PACE1→I cannot keep pace with him...
序章
もう駄目だ…。僕の短い生は今、幕を閉じようとしていた。
何度叫んでも、怒鳴っても師匠は寝てるし、起こせと言われた時間はとっくに過ぎてる。
半分はもちろん寝ている師匠のせいたけど、理不尽なあのヒトのことだ、無表情で淡々と、俺は悪くない。なんて言うに決まっている。
「師匠ぉ〜。」
只今、14:30。
へなへなと我が師匠が寝ているドアの前にうずくまって、ため息をついた。
間違いは、昨晩帰ってきた師匠のご機嫌とりをおざなりにしたこと。
師匠の機嫌は最悪で、僕に上着を押しつけるとこう言った。
「いいか、俺は今から寝る。部屋に入ったら、起こしたら殺す。12時に起こさなくても、殺す。いいな、わかったか。」
もちろんわからないって言った。
だけど師匠は聞く耳をもたず、さっさと自室のドアをしめてくれた。
…知ってるんだ。
師匠は世界最強に寝汚くて、一回眠ったら天地がひっくり返って、原子爆弾が投下されたって起きやしない。
なのに理不尽だから、起きられなかったのは皆僕の所為になる。本当に僕は運が悪い。
あぁ、もうこうなったら最終手段だ。僕は覚悟を決めてドアノブを思いっきり引いた。
「師匠っ! 二時ですよ!」
ひゅん、と言う音。
「へ?」
頬に痛みが走る。そっと押さえると血が滴っていた。
壁とドアに縫い付けられている、医療用のはさみ。
……危険極まりない。
ベッドの横からそれを投げたらしい左手が、だらんと垂れ下がっていた。
「師匠っ!二時ですって…うひゃぁ?!」
さらに二本追加〜。今日は二倍サービスだょぅ〜。
黒髪が壁に縫い付けられ、びぃ〜ん…という余韻が響いていた。なんでこんなに機嫌が悪いんだろう…。
地を這うような低い声が、僕の鼓膜をたたいた。
「…起こすなと、言っただろうが……。」
「でも12時に起こすように言われましたから。そろそろ起きてくださいよ。」
「俺に、指図、するな。」
「指図じゃありません!お願いです!」
「…、いや、待て…。今何時だと言った?」
半分寝ている師匠の声、僕は、しっかりきっぱり言い放った。
「二時です!」
「!」
白い掛け布団が跳ね上がって、昨日のままの黒いワイシャツを着た師匠が起き上がった。
長い長いため息と、寝起きのハスキーな声。
「俺は12時に起こせと確かに伝えたはずだが?お前の耳はなんだ、飾りか?あ〜…ひろ…えーと。なんだったか、名前。」
「僕の名前はヒロ!弥です!」
いったい、いつになれば覚えるのだろう。
僕の名前を一向に覚えない馬鹿師匠は、反射する髪をかきあげてベッドから降りた。
輝くプラチナブロンドと、切れそうな金属色の瞳。
ひどく眠そうにあくびをすると、時計をみた、それから肩をすくめる。
「少なくとももう一つの約束には間に合うな。…弥、来客は全て追い返せ。文句は聞かん。俺は風呂に入る。」
「ちょ、師匠?!」
ワイシャツの釦をあけた師匠が振り向く。金属色の瞳はまだ半分眠っていた。
「…なんだ。」
「お風呂の中で寝ないで下さいね。また風邪ひきますよ?今度こそ、溺れます。」
「まさか。俺がそんな間抜けだと思うか。」
とっても思います!師匠は前科があるし、クールな顔して間抜けですから。恐いから口にはださないけど。
「亡くなったヒトもいますよ?」
「…。」
「溺れたのがお風呂。なんてわかってると思いますけど間抜けですよ?」
「…。」
「…師匠?」
返答がない。
壁に背をあずけた師匠は、ほとんど目を閉じていた…。本当に大丈夫なんだろうか。
このままだと本気で風呂場にて水死。なんてのがありえそうだ…。恐い恐い。
「し〜しょ〜ぉ〜。」
「…ねむ…。あ〜…。とりあえず、なにするんだったか…。そうだ、風呂。で、何か言ったか?」
「…溺れないでくださいね!」
肩をすくめた師匠がバスルームに消えていく。
やがて聞こえたシャワー音に安心した。寝ているわけではないみたいだ。
「さて、と。」
僕は壁のはさみと戦うことに決めて、ため息をついた。
願わくば師匠がはさみを投げたことを覚えていますように。
師匠は基本的に長風呂。つまらないので、鋏相手に師匠の説明をはじめた。 師匠は悪魔の中でも高位についている人で、名を鈴欠と言う。
立派な男の人なんだけど、その可愛らしい名前と女みたいな容姿のせいでシズカちゃんって呼ばれているのを二三度目撃している。
地球アニメのヒロインらしいけど、性格は主人公をいじめるガキ大将に似ているとか、似ていないとか。
背は…中の上くらい。綺麗な容姿に反して、性格は破天荒、行動は支離滅裂。物忘れと聞き逃しの達人で、どうも自分に都合のいいような解釈しかしないらしいので、本当に困る。
きっとゴーイングマイウェイって師匠のために存在している言葉なんだ。
シャワーの音がとまった。やけに早いな…。やっと一本抜けたところなのに…。
間もなく髪から水をしたたらせた師匠がでてきた。
羽織っただけのグレーのワイシャツの下、痣みたいなものが見え隠れする。
「早かったですね…。」
「ん。まぁな。」
「…どうかしました?」
「ぁ?何がだ。別に何もありはしない。」
「本当に?」
「…。」
師匠は頬を引きつらせたまま答えなかった。
そういえば、師匠は虫に弱い。
そのために家はいつでも綺麗だ。
それはいいとして、どうせお風呂場に蜘蛛でもいたんだろう…。なんと言うか情けない。
「なにが恐いんですか?大丈夫ですよ、向こうの方がよっぽど恐がってますから。」
「だから、俺は恐いわけではない!気持ち悪いだろ。あの足とか、ある意味ないだろうが!」
「ある意味があるから今まであの形で生きてるんですよ。」
「知るか。俺はあんなモノ一生認めん。」
「残念ながらいるモノはいますよ。師匠より歴史長いでしょうし。」
「まさか! こっちは500年近く生きてるんだ。馬鹿にするな。」
「物体としての歴史ですから。…あれ、また出掛けるんですか?」
ぱちん、と指を鳴らした師匠がかぶりを振ると濡れていた髪が乾いた。
紺色のネクタイをしめながら、彼はさらりと言い放つ。
「仕事だ。」
「!つれていってください。」
「願い下げだ。何の役にも立たないからな。留守番でもしてろ。」
「そんなぁ。僕、いつまでたっても成長できないじゃないですか!」
「あぁ、俺は困らない。まぁいい子にしていろ。」
どこからかダークグレーのスーツを取り出した師匠が颯爽と歩き去る。
玄関で振りかえると、何かを呟いて壁を叩いた。
高い音につづいて落ちる鋏。壁の穴も塞がって跡形もない。不敵な笑み。
「行ってくる。」
本当に機嫌がいいんだか、悪いんだか。
閉まったドアにむかってため息。
神様、僕はちゃんとした悪魔になれるでしょうか…。