さぬまま、より一層長い尾を高く上げるゼンに、ファラシアが殆ど悲鳴のような声で訴える。それによってやや怯んだかのようにゼンが一歩後退ったが、それを追いかけるようにクリーゲルが数歩を踏み出した。
ゼンであればほんの人とびで到達してしまうであろう程度まで縮まった、彼とクリーゲルとの距離。
「クリーゲル、退けと言っているだろう!?」
「師匠……師匠! 止めてください──下がっていてください!」
異なる二つの口から発せられたその声量は、双方とも充分な筈である。しかし、同僚の叱責も養い子の泣き声も、クリーゲルを退かせることはできなかった。
業を煮やしたルーベリーが、苛立たしげに舌打ちをする。その心境を映したように、彼の手の中で炎の塊が火花を散らした。これ以上それを手の中に留めておくことはできない。
意を決したルーベリーが、一か八かでクリーゲルの前へ出ようと走り出す。下手をすればゼンの攻撃を喰らうことになるが、何もしないままでは事態を好転させることもできない。
ルーベリーがクリーゲルとの距離を半分まで詰めた、その時だった。
それまで躊躇うように足踏みしていたゼンの、突然の跳躍。
放たれたルーベリーの炎。
紅蓮に包まれたゼンの身体と──そして、そのゼンの爪に袈裟懸けにされた、クリーゲル。
それらを大きく見開いた目でつぶさに見ていたファラシアの喉から迸った悲鳴は、肉声だけではなかった。
五感を閉ざして結界の術にのみ全身全霊を尽くしていたディアンの心に、ファラシアの恐怖が突き刺さる。あまりに強烈なその波動に、ディアンの集中が断たれた。強制的に解かれた結界が発した鋭い破裂音が、魔力を持つ者にだけ届く。
「しまった……!」
思わず呟き目を見開いたディアンに見えたものは、転移の術の余韻による魔道風が巻き上げる砂塵と、それから身を守るように身体を折っているルーベリー、イオザード、クリミアの三人の姿だけであった。