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无音の烙印を押された没落貴族~前世の作家スキルで才能を開花させたら、冷酷な近衛隊長に溺愛されました~  作者: 月夜 闇花


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エピローグ「二度目の楽章」

 長い冬が完全に息を引き取り、フォンテーヌ領に鮮やかな春が到来していた。

 かつて雪と泥に覆われていた大地には青草が芽吹き、暖かな風が枯れ木に花を咲かせている。

 領地の中心に新たに建造された石と木材の混合建築群。

 それが、エリオが王宮の勅許を得て設立した調べ開花学院だった。

 新しく塗られた真っ白な漆喰と、切り出されたばかりのオーク材の清々しい匂いが、春の風に乗って敷地内に満ちている。

 中庭に点在する大きな樫の木の枝には、魔力を帯びた風鈴のような音具がいくつも吊るされていた。

 微風が通り抜けるたびに、それらがかすかに触れ合い、水晶を転がすような透明な音が空間を満たしている。

 アカデミーには、かつて調律院によって才能を見捨てられた若者たちが王国中から集まり、段階的な覚醒プログラムのもとで自身の音色と向き合っていた。


 エリオは執務室の窓を開け放ち、心地よい風を胸いっぱいに吸い込んだ。

 窓の下から、生徒たちに共鳴建築の基礎を熱心に指導するマリエルの明るい声が聞こえてくる。

 彼女は今やアカデミーの主任講師として、自信に満ちた顔つきになっていた。

 机の上には、王都の王立調べ支援庁から届いた分厚い報告書が置かれている。

 初代長官に就任したリュシアンが、父である元公爵が歪めた制度の残骸を一つ一つ解体し、新しい基準を策定するための経過報告だ。

 世界は、確実に良い方向へと歯車を回し始めている。


「……また風に当たっているのか。体を冷やすぞ」


 背後の扉が開き、呆れたような、それでいて深い甘さをはらんだ低い声が響いた。

 振り返ると、シリルが湯気を立てる二つのティーカップを載せた銀の盆を持って立っている。

 近衛の制服ではなく、動きやすいダークグレーの詰め襟に身を包んだその姿は、すっかりアカデミーの護衛兼カウンセラーとして板についていた。

 無表情だったかつての顔つきは消え去り、エリオを見るその藍色の瞳には、常に穏やかな熱が宿っている。


「春の風だから冷たくないよ。それに、ずっと机に向かっていたから少し息抜きをしたくて」

「昼食も半分しか食べていなかっただろう。帳簿の確認は俺が引き継ぐから、お前は少し休め」


 シリルは盆を机の隅に置き、エリオが座っていた椅子に手をかけた。

 その手際の良い生活管理ぶりに、エリオは内心で苦笑する。


『食事の量から睡眠時間まで完璧に把握して、少しでも無理をしようとするとすぐに飛んでくる。前世の私が見たら理想の騎士様だと喜んだだろうけど……今はもう、私が当事者なんだ』


 エリオは自分の頬が自然と緩んでいくのを感じながら、シリルが淹れてくれた紅茶のカップを両手で包み込んだ。

 ベルガモットの爽やかな香りが、鼻腔をくすぐる。

 一口飲むと、完璧に計算された温度と甘さが舌に広がった。


「ありがとう、シリル。すごく美味しい」

「……お前の好みの茶葉を、リュシアンに頼んで王都から取り寄せた」


 シリルは少し照れくさそうに視線をそらしながら、自分もカップを口に運んだ。

 彼の中に満ちている癒しの調べは、特別な魔力を行使しなくても、ただそこにいるだけでエリオの疲労を静かに吸い取ってくれる。

 エリオの能力の欠陥だった開花後の精神的な不安定さも、シリルの存在によって見事に克服されていた。

 二人は欠けたピースを埋め合わせるように、完全に調和した合奏を続けている。


◆ ◆ ◆


 夕暮れ時。

 生徒たちが寮へと戻り、アカデミーが静寂に包まれる頃。

 エリオとシリルは、執務室に面した広いバルコニーに並んで立っていた。

 西の空がオレンジ色から深い紫色へとグラデーションを描き、一番星が白く輝き始めている。

 夕暮れの冷気がゆっくりと降りてくるのを感じ、シリルが無言で自分の羽織っていた厚手の外套をエリオの肩にかけた。

 残った温かな体温が、エリオの体を包み込む。


「ねえ、シリル」


 エリオは遠くの山並みを見つめたまま、静かに口を開いた。


「前世の僕はね、ひとりで死んだんだ。狭い仕事机の上に突っ伏して。三日間、誰にも気づかれなかった」


 その言葉に、シリルの肩がかすかに跳ねた。

 異世界から来た魂であることは、長い時間をかけて少しずつ共有してきた事実だ。

 しかし、その最期の詳細を語るのは初めてだった。


「期待に応えなきゃって、ずっと無理をして走ってきた。休むのが怖くて、自分を削り続けた。誰かが助けてくれるのを待っていたはずなのに、誰も近づけないように壁を作っていたのは自分の方だったんだ」


 エリオの声は震えていなかった。

 それはもう過ぎ去った遠い記憶であり、今の自分を形作る大切な傷跡の一部だからだ。

 シリルの大きな手が、バルコニーの手すりを握るエリオの手に重なった。

 冷えかけていた指先に、心地よい熱が流れ込んでくる。

 シリルは無言のままエリオの肩を抱き寄せ、自分の胸の中にすっぽりと閉じ込めた。

 鍛え上げられた胸板から、力強い心音と、低く響く癒しの旋律が伝わってくる。


「でも、今は違う」


 エリオはシリルの胸に額を預け、その背中に腕を回した。

 軍服の硬い布地ではなく、柔らかな綿の感触が指先に触れる。


「今の僕には、見つけてくれた人がいる。僕の弱いところも、全部受け止めてくれる人が」

「……当たり前だ」


 シリルの声が、頭上から降ってきた。

 その腕の力がさらに強まり、エリオを絶対に離さないという確固たる意志を示している。

 彼の手がエリオの灰銀の髪をそっと撫でた。


「もう二度と、お前をひとりにはさせない。お前が自分を削ろうとするなら、俺が何度でもその隙間を埋める。……これは近衛の命令じゃなく、俺自身の誓いだ」


 シリルの言葉は不器用で、しかしどんな甘い言葉よりも真っ直ぐにエリオの心臓を貫いた。

 胸の奥で、魂が救われるような深い解放感が弾ける。

 これ以上の幸せなど、どんなに腕の立つ作家であっても書き描くことはできない。

 ここは物語の結末ではなく、二人で生きていく現実の始まりなのだから。


 その夜。

 シリルが寝室へと向かった後、エリオは執務室に残り、引き出しの奥から真新しい革装丁のノートを取り出した。

 ペン先にインクを浸し、真っ白なページを開く。

 もう、誰かに急かされる締め切りもない。

 見知らぬ人々の期待に怯える必要もない。

 これはただ、自分がこの世界で歩んできた軌跡と、大切な人たちとの日々を忘れないための個人的な記録だ。


 ランプの温かい光の下で、エリオはペンの走るかすかな音を部屋に響かせた。

 最初の一行を、静かな微笑みとともに書き記す。


 ――これは、二度の人生で初めて、誰かに聴いてもらえた男の話だ。

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