9
「……ひと、だぁ……」
外の様々な脅威からガルディアという巨大な都市を守る為にグルリと張り巡らされた壁は、人の背丈の五倍ほどもある。都市の中と外とを交通する唯一の門をくぐったファラシアだったが、あまりに呆気なく中へ入れたことに緊張がやや抜ける。
「おい……」
久方振りの溢れんばかりの人込みに目を見張っているファラシアに、流石に渋い顔でノアが声を掛けた。普通の猫程度の大きさになったゼンも、ファラシアの腕の中から彼女の顔を見上げて眼を瞬かせている。
「あ、ごめんなさい。何だか嬉しくって……」
笑って小さく舌を出したファラシアだったが、その目はやはり周囲のざわめきに向けられたままだった。
目を輝かせているファラシアに、ノアは小さく首を振って、それ以上何か言うことは諦める。
「取り敢えず、宿を探そう」
溜め息混じりにそう言ったノアは、周囲を見回した。ガルディアほど大きな都市になると、宿屋を探すのもそう大変なことではない。高級低級どちらでも選び放題である。
目当ての場所があるかのように迷わず人込みを擦り抜けていくノアに遅れまいと、ファラシアは懸命に彼女の背中を追う。
ファラシアも『協会』の仕事であちらこちらに出向いたものだが、そういった折の宿は『協会』が用意しておいたところを使用していたので、彼女自身が探す必要は無かった。ゆっくりと歩いたことのあるのはサウラの村の中ぐらい、魔物退治で行った先では仕事が終わればさっさと引き上げるのが常であった彼女には、所狭しと並んでいる看板を見分けるのすら至難の業である。
「……ねえ、ノア……」
ノアの進むがままであったファラシアは、いつしか自分たちがあまり品の良くない小道に入り込んでいたことに気付いた。
まだ日も高いというのに、何やら化粧の濃い薄着の女性が、あちらこちらで男性に秋波を送っている。
最終的にノアが足を止めたのは、軒を並べているいかがわしげな宿屋の一つであった。ファラシアが見ている前で、通りで拾った女性の肩を抱いた男がその中へ消えていく。
「ノア、もしかしてここって……」
恐る恐るそう声を掛けるファラシアには介さず、ノアは扉を押し開けて中に入っていってしまう。残されたファラシアは、腕に抱いているゼンとちょっと見詰め合った後、意を決してノアの後を追った。
中には小さな窓の一つ付いた受付があるだけである。ノアがそこに金を置くと、窓から伸びてきた手がそれを中へと引き込んだ。振り返ったファラシアに付いてくるようにと促す。
部屋数はそれほど多くはない。
階段を上がって一番奥が、ファラシアたちの部屋のようだった。
中に入ったファラシアは、そのあまりの素っ気無さに唖然とする。部屋にはやや幅広の寝台が一つあるだけだった。唯一の家具であるそれがどんな用途を持っているかは、いかに色事に疎いファラシアであっても察しが付くというものである。
扉を閉めたきり部屋の入り口で立ち竦んだままのファラシアを、荷物を下ろしたノアが振り返る。
「どうした、荷物を下ろさないのか?」
「あ……はい」
言われて我に返ったファラシアが抱いていたゼンと、肩に担いでいたあまり多くはない荷物とを下ろす。
身軽く寝台の上に飛び降りたゼンが、ほっとしたように、頭、そして身体を、思い切り震わせた。
「ノア……って、こういうところによく泊まるの……?」
その問いに返るものが肯定ではないだろうと予測はしていても、ほんのわずかに心をよぎる、もしかして、という気持ちを否定はできないファラシアである。
恐る恐るといった風情のファラシアに、ノアは相も変らぬ様子で首を振る。
「いや、たまに、だ」
「って、いうと……」
想像が想像を呼び、内心では汗を噴出させているファラシアには、それ以上深く追求することはできなかった。確かにかなりの美人ではあるが、目の前に立っているこの女性が男性と同衾している図は、なかなか思い描き難い。
ノアとしては、こんな風な場所を選んだのは、ただ単に顔を見られずにすむような宿であるからだけだったのだが、こういった場所に足を踏み入れたのは生まれて初めてのファラシアにしてみれば、その理由がそんな単純なものであるとは思いも寄らなかった。
「ファラシア?」
複雑な顔をしているファラシアに、ノアが怪訝な顔を向ける。
「あ、ううん、何でもない!」
それ以上続けたら頭の中身が全て耳から飛び出してしまうのではないかという勢いで首を振るファラシアを、ノアはなにやら呆れたような目つきで眺めていたが、そうそう付き合っている暇はないとばかりに上着を取ると、戸口に向かった。
「私は旅支度を整えてくる。明日の朝までにこの部屋に戻ればいいから、お前も街を軽く見てくるといい。くどいようではあるが、力さえ使わなければ大丈夫だからな」
「あ……はい」
心なし赤らんだ頬を両手で包んで首をこっくりと上下させたファラシアに軽く頷くと、ノアは部屋を後にする。
残されたファラシアは、寝台の上で毛繕いしているゼンと視線を合わせるように跪くと、頬の火照りが引かぬまま、彼にお伺いを立てた。
「どうしよっか、ゼン。確かにこの部屋に閉じ篭っていても仕方がないし……」
ゼンが返したのは、瞬き一つ。
「そうだね。きっと、もう、ガルディアにくることもないだろうし、ノアの言うとおり、力を使いさえしなければ大丈夫だよね」
今度は短い泣き声を一つあげる。
「よし、行こっか!」
ゼンの後押しを受けて、ファラシアは膝に手を突いて勢い良く立ち上がった。そのままゼンを抱き上げ、袋から財布を取り出して懐に移す。
「忘れ物は無いよね」
ぐるりと部屋を見回したところで、忘れるほどの物がある筈が無い。
肩を竦めてノアが置いていった部屋の鍵を取り、ファラシアは部屋を出た。
ノアが言ったとおり、夕餉の支度に賑わう通りでは、時々で店を覗き込みながら歩くファラシアを見咎める者はいない。人々は自分たちの生活に忙しく、いかにも旅行者然とした少女に気を留める暇などないようだった。
「凄い。サウラとは大違いだわ……」
人にぶつからずしては歩けない人込みに思わず呟いたファラシアだったが、決してそれが嫌いなわけではない。
都に渦巻いていた気はどこか粘つくものを含んでいて息苦しさがあったが、ここ、ガルディアの気はもっとカラリとしている。活気に溢れるその空気は触れるだけで活力を分けてくれるような気がして、積極的に身を任せていたいとすら思える。
ただひたすら歩いていたファラシアの肩の上で、唐突にゼンが鋭い声を上げた。
「何?」
ビクリと振り返ったファラシアに、声が掛けられる。
「お姉さん、いいもん飼ってるね」
キョロキョロと見回したファラシアだったが、なかなか発信源を見つけることができない。
ゼンがじれったそうにファラシアの髪を咥えて引っ張った。
「そう、こっち。その猫賢いね。もうちょっと視線を下げてよ」
声のとおりに目を動かすファラシアの視界に入ってきたのは、人の流れから外れたところに立つ、年の頃十かそこらの少年だった。
「ええっと……?」
全く覚えの無い相手である。
首を傾げるファラシアに、少年は人を喰ったような笑顔を向けた。
「通りの真ん中にいると、通行の邪魔だよ」
言われて、人々が迷惑げに自分を避けて行っていることに気が付き、ファラシアは少年の傍に行く。
「どこかで会ったことがあるかな……?」
ニコニコと笑いかけている少年に、正直、ファラシアは戸惑いを隠せない。
「いや、初対面だけど。僕はカイル。お姉さんは?」
屈託無くそう言われて答えないわけには行かなかった。訳の判らないまま、ファラシアは名乗る。
「ファラシア=ファーム」
少年──カイルは、ファラシアの返事に、ふと怪訝な顔で首を傾げた。
「……? あれ? お姉さん、自覚なし?」
「何のこと?」
「ああ、いや……こういうのは、自分で気付いたほうがいいからなぁ」
何やら、以前も言われた記憶がある言葉である。
「そんなにわたしって人間離れしているかな……」
憮然としたファラシアの呟きは気に留めず、カイルが手を伸ばす。
「ねえ、腹減ってない? 何か食べようよ」
返事をする間もなく手を取られ、ファラシアはそのままずるずると引き摺られるようにしてカイルに連れられていく。ゼンが咎めるように見つめているのは判っていたが、あれよあれよという間にことが進んでしまうので、ファラシアには対処しきれないのである。
「ファラシア……か、ファーって呼んでいいかな、いいよね?」
有無を言わさぬ勢いで、にっこり笑って少年はそう断言する。久しく聞いていなかったその呼び方に、ファラシアは、ふと離れてしまったサウラの事を思い出す。ふんわりと温かい、その記憶──呼び方一つで、ファラシアは抵抗しようとする気持ちを封じられてしまう。
連れて行かれたのは、さほど大きくはない大衆食堂だった。
「さあ、座って座って」
言われるがままに腰を下ろし、言われるがままに料理を注文する。
「あの、ね、わたしには何が何だか解らないんだけど……」
ようやく口を開く余裕ができたファラシアがそう切り出したのは、食後のお茶が届いた頃のことである。
「解らないって、何が?」
「だから、何で君がわたしに声を掛けてきたのか、とか……」
「そんなの、ファーを気に入ったからに決まっているじゃないか」
「気に入ったって、見ただけで?」
「そう、一目惚れっていうのかなぁ」
茶を啜りながらの惚けように、ファラシアは思わずこめかみを押さえる。
「ふざけていないで……」
「ふざけてなんかいないよ、本気だよ」
とてもそうとは思えない口調と表情で言うカイルは、サウラという田舎の純朴な人々とぐらいしか会話らしい会話をしたことの無いファラシアには扱いかねる存在だった。
「そんなに渋い顔をしてないで、お茶でも飲んだら?落ち着くよ」
「……」
溜め息を吐きつつ茶を口元に運んだのは、何もカイルに言われたからではない。
「ファーは何でガルディアに来たの?」
「何でって、言われても……観光、よ」
「へえ、観光、ね。じゃあ、そのうちガルディアを出て行くんだ」
「ええ、多分明日には」
「多分?決まってないの?」
カイルに怪訝な顔をされ、ファラシアは言い繕った。
「あ、わたしには連れがいるのよ。その人が色々予定を決めているから……」
「連れ? 男の人?」
「違うわ、女の人」
「ふうん、良かった」
「……何が?」
「いや、虫付きかと思って」
子どもが何を言うかと、がっくりとファラシアの肩が落ちる。そんな彼女の心の内を見透かしたように、カイルが笑顔を作る。
「今、子どものくせにって、思っただろ」
「え……」
言い当てられ、咄嗟に返すことができなかった。
「言っておくけど、多分、ファーよりも僕の方が長く生きているよ。ファーは二十年も生きてないだろ?」
「また、大人をからかって!」
「別に、からかっているわけじゃないんだけどな」
困ったように頬を掻くカイルは、どう見ても、その外見年齢以上とも以下とも思えなかった。子どもの悪ふざけなど軽くあしらってしまえばいいのだろうが、それができるようならそもそも苦労は無い。
マセ餓鬼の相手にほとほと疲れ果てたファラシアだったから、カイルの言っていることが耳に届くまで、しばしの時間を必要とした。
「え? 今、何て?」
「だから、ガルディアを出て行く時に僕も連れて行って欲しいって」
「また、そんな……」
「冗談じゃないって。本気で言っているんだよ」
「お父さんやお母さんは? 心配するでしょう?」
「『親』なんていないって。ファーと同じで」
さらりと言われた台詞をファラシアは危うく聞き流しそうになる。
「そう……って、わたしと同じ?わたし、そんなこと言ってないわよね?」
「あれ、そうだっけ?まあ、でも、どうでもいいじゃない、そんなこと。それより返事は? あ、言っとくけど、駄目って言っても付いて行っちゃうよ、僕は」
端から選択権が無いと判っていて、どう答えればいいというのか。思わず食卓に突っ伏したファラシアを、カイルが愉快そうに、そして、ゼンが心配そうに、見る。
「わたしの、何処がそんなに気に入ったっていうの?」
顔を伏せたまま尋ねたファラシアには、その時カイルがどんな表情をしたのかを見ることはできなかった──それが浮かんだのは、ほんの一瞬であったから。
「……全部、だよ。人を好きになるのに、時間なんて必要じゃないんだ」
その声の響きに、ファラシアの鼓動がどきりと一つ大きく打つ。変声期もまだ迎えていない高い声に含まれていたものは、何故か、愚図っているファラシアを宥める時のクリーゲルの苦笑を思い出させた。
「……マセガキ」
今度は火照った頬を隠す為に、顔を両腕の中に埋める。こんな子供にどぎまぎしてしまう自分をどうしたらいいのか解らなかった。
まだ男らしさの欠片も無い手が、まるで幼い子供にするように、ファラシアの髪を撫でる。
子供のくせに、と呟きながらも、ファラシアはその手を疎ましいとは思えなかった。
*
「で、その子供が付いてくることになった、と?」
そう言ったノアの口調はいつもと変わらぬもののように聞こえたが、それが本心を反映しているものなのかどうかは、さほど長い付き合いをしているわけではないファラシアが推察することは難しかった。
「何だか、こう、いつの間にか押し切られちゃって……」
溜め息を吐かれなかっただけ、良かったかもしれない。もしそうされていたら、この上なく居た堪れない気分になったであろうから。
ひたすら小さくなっているファラシアにそれ以上言い募っても無駄だと諦め、ノアはカイルへと向き直った。
「少年──」
「カイルだよ」
「──カイル。我々が追われる身だということはファラシアから聞いているだろう。それでも同行するというのか?相手はかなり面倒な奴らだが?」
「『協会』だろ?そんなのに追われているんじゃぁ、尚更心配で離れてなんかいられないよ」
冗談のような台詞を吐きながらも、カイルの真剣さが本物であることを確かめるかのようなノアの視線を、少年は臆することなく受け止める。
全ての原因であるファラシアは、その間に入り込むこともできず、所在無く寝台に腰掛けてゼンを抱き上げた。山猫は居心地良さそうにファラシアの膝の上で丸くなると、その場の空気などまるで気に留める様子もなく大きな欠伸を一つして目を閉じる。
ノアとカイル、互いに目を逸らさず、短いが息詰まる無言の時が流れた。
そろそろ何か口を挟んだほうがいいのだろうかとファラシアが思い始めた時、不意に、ノアの眼差しから射竦める光が消えた。
「まぁ、いいだろう。お前の好きなようにすればいい。ただし、先に言っておくが、私はお前の面倒までは見ない。状況が悪くなれば、ファラシアの身の安全を優先する」
「構わないよ、全然」
すっきりとした笑顔で答えるカイルと、思わず膝の上のゼンを忘れて立ち上がってしまったファラシアの表情とは対照的だった。ノアが説得してくれることを期待していたのに、当てが外れてしまったファラシアは、気持ちよく寝ていたところを床に落とされたゼンの抗議の声で我に返る。
「ノア……」
「こいつは自分の行動の責任が取れないほどの子供ではない。私たちに付いてくることでどんな目に会ったとしても、それはカイル自身が選択した結果だ」
「そんなこと言って!『彼ら』の方針次第では、命が危なくなるかもしれないのよ!?」
素っ気無いノアの物言いに思わず声を荒げたファラシアを、のんびりとしたカイルの声が引き戻した。
「ファーだったら、『協会』の奴らなんて一捻りじゃないの?」
一瞬息を呑み、ゆっくりとカイルに向き直る。
「カイル……何で……」
殆ど恐る恐るというふうにそう訊ねたファラシアに、カイルはけろりと答えた。
「そりゃあ、ね。どうせ、力が強すぎて追われる羽目になったんだろ? まったく、人間ってのは心が狭いからなぁ。自分より優れているものの足を引っ張るのが大好きときているんだから」
その時浮かんでいたのは、嘲笑とも呼べる表情。
ノアから出たのであれば何の違和感も湧かないであろうその言葉も、年端もいかない少年の口から出たとなると、年長者の立場として、溜め息を漏らしてしまったとしても仕方のないことであったろう。だが、結局ファラシアの口からそれが零れなかったのは、カイルの目を見てしまったからだ。
幼い顔付きの中で唯一つ年経ている、その眼差し。それだけが、ファラシアに溜め息を吐かせることも、笑い飛ばさせることも、できなくさせていた。
二の句を継ぎかねているファラシアには構わずに、カイルは続ける。
「どうせくだらない奴らばっかりなんだろ?さっさとやっちゃえばいいじゃないか」
「そんな、簡単なことじゃないのよ」
「そうかな。ファーの力なら大抵の人間なら敵じゃないだろ」
「そういう意味じゃなくて……」
「何?感情的に、できないって?」
揶揄するようなカイルの目に怯みながらも、ファラシアは慣れない国の言葉で説明するかのようなぎこちなさで、言い募った。
「わたしは──できることなら彼らと争いたくはないの」
「何でさ?」
「何故って……争う理由が無いからよ。戦うにはそれなりの理由というものが必要でしょう?」
「理由?あいつらを憎んでないの? 恨んでないの? 散々こき使った挙句、手に余ると思ったら殺しちゃおうって言うんだろ?」
肩を竦めて呆れたように言うカイル。
「恨むとか、憎むとか……そんなことは思っていないわ。わたしは……」
「へえ、ホントに? ……まあ、そうかもね。ファーは強いから」
「わたしは、強くない。強くなんて、ない」
顔を伏せ、喉の奥で呟いたファラシアに、カイルは容赦なく続ける。
「そうかな。ファーのは強者の理論ってやつだよ。自分が強いってことを知っているからこそ、誰とも戦いたくないなんて、甘いことが言えるんじゃないのかな。あんなやつら、自分の敵じゃない、いつでもあしらえるからっていう気持ちがあるから、そんな余裕をかませるんだ」
「わたし……わたしは……」
更に言葉を継ごうとしたカイルに、その時、待ったが掛けられた。
無邪気な子どもの笑顔のままでファラシアを追い詰めていく少年を止めたのは、ノアである。
「それぐらいにしておけ、カイル」
穏やかではあるがきっぱりしたノアの声で我に返ったように、カイルは瞬きを二、三度繰り返した。静かに制す彼女の視線が、カイルの頭を急速に冷却する。
「ああ、ノア……ありがとう」
彼自身がほっとしたようにノアへ向けてそう言い、ファラシアを見る。見開かれた彼女の眼に出会って、カイルはやや気まずそうに視線を逸らせた。
「ごめん、ファー。ちょっと言い過ぎちゃったな」
「カイル……」
本心からのものらしいカイルの詫びに、それまでの彼の言葉にすっかり圧倒されていたファラシアは、どう応えるべきか、咄嗟には思い浮かばなかった。
「ねえ、ファー、怒っちゃった?」
おずおずとそう訊いて来るカイルは年相応に見える。そこからは先ほどの冷ややかな眼差しなど感じさせなかった。
「ファー?」
躊躇うファラシアに、カイルはいよいよ不安そうな目を向ける。それが意図して作ったものであるとは思えなかった。
「ああ、いいえ、カイル。怒ってなんかないわ」
「ホントに?」
「ええ、本当に」
怒ってはいないが、怖かった。しかし、微笑すら浮かべて、ファラシアはそう答えた。それを受けて、ほっとしたようにカイルは笑みを返す。
「良かった。一緒に行っちゃいけないって言われるかと思った」
「ちょっと待って、それとこれとは別の話よ」
慌てて首を振るファラシアに、カイルが悲しそうな顔をする。
「やっぱり、怒ってるんだ……」
「そういう訳じゃ──」
「じゃぁ、行っていいんだね」
パッと顔を輝かせるカイル。ファラシアは明らかに演技だと判っていてもほだされてしまう自分が情けなかった。
「お前の分が悪そうだ、ファラシア。諦めろ」
「ノア……」
ファラシアはがっくりと肩を落とし、寝台に腰を下ろす。その振動で目を覚ましたゼンが、話は終わったのかと言わんばかりに大きな欠伸を一つ漏らした。
取り敢えずファラシアに賛同してくれるものがこの場にいないことは確かのようである。
かくして、二人と一匹だった一行は、更に一名増えることとなった。